違法妊婦スナッフ 篇
一日目
壱 層雲峡、石の女
「違法妊婦のスナッフ・フィルムが出回っている。調査に協力してくれ」
雪深い山中。細流を挟み、凛々しい軍服の女と、胡乱な着流しの男が向かい合っていた。
東岸の男が、半開きの眼を擦りながら答える。
「久方振りに訪ねてきて、いきなり何かの。その、すな……なんとかは」
「スナッフ・フィルム。殺人記録映画だ」
西岸の女が返した不穏な言葉に似合わず、辺りは白く輝いていた。
沢に射し込む冬の蒼白い日光が、男の背後に
「説明する時間が惜しい。暗くなる前に司令部へ戻りたいんだ。歩きながら話そう」
女は綴糸で綴じた冊子を投げて男に渡し、沢を下りはじめた。両岸には柱状節理の岩壁が
男は受け取った冊子を開いた。一葉の写真が貼り付けてある。白黒で酷く荒い。手足を椅子に縛り付けられた女が写っている。大きく裂けた腹には女の生首が
冊子を懐に収めると、男も歩き出し、川に素足を踏み入れた。擦り切れた浅葱の着物と、薄藍の襦袢も裾が浸る。
「うう、冷たい」
「裸足じゃないか。この寒いのに」
顔だけ一瞬振り向いた女が言った。前下がりに肩の上で切り揃えた髪も一緒に翻る。
「だから寝ておったというのに。叩き起こしたのはケエテ、お主であろう」
女の名は
「ぼくは叩き起こしてなどいない。君が勝手に起きてきたのではないか。それより話の続きだが――――」
男はなにか言葉を発しかけたが、
「どうも最近、札幌郡内で違法妊婦のスナッフ・フィルムが出回っていてな。映画とは言ったが、個人用の8mmフィルムで撮影された、拷問と殺人の様子が記録されているだけのものだ」
曲がった先には森があった。
「警察の仕事ではなかろうか」
頭上からの問いかけに、
「この件を追っていた警官が不審死してな」
さっと厚い雲が太陽を覆い隠した。山の天気は変わりやすい。まだ日の高い時間ではあるが、大樹と雪で閉ざされた森は昏くなった。さらに、軍帽の鍔が影を落として、
「そこで、軍からも協力を出すということになった。最初はもちろん憲兵で、という話になったが、そんな折に妙な」
ごう、と風が強く吹いた。下からは地吹雪が舞い、上からは樹に積もった雪が舞い落ち、
「――――妙なフィルムが見付かった。最後の頁を見てくれ」
男は動きを止め、懐から冊子を取り出し最終頁を開いた。
先程の写真同様、女が椅子に縛り付けられている。腹は臨月近くと見えるほど膨れている。虚ろな目から涙のように血を流し、鼻から流れた血は口からのものと合流して太い流れを下顎に作っていた。
服は長襦袢型の患者衣で、先の女のように破れてはなかったが、かわりに全身至るところが血で染まっていた。特に脚の間を中心に下半身の服は殆ど血で濡れそぼり、両足は床の血溜まりに浸かっていた。
「其れが無ければ、伝染病調査班までお鉢が回ってこなかったかもしれないのだが」
男は再び冊子を懐に仕舞い、一瞬止まった遅れを取り戻すかのように速度を上げて枝々を渡りはじめた。
雪が厚く積もるエゾマツの枝に飛び移るも、衝撃で上の枝から雪塊が落ち、ぼすりと男の頭に直撃した。男は大儀そうに頭を振って雪をほろう。頭の形に沿った丸い短髪を、粉雪がするりと滑り落ちた。
そうして暫く進む内、がさり、森の中で音が鳴った。斜め前方、獣道の脇。周囲に人の気配はなかった。真冬にここまで来る者は多くない。
それもそのはず、二人が進むは大雪山――北海道の中央に鎮座する、島の屋根たる大連峰――の北麓を岩屏風で飾る幽渓、その名も層雲峡。人のみならず、獣の気配も薄い沈黙の雪山。
エゾマツの枝葉を透かして、灰色の影が動いた。羆にしては小さいが四つ足の獣というより雪上を転がる球体のようにも見える。森は只管深く、果たして鬼が出るか蛇が出るか。
――ぼふり。エゾマツの隙間から、灰色の毛玉が飛び出した。
