違法妊婦スナッフ 篇

一日目

壱 層雲峡、石の女

「違法妊婦のスナッフ・フィルムが出回っている。調査に協力してくれ」


 雪深い山中。細流さいりゅうを挟み、凛々しい軍服の女と、胡乱うろんな着流しの男が向かい合っていた。

 東岸の男が、半開きの眼をこすりながら答える。

久方ひさかた振りに訪ねてきて、いきなり何かの。その、すな……なんとかは」

「スナッフ・フィルム。殺人記録映画だ」

 西岸の女が返した不穏な言葉に似合わず、辺りは白く輝いていた。

 沢に射し込む冬の蒼白あおじろい日光が、男の背後にそびえる白銀の氷瀑ひょうばくを照らし、滝から流れ出る川の水面みなもは冷たげにきらめく。氷の滝とはいえ氷結しているのは表面だけで、その下を流れる水が谷間に細い川を作っているのであった。

「説明する時間が惜しい。暗くなる前に司令部へ戻りたいんだ。歩きながら話そう」

 女は綴糸つづりいとで綴じた冊子を男に向かって放ると、沢を下りはじめた。両岸には柱状節理ちゅうじょうせつりの岩壁が屹立きつりつし、狭い沢をし潰さんばかり。巨人が石柱を繋ぎ合わせて作ったとも錯覚する、垂直な割れ目を持つ岩の連なりは、そのじつ、火山活動が生み出したものであった。

 男は投げ渡された冊子を受取り開いた。一葉いちようの写真が貼り付けてある。白黒で酷く荒い。手足を椅子に縛り付けられた女が写っている。大きく裂けた腹には女の生首がはまっており、元々そこに収まっていたであろう胎児は、女の首の上にある。胎児は全身が液体――血のように見える――にまみれていて、腹に突き立ったナイフで首の上に固定されている。女の服は腹を中心に千切り取ったようにぼろぼろで、胸から上と腿の半ばより下を残すのみだった。

 冊子を懐に収めると、男も歩き出し、川にを踏み入れた。裾が擦り切れた浅葱あさぎの着物と、薄藍うすあい襦袢じゅばんが水にひたる。

「うゝ、冷たい」

「裸足じゃないか。この寒いのに」

 顔だけ一瞬振り向いた女が言った。前下がりに肩の上で切り揃えた髪も一緒にひるがえる。

「だから寝ておったというのに。叩き起こしたのはケエテ、お主であろう」

 女の名は荊凍ケイテと言った。灰の金髪、みどりの瞳。青年将校然とした仕立ての良い外套がいとうに軍刀をき、革の背嚢はいのうを背負っている。

「ぼくは叩き起こしてなどいない。君が勝手に起きてきたのではないか。それより話の続きだが――――」

 男はなにか言葉を発しかけたが、荊凍ケイテが構わず話し続けるため、そのまま口を閉じた。その唇は薄く、死人のように血色がない。青磁せいじの髪に、瞳ははしばみ。長い前髪が左眼を隠し、見える右目は眠たげで、薄い瞼が大きな眼の半分を覆っている。

「どうも最近、札幌郡内で違法妊婦のスナッフ・フィルムが出回っていてな。映画とは言ったが、個人用の8mmミリフィルムで撮影された、拷問と殺人の様子が記録されているだけのものだ」

 荊凍ケイテは話しながらも雪の積もる岸を歩く。蛇行する川に沿って岩壁は張り出し、かと思うと引っ込み、さながら石柱を連ねた屏風びょうぶのよう。その石屏風いしびょうぶの陰に荊凍ケイテが消えた。川をわたり終えた男も後を追って岩壁の裏へ回る。

 曲がった先には、針葉樹と冬枯れの広葉樹が入り交じる、深い森があった。エゾマツの巨木が、来る者を拒む門のように雪で重くなった枝を垂らしているが、荊凍ケイテは迷わず足を踏み入れた。雪が入らぬよう覆いをした乗馬靴で、膝まで埋まる深雪ふかゆきを漕いでいく。雪は軽く見えても、積もると重い。さらに雪の下には隈笹クマザサが潜んでおり、固い葉や茎が足を取るため、歩く者の体力を削る。並の兵士なら青息吐息の険路けんろだが、荊凍ケイテの顔に疲労は見えない。

 うしろに続く男は、葉の落ちた白樺の枝に取り付くとひらり登った。浅葱あさぎの着物と薄藍うすあいの襦袢がはためく。氷点下の山中に羽織も無しの寒々しい装いで、枝を伝って樹々きぎを渡り、眼下の荊凍ケイテを追う。

