違法妊婦スナッフ 篇

一日目

壱 層雲峡、石の女

「違法妊婦のスナッフ・フィルムが出回っている。調査に協力してくれ」


 雪深い山中。細流を挟み、凛々しい軍服の女と、胡乱な着流しの男が向かい合っていた。


 東岸の男が、半開きの眼を擦りながら答える。

「久方振りに訪ねてきて、いきなり何かの。その、すな……なんとかは」

「スナッフ・フィルム。殺人記録映画だ」

 西岸の女が返した不穏な言葉に似合わず、辺りは白く輝いていた。

 沢に射し込む冬の蒼白い日光が、男の背後にそびえる白銀の氷瀑を照らしている。氷の滝とはいえ氷結しているのは表面だけで、裏を流れる水が細い川を作り、水面は冷たげにきらめく。

「説明する時間が惜しい。暗くなる前に司令部へ戻りたいんだ。歩きながら話そう」

 女は綴糸で綴じた冊子を投げて男に渡し、沢を下りはじめた。両岸には柱状節理の岩壁が屹立きつりつし、狭い沢を圧し潰さんばかり。巨人が石柱を繋ぎ合わせて作ったとも錯覚する、垂直な割れ目を持つ岩は、その実、火山活動が生み出したものであった。

 男は受け取った冊子を開いた。一葉の写真が貼り付けてある。白黒で酷く荒い。手足を椅子に縛り付けられた女が写っている。大きく裂けた腹には女の生首がはまっており、元々そこに収まっていたであろう胎児は、女の首の上にあ。胎児は全身が液体――――血のように見える――――に塗れていて、腹に突き立ったナイフで首の上に固定されている。女の服は腹を中心に千切り取ったようにぼろぼろで、胸から上と袖、腿の半ばより下の部分を残すのみだった。

 冊子を懐に収めると、男も歩き出し、川にを踏み入れた。擦り切れた浅葱の着物と、薄藍の襦袢も裾が浸る。

「うう、冷たい」

「裸足じゃないか。この寒いのに」

 顔だけ一瞬振り向いた女が言った。前下がりに肩の上で切り揃えた髪も一緒に翻る。

「だから寝ておったというのに。叩き起こしたのはケエテ、お主であろう」

 女の名は荊凍ケイテと言った。灰の金髪、みどりの瞳。青年将校然とした仕立ての良い外套に軍刀をき、革の背嚢はいのうを背負っている。

「ぼくは叩き起こしてなどいない。君が勝手に起きてきたのではないか。それより話の続きだが――――」

 男はなにか言葉を発しかけたが、荊凍ケイテが構わず話し続けるためそのまま口を閉じた。唇は薄く、死人のように血色がない。青磁の髪に、瞳ははしばみ。長い前髪が左眼を隠し、見える右目は眠たげで、薄い瞼が大きな眼の半分を覆っている。

「どうも最近、札幌郡内で違法妊婦のスナッフ・フィルムが出回っていてな。映画とは言ったが、個人用の8mmフィルムで撮影された、拷問と殺人の様子が記録されているだけのものだ」

 荊凍ケイテは話ながらも雪の積もる岸を歩く。蛇行する川に沿って岩壁は張り出しまた引っ込み、さながら石柱を連ねた屏風のよう。その石屏風の陰に荊凍ケイテが消えた。川を渉り終えた男も後を追って岩壁の裏へ回る。

 曲がった先には森があった。荊凍ケイテは迷わず足を踏み入れる。雪が入らぬよう覆いをした乗馬靴で、膝までかかる深雪を漕いでいく。雪は軽く見えても、積もると重い。さらに雪の下には隈笹クマザサが潜んでおり、固い葉や茎が足を取るため、歩く者の体力を削る。並の兵士なら青息吐息の険路だが、荊凍ケイテの顔に疲労は見えない。

 うしろに続く男は、葉の落ちた白樺の枝に取り付くとひらり登った。浅葱の着物と薄藍の襦袢がはためく。氷点下の山中で、羽織も無しの寒々しい有様。枝を伝って樹々きぎを渡り、眼下の荊凍ケイテを追う。

「警察の仕事ではなかろうか」

 頭上からの問いかけに、荊凍ケイテが一段低めた声で返す。

「この件を追っていた警官が不審死してな」

 さっと厚い雲が太陽を覆い隠した。山の天気は変わりやすい。まだ日の高い時間ではあるが、大樹と雪で閉ざされた森は昏くなった。さらに、軍帽の鍔が影を落として、荊凍ケイテの表情は測りにくい。銀糸刺繍で象った蚕蛾の帽章が、鈍く耀く。

「そこで、軍からも協力を出すということになった。最初はもちろん憲兵で、という話になったが、そんな折に妙な」

 ごう、と風が強く吹いた。下からは地吹雪が舞い、上からは樹に積もった雪が舞い落ち、荊凍ケイテの眼前で灰色がかった金髪アッシュ・ブロンドが風に舞う。上下左右も判らぬ白と灰の視界。

「――――妙なフィルムが見付かった。最後の頁を見てくれ」

 男は動きを止め、懐から冊子を取り出し最終頁を開いた。

 先程の写真同様、女が椅子に縛り付けられている。腹は臨月近くと見えるほど膨れている。虚ろな目から涙のように血を流し、鼻から流れた血は口からのものと合流して太い流れを下顎に作っていた