つぶらな瞳の狸と
「狸か」手元の銃を撫でながら言葉を続ける。
「羆にでも遭遇したら大変と思って、念の為持ってきた。海外から取り寄せた自動小銃だ。これならぼくでも当たる。撃たずに済むのが一番だが」
「さて、どこまで話したか。とにかく警官の死に様にもスナッフフィルムにも不審な点が多くてな。そういうわけでメカクレ、君にも協力してもらいたい」
「よりにもよってこんな寒い時期に……」
メカクレと呼ばれた男は、枝の上で肩を震わせながら呟いた。
「そう言うな。車まで戻れば暖かいぞ。最近暖房を付けたんだ」
――どさり。
背後で、何かが雪の上に落ちたような音がした。
ひょろりと細長い体躯を猫背に丸め、俯いた顔、その肌は皺一つなく陶器人形を思わせる。硝子質の髪を透かして、右眼だけが覗く。大きな瞳孔は森より昏く、濃い榛の縁取りがぎらり、金環日蝕のように輝く――――
「どうした。急に降りてきて」
素足で雪を掻き分けながら、メカクレが
メカクレは長い腕をゆらりと伸ばし、
*****
車の窓から見える外は凹凸が多い山道で、左右に雪がうず高く積り、道幅は辛うじて車一台分といったところ。
「酷い目に遭った。こんなに肝が冷えたのは、南洋で壕の近くに爆弾が落ちたとき以来だ」
片手で車のハンドルを握る
「滑り落ちて、歩いて、また滑り落ちて……おかげで全身雪まみれだ」
「道を急ぐと云ったのはお主であろう」
助手席に胡座で座るメカクレが言い、続けて「ふう、
「なんだ、ミドリもいたのか」
蛇の身体は緑がかった青で、うっすら縞模様に見える濃淡がある。薄い油膜を張ったような鱗が輝く。
「ずっと居ったぞ。漸く身体が温まってきて目を覚ましたようだ」
「そうか。すまない。眠りを邪魔してしまって」
「相変わらずいい色艶だな。〝アオ〟ダイショウと言いつつ殆ど土色の個体もいるし、ここまで綺麗な青は中々見ない……蛇の飼育指南書に書いてあったのだが、北海道は本州に比べて青味の強い個体が多いらしい。特に道東でその傾向が顕著だとか」
メカクレがくぁ、と小さく欠伸をし、ミドリも続いた。
「話の続きだ。最初はただの噂だったのだ。個人で映写機を持っているような好事家たちの間で、違法妊婦のスナッフ・フィルムが出回っているらしい、と」
メカクレは背中を丸めてうつらうつらしており、撫で肩から伸びた長い首の先で、車の動きに合わせて頭が揺れる。いつの間にかミドリはどこかへ引っ込んだようだった。
「当初は個人もしくは同好の者数人で集まって見ていたようだが、そのうち金を取って上映会をする輩が現れ、金銭トラブルから警察の厄介になる者が出た。それで警察が捜査を始めたのだが、奇妙なことに、フィルムの出処を辿ると必ず『ポストに入っていた』と主張する者に行き着いた。他の者は彼らから譲り受けた、或いは買ったと証言した」
外は少しずつ樹々の密度が下がりはじめている。人里に近付きつつあった。
運転席のドア・ウィンドウから光が射し、
「フィルムの所持者は警察が厳しく調べたが、全員の勾留中に
左手に防風林が現れた。樹が庇になり、幾分眩しさが和らぐ。
助手席のメカクレは先ほどから俯いたままで、高くはないが形の整った忘れ鼻から、寝息が漏れている。しかし、車がどすん、と大きく揺れると顔を上げた。根雪に覆われた未舗装の道路は、処々に大きな凹みがあるのであった。
「暫く掛かるかのう」
「そうだな。旭川までまだ一時間以上、そのまま市街は通り抜けて、上川道路へ出る。そこからが少し長い。上川道路を暫く南西に下って、札幌まではさらに三時間は掛かる」
フロント・ガラスの先は川沿いにゆるく曲がる見通しのいい道で、他に車の影もない。
「先程、警官が不審死した、と云っただろう。