「警察の仕事ではなかろうか」

 頭上からの問いかけに、荊凍ケイテが一段低めた声で返す。

「この件を追っていた警官が不審死してな」

 サッと厚い雲が太陽を覆った。山の天気は変わりやすい。まだ日の高い時間だが、大樹と雪で閉ざされた森はくらくなった。さらに、軍帽のつばが影を落として、荊凍ケイテの表情は測りにくい。銀糸刺繍ぎんしししゅうかたどった蚕蛾カイコガ帽章ぼうしょうが、鈍く輝く。

「そういう訳で、軍からも協力を出すということになった。最初はもちろん憲兵で、という話になったが、そんな折に妙な」――

 ごう、と風が強く吹いた。下からは地吹雪じふぶきが舞い、上からは樹に積もった雪が舞い落ち、荊凍ケイテの眼前では灰色がかった金髪アッシュ・ブロンドが風に舞う。上下左右も判らぬ白と灰の視界。

「――妙なフィルムが見付かった。最後のページを見てくれ」

 男は動きを止め、懐から冊子を取り出し最終ページを開いた。

 先程の写真同様、女が椅子に縛り付けられている。服は長襦袢型の患者衣で、腹は臨月近くと見えるほど膨れている。虚ろな目から涙のように血を流し、鼻から流れた血は口からのものと合流して太い流れを下顎に作っている。血は顔だけではなく服の至るところも染め、特に脚の間を中心に下半身は濡れそぼっている。黒く濡れた裾から伸びる両足は、床の血溜まりに浸かっていた。

「それが無ければ、伝染病調査班までお鉢が回ってこなかったかもしれないのだが」

 荊凍ケイテは歩きながら言った。男は再び冊子を懐に仕舞い、一瞬止まった遅れを取り戻すかのように、速度を上げて枝々えだえだを渡りはじめた。

 男は雪が厚く積もるエゾマツの枝に飛び移るも、衝撃で上の枝から雪塊せっかいが落ち、ぼすりと男の頭に直撃した。男は大儀そうに頭を振って雪をほろう。頭の形に沿った丸い短髪を、粉雪がするりと滑り落ちた。

 そうして暫く進む内、がさり、木立の奥で音が鳴った。進路の斜め前方、獣道の脇。

 周囲に人の気配はなかった。真冬にここまで登る者は多くない。それもそのはず、二人が進むは層雲峡そううんきょう。大雪山――北海道の中央に鎮座する、島の屋根たる大連峰――の北麓ほくろく岩屏風いわびょうぶで飾る幽渓ゆうけいだった。人のみならず、獣の気配も薄い、沈黙の雪山。

 荊凍ケイテは足を止め、背負っていた小銃を森へ向けて構えた――冬眠し損ねて気の立ったヒグマでも出てきたら――ごくりと生唾を呑んだ。安全装置のレバーを上げ、切替を全自動フルオートに入れる。がさがさ、きしきし。雪の下で隈笹クマザサこすれる耳障りな音が、静まり返った山中に響く。がさがさ、きしきし、がさり、がさ。

 エゾマツの枝葉を透かして、灰色の影が動いた。羆にしては小さいが、四つ足の獣というより、雪上を転がる球体のようにも見える。森はひたすら深く、果たして鬼が出るか蛇が出るか。荊凍ケイテは息を潜めて眼前の森を凝視していた。自身の呼吸音がやたらと耳につく。吐く息は白い――この白靄しろもやのせいで羆を見落としたりしないだろうか――――

――ぼふり。エゾマツの隙間から、灰色の毛玉が飛び出した。

 荊凍ケイテは一気に脱力し、銃を降ろした。現れたのは、灰褐色はいかっしょくの冬毛で身体が大きく膨れ、ほとんど球体のようになったエゾタヌキだった。

 つぶらな瞳の狸と荊凍ケイテの目が合う。エゾタヌキは暫し荊凍ケイテと見つめ合いながら固まっていたが、やがて辺りを見回したあと、獣道を横切っていった。ふるふると左右に揺れる房状の尻尾が森へ消えていく。荊凍ケイテはふう、と溜息をついた。

「狸か」手元の銃を撫でながら言葉を続ける。

ヒグマにでも遭遇したら大変と思って、念の為持ってきた。海外から取り寄せた自動小銃だ。これならぼくでも当たる。撃たずに済むのが一番だが」

 荊凍ケイテは大きく深呼吸すると、再び歩き出した。

「さて、何処どこまで話したか。とにかく警官の死に様にも、スナッフ・フィルムにも不審な点が多くてな。そういうわけでメカクレ、君にも協力してもらいたい」

「よりにもよってこんな寒い時期に……」

 メカクレと呼ばれた男は、雪が積もったエゾマツの上で肩を震わせながら呟いた。

「そう言うな。車まで戻れば暖かいぞ。最近、暖房を付けたんだ」

 先を歩く荊凍ケイテは、ちょうど崖の上に出たところだった。足元の岸壁は柱状節理ちゅうじょうせつり、また、背後にも更に高い柱状節理ちゅうじょうせつりの岩壁がそびえ、その天辺てっぺんは雲が隠す。山の外から見れば、柱状節理ちゅうじょうせつりが作る段々の中程にいる形だった。

――どさり。

 荊凍ケイテの背後で、何かが雪の上に落ちたような音がした。彼女が足を止めて振り向けば、開けた崖から差し込む一条の光が、獣道に立つメカクレを照らしていた。

 彼はひょろりと細長い体躯たいくを猫背に丸め、うつむいた顔、その肌は皺一つなく、陶器人形を思わせる。硝子質ガラスしつの髪を透かして、右眼だけが覗く。大きな瞳孔は森よりくらく、濃いはしばみの縁取りがぎらり、金環日蝕のように輝く――――

「どうした。急に降りてきて」

 荊凍ケイテの問いかけには答えず、メカクレは素足で雪を掻き分けながら、荊凍ケイテに歩み寄る。薄い唇の隙間からは、細長い舌が伸びている。先端は二股に分かれ、出入りするたび鞭のようにうねり、しゅる、しゅるり、と音を立てる。

 メカクレは長い腕をゆらり荊凍ケイテへ伸ばし、彼女を腰で掴むと、米俵のように肩へ担ぎ上げた。背中で荊凍ケイテが静止するのも聞かずに歩き続け、崖から踏み出した。ぶわり、着物の裾が空気をはらんで膨らむ。メカクレの背で、荊凍ケイテがひゅっと息を呑んだ。そのまま二人は真っ直ぐ落ちていった――垂直の筋目が走る柱状節理を背景に。



*****



 車の窓から見る外は凹凸おうとつが多い山道で、左右に雪がうず高く積り、道幅は辛うじて車一台分といったところ。

「酷い目に遭った。こんなに肝が冷えたのは、南洋で壕の近くに爆弾が落ちたとき以来だ」

 片手で車のハンドルを握る荊凍ケイテは、もう片の手で左耳に掛けた髪を撫で付けた。一粒小さな金剛石コンゴウセキ耳朶ジダで輝く。右の前髪は横に流し、アッシュ・ブロンドの髪が数筋、右眼に掛かる。

「落ちて、歩いて、滑り落ちて……おかげで全身雪まみれだ」

 荊凍ケイテが軽く頭を振れば、はらはらと雪が落ち、将校用軍衣の肩へ乗った。後部座席に置かれた外套がいとうと軍帽は、くすんだ青緑の布地だが、雪で白くなっている。

「道を急ぐと云ったのはお主であろう」

 助手席で胡座あぐらをかくメカクレが言い、続けて「ふう、温いぬくい温い。生き返る」と。荊凍ケイテは眉をひそめて横目で助手席を見遣ったが、メカクレの袖からすっと青蛇が顔を出したのを見ると、眉根を開いた。

「なんだ、ミドリもいたのか」

 蛇の身体は緑がかった青で、うっすら縞模様に見える濃淡があり、薄い油膜を張ったような鱗が輝いている。

「ずっと居ったぞ。ようやく身体が温まって目を覚ましたようだのう」

「そうか。すまない。眠りを邪魔してしまって」

 荊凍ケイテがミドリの顔を見ながら言った。メカクレは首を傾げ「わしのねむりは」と呟いたが、荊凍ケイテは独り言のように話し続ける。

「相変わらず良い色艶だな。〝アオ〟ダイショウと言いつゝほとんど土色の個体もいるし、ここまで綺麗な青は中々見ない……蛇の飼育指南書によれば、北海道は本州に比べて青味の強い個体が多いらしい。特に道東でその傾向が顕著だとか」