メカクレは舌を出し入れしはじめた。二股に別れた先それぞれが空に漂う微粒子を捉え、口蓋の裏側、二股に別れた窪みへ運ぶ。匂いの左右差から、獲物の隠れる方角を割り出す仕組みだ。
顔をゆっくりと左へ向ける。青っぽいグリーン・ローズのコロンで隠し切れない、消毒液と機械油が入り混じる匂い――――彼を冬の睡りから醒ました、森にない筈のもの。それからその奥に、膚の匂い。
「次の一人は喉を握りつぶされていた。成人男性の手形と思しき跡があり、指先が深く刺さったような孔も空いていた。人間であれば途轍もない筋力だ。怪力と云う点ではフィルムの方でも」――――
メカクレが助手席から身を乗り出し、身体をぐいと
「どうした」
「相変わらず、
メカクレの声は抑揚が小さく、低いのにどこか上擦る奇妙な響きだった。しかしけして不快でもなく、喩えれば、異郷で聞く耳慣れぬ楽器のような風情。
「身体が温まったら、次は腹が減った」メカクレは軍衣の襟に手を掛け、留め金を外す。
「待て、司令部に着いたら食べる物はある」
「待てぬ。わしはもう
メカクレの口が大きく開かれ、小さな顎に似合わぬ鋭い牙が覗いた。話す分には目立たぬこの牙、大口開いたときだけ筋肉の動きで飛び出す仕組みだった。解き放たれた今、牙は
じゅるり、じゅるりと音を立ててメカクレが血を啜る。
じゅふ、じゅるり。首元からの音は続く。
「おい、もう十分だろう」
「待て、本当に――――」
エゾシカを跳ね飛ばした
「夏なら間に合ったかもしれなかったが……冬だとどうにも……急ブレーキで車がひっくり返ったりするからな……」
ぶつくさ呟きながら
「バンパーが凹んでしまった」
そう言って運転席に戻ると、今度は車を後進させはじめた。
「戻るのか」
「鹿が道に少しはみ出している。他の車がぶつかると危ないから片付けよう」
「まだ息がある。楽にしてやろう。
そう言って
「妙だ。なあ、この腹を見てくれ」
メカクレは助手席で丸くなっていたが、ゆっくり運転席に寄り、窓から顔を出した。頬に寒風が当たり、ぶるりと震えた。
「
エゾシカの下腹部は、馬鈴薯を詰めた麻袋のように膨らんでいた。
「やはり硬い。中を見てみよう」
エゾシカの下腹部に、一直線の切れ込みが出来た。メスを置き、両手で薄い皮下脂肪ごと毛皮を拡げると、半透明の筋膜を透かして薄桃色の筋肉が見える。筋肉は避けて正中にある筋膜の白線にメスで切れ目を入れ、鋏で切り開いていく。
筋膜を開き終えると、淡黄に透けて張り詰めた腹膜が現れた。
「やはり子宮か。では異物の誤飲ではなさそうだ」
「人間と、軍用犬の帝王切開なら見学したことがある」
特に子宮が薄くなった箇所に差し掛かり、メスの先が硬いものに当たった。と同時に、ぶち、と音を立て、子宮が自ずから裂けはじめた。ぶちゅり、ばちっ。横に目一杯開き切ると、粘膜に覆われた灰褐色の塊が顕になった。それは、石膏で作った不格好な仔鹿の頭のように見えた。
「胎児だ。石灰化している」
表面を
「人間でも、死産した胎児が石灰化して母体に長期間残留した症例がある」
手の上の歪な楕円。丸まった無毛の仔鹿のような格好だが、折り曲げた脚は胴と癒着して全体が硬い灰褐色の石で覆われている。
再び厚い雲が空を覆いはじめた。一気に辺りは暗くなり、灰の雲が、同じ灰色の雪を撒く。母鹿の腹の中、肉の赤に雪の華が咲いた。
「降ってきたな。急ごう」
「この分なら明るいうちに
運転席に座った
「つきさむ、と云うのが、お主の住む街だったかの」
「そうだ。ぼくの家と、軍の司令部も月寒にある。着いたらまともな食事を摂って、フィルムを見よう」
降る雪は大きさを増し、今や綿毛のよう。見る間に地上の総てが覆われていく。薄赤混じった雌鹿も傍らの石も、既に殆ど灰色だった。
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