 メカクレがくぁ、と小さく欠伸をし、ミドリも続いた。荊凍ケイテは顔を前方へ向け直し、語り始めた。艶のあるハスキー・ボイスが車内に響く。

「話の続きだ。最初は只の噂だったのだ。個人で映写機を持っているような好事家こうずかたちの間で、違法妊婦のスナッフ・フィルムが出回っているらしい、と」

 メカクレは背中を丸めて早くもうつらうつらしており、撫で肩から伸びた長い首の先で、小さな頭が車の動きに合わせて揺れる。いつの間にかミドリはどこかへ引っ込んだようだった。

「当初は個人もしくは同好の者で集まって観るだけだったようだが、そのうち金を取って上映会をするやからが現れ、金銭トラブルから警察の厄介になる者が出た。それがきっかけで警察が捜査を始めたのだが、奇妙なことに、フィルムの出処を辿ると必ず『ポストに入っていた』と主張する者に行き着いた。他の者は彼らから譲り受けた、或いは買ったと証言した」

 車の外は樹々きぎの密度が下がりはじめていた。人里に近付きつつあった。まばらになった樹の間を縫って、運転席のドア・ウィンドウから陽が射し、荊凍ケイテが目を細めた。山吹の光に照らされて、すらり通った鼻筋があきらかになり、高い頬の上で和毛にこげが金色に輝く。

 冬の北海道は、正午でも太陽が高くは昇らない。冬至を過ぎて一月ひとつき以上、されど冬至の東京より陽は低かった。西へ向かう荊凍ケイテの車は左ハンドルで、南の低い空から運転席に陽が刺さる。細めた目のまま運転手は続きを語る。

「フィルムの所持者は警察が厳しく調べたが、全員の勾留中にが別の家に投函されたりもしてな。共犯者が紛れている可能性はあるが、少なくとも実行犯は別にいるとわかった。更に、ポストに入っていたと証言した者は皆、映画愛好家向けの雑誌に、文通やフィルム交換相手の募集広告を出していた。つまり、誰でも住所を知り得たわけだ」

 左手にエゾマツの防風林が現れた。樹がひさしになり、いくらか眩しさが和らぐ。荊凍ケイテは細めていた目を開いた。巴旦杏アーモンド型の大きな眼に光が射し、オリーブ・グリーンの瞳が輝く。

 一方、助手席のメカクレは先ほどから顔を伏せたままで、高くはないが形の整った忘れ鼻から、寝息が漏れている。しかし、車がどすん、と大きく揺れると顔を上げた。雪に覆われた未舗装の道路は、処々ところどころに深いわだちや凹凸があるのであった。

 メカクレは大儀そうに「まだしばらく掛かるかのう」と言った。

「そうだな。旭川あさひかわまで一時間以上、そのまゝ市街地は通り抜けて、上川かみかわ道路へ出る。其処そこからが少し長い。上川かみかわ道路を暫く南西に下って、札幌さっぽろまではさらに三時間は掛かる」

 フロント・ガラスの先は、右手を流れる川沿いにゆるく道がカーブしていて見通しが利き、他に車の影もない。荊凍ケイテはアクセル・ペダルを踏み込んだ。

「先程、警官が不審死した、と云っただろう。の登場と前後して、まず二人。聞き込みの帰りだったそうだ。一人は殆ど首が千切れかけ、もう一人は人相が判らないほど顔が抉れていた。検死官の見立みたてでは野犬の仕業とのことだ。武装した警官が二人揃って犬を相手に殉職とは珍しいが、この時点では不幸な事故という扱いだった」

 メカクレは俯いたまま舌を出し入れしはじめた。二股に別れた先端それぞれがくうに漂う微粒子を捉え、口蓋コウガイの裏側、二股に別れた窪みへ運ぶ。匂いの左右差から、獲物の隠れる方角を割り出す仕組みだった。顔をゆっくりと左へ向ける。青っぽいグリーン・ローズのコロンで隠し切れない、消毒液と機械あぶらが入り混じる匂い――彼を冬のねむりからました、森にない筈のもの。それからその奥に、はだの匂い。香気こうきの主は視線を前方の道に注いでおり、助手席の方は見ていない。

「次の一人は喉を握り潰されていた。くびには成人男性の手形とおぼしき跡があり、指先が深く刺さったようなあなも空いていた。人間であれば途轍とてつもない筋力だ。怪力と云う点ではフィルムの方でも」――――

 助手席からメカクレが、ぐいと身を乗り出し、身体を荊凍ケイテに寄せた。長い舌を彼女へ向けて出入りさせる。

「どうした」

「相変わらず、い匂い」

 メカクレの声は抑揚よくようが小さく、低いのにどこか上擦うわずる奇妙な響きだった。しかしけして不快でもなく、たとえれば、異郷いきょうで聞く耳慣れぬ楽器のような風情ふぜい

「身体が温まったら、次は腹が減った」荊凍ケイテ軍衣ぐんいへ手を伸ばし、襟の留金とめがねを外した。

「待て、司令部に着いたら食べ物はある」

 荊凍ケイテが制するのも構わず、メカクレは彼女のシャツのボタンも外し、生白いくびあらわにした。

「待てぬ。わしはもう二月ふたつき、何も喰っておらぬ」

 メカクレの口が大きく開かれ、小さな顎に似合わぬ鋭い牙がのぞいた。会話する分には目立たぬこの牙、大口開けたときのみ筋肉のはたらきで飛び出す仕組みだった。解き放たれた今、牙は荊凍ケイテの首筋に沈んだ。

 荊凍ケイテかすかに声を漏らした。一瞬の鋭い痛みののち、首筋はしびれ、指先がすっと冷える感覚。

 じゅるり、じゅるりと音を立ててメカクレが血をすする。

 荊凍ケイテは浅く息を吸い、細く長く吐き出す。ハンドルの上に置いた左手、人差し指の先がぴくり、と震えた。首から指先まで、細い氷の糸が通るようにしびれが広がる。

 じゅふ、じゅるり。首元からの音は続く。

「おい、もう十分だろう」

 荊凍ケイテがメカクレに声を掛けた瞬間、車の前方、脇の林からエゾシカが飛び出してきた。

「待て、本当に――――」

 荊凍ケイテはアクセルから足を離し、静かにブレーキを踏んだ。しかし間に合わず車はエゾシカと衝突し、哀れな被害者は前方へ撥ね飛ばされていった。車は大きく揺れ、荊凍ケイテが小さくうめく。メカクレは荊凍ケイテの首元から顔を離すと、するり助手席へ戻った。ちゅるり、口のに残った血を舐め取るのも忘れなかった。

 エゾシカを跳ね飛ばした後も荊凍ケイテはゆっくりブレーキを踏み続け、ようやく車が止まったのは、エゾシカが落ちた場所からだいぶ進んだ場所だった。

 荊凍ケイテが大きく溜息をつく。

「夏なら間に合ったかもしれなかったが……冬だと、どうにも……急ブレーキで車がひっくり返ったりするからな……」

 ぶつくさ呟きながら荊凍ケイテは車を降り、車や周囲の様子を確かめた。

「バンパーが凹んでしまった」

 そう言って運転席に戻ると、今度は車を後進させはじめた。

「戻るのか」

「鹿が道にはみ出している。他の車がぶつかると危ないから片付けよう」

 ルーム・ミラーの中で、エゾシカは左の路肩に倒れていた。道路脇は雪の壁が出来ている所も多いが、このあたりは道の脇に用水路でもあるようで、路肩は落ち窪んでおり、そこへ躰がほとんど落ちている形だった。荊凍ケイテは車をエゾシカの真横へ付けた。ハンドルを回して窓を下げる。見れば、鹿は前脚まえあしがあらぬ方向に捻じ曲がり、後脚うしろあしは道路へ投げ出されて、たしかに車の邪魔にはなりそうだった。

 荊凍ケイテは車を降りると、後ろ手で車を支えにしながら足でエゾシカの脚を押しはじめた。エゾシカは本州の鹿より大型で、その分、重量もある。荊凍ケイテが鹿を押す反動で車が揺れる。何度か体重を掛けて押し出すと、ようやく躰全体が路肩に落ちた。その衝撃か、エゾシカがごぽ、と喉を鳴らして血を吐いた。

「まだ息があったようだ。楽にしてやろう。ヒグマへの備えだったのだが、鹿とは」

 そう言って荊凍ケイテは後部座席から小銃を取り出した。安全装置のレバーを上げ、切替が半自動セミオートに入っていることを確認すると、エゾシカの頭へ二発撃った。辺りに血と硝煙の香りが漂う。エゾシカを見下ろしながら荊凍ケイテが呟く。

「妙だ。なあ、この腹を見てくれ」

 メカクレは助手席で丸くなっていたが、ゆっくり運転席に寄り、窓から顔を出した。彼の頬に寒風が当たり、ぶるりと肩を震わせた。

ツノが無い。仔を宿したメスであろう」

 仰向けに転がったエゾシカの下腹部は、馬鈴薯バレイショを詰めた麻袋のように膨らんでいた。荊凍ケイテは「胎児にしてはどうもゴツゴツしている様な」と言い、軍靴の爪先で腹を小突いた。

「やはり硬い。中を見てみよう」

 荊凍ケイテは後部座席の扉を開け、蝦蟇口がまぐちの大きな革鞄からマスクとゴム手袋を取り出して装着した。次いで手術用具を納めた外科のうを取り出し、雌鹿めじかの元へ戻った。しゃがみ込んで雌鹿の腹を改める。指で押すと、羊水で張り詰めたような弾力もなく、見た目の通りに硬い。皮膚の下に石が詰まっているかのようだった。

 荊凍ケイテは雌鹿の腹を、真ん中から縦に切り始めた。だらりと血が流れ、辺りの雪が赤く染まっていく。血の匂いも一層濃くなった。

 雌鹿の下腹部に、一直線の切れ込みが出来た。荊凍ケイテはメスを置き、両手で薄い皮下脂肪ごと毛皮を拡げた。半透明の筋膜きんまくを透かして暗紅色の筋肉が見える。筋肉が下にある場所はけて、正中にある筋膜の白線部分にメスで切れ目を入れ、ハサミで切り開いていく。

 筋膜を開き終えると、淡黄色たんおうしょくに透けて張り詰めた腹膜ふくまくが現れた。鑷子ピンセットで腹膜をつまみ上げ鋏で切っていくと、暗紫色に鬱血うっけつした子宮が露出した。表面は内側の凹凸に押されて薄く伸び、触れるとやはり硬かった。

「やはり子宮か。では異物の誤飲ではなさそうだ」

 荊凍ケイテは再びメスを持ち、子宮の下部を横に切り始めた。

「人間と、軍用犬の帝王切開なら見学したことがある」

 特に子宮が薄くなった箇所に差し掛かり、メスの先が硬いものに当たった。と同時に、ぶち、と音を立て、子宮がおのずから裂けだした。ぶちゅり、ばちっ。目一杯横に開き切ると、粘膜に覆われた灰褐色の塊があらわになった。それは、石膏セッコウで作った不格好な仔鹿の頭のような様相だった。

「胎児だ。石灰化している」

 低い声で荊凍ケイテが呟いた。表面を鑷子ピンセットの先で引っ掻くと、がり、と音がした。

「人間でも、死産の胎児が石灰化して、長期間、母胎に残留した症例がある」

 子宮の切れ目をぐるりとU字に延長して大きく開くと、荊凍ケイテは中に手を入れて胎児を取り上げた。血混じりの粘液がへそのように糸を引いたが、臍の緒自体は既に腐り落ちたのか、見当たらなかった。

 荊凍ケイテは、てのひらいびつな楕円を載せて顔の前に掲げた。丸まった無毛の仔鹿のような格好だが、折り曲げた脚は胴と癒着して、全体が硬い灰褐色の石で覆われている。荊凍ケイテは石塊――前衛彫刻のようにも、古代の祭具にも見える――を一頻ひとしきり眺めすがめつしたのち、母鹿の傍らに置いた。

 再び厚い雲が空を覆った。一気に辺りは暗くなり、灰色の雲が、同じ色の雪を地上へきはじめる。母鹿のはらの中、肉の赤に雪のはなが咲いた。

「降ってきたな。急ごう」

 荊凍ケイテは足元の雪で手袋と手術器具の血を拭い、立ち上がった。車へ戻り、手袋は裏返して縛ると後部座席の足元に、雪で濡れた手術器具はガーゼに包んで椅子の上へ置いた。

「この分なら明るいうちに月寒つきさむへ着きそうだが、もし吹雪ふぶいてしまえば視界が良くない」

 運転席に座った荊凍ケイテが車を出す。道の左右を確かめれば、人も車も、獣の影もない。曇天の下でちらちらと小雪が舞う、ばくとした灰色の冬景色。

「つきさむ、と云うのが、お主の住む街だったかの」

「そうだ。ぼくの家と、軍の司令部も月寒にある。着いたらまともな食事を摂って、フィルムを見よう」

 降る雪は徐々に大きさを増し、今や綿毛のよう。見る間に地上のすべてが覆われていく。薄紅うすべに混じった雌鹿めじかも、傍らの石も、既にほとんど灰色だった。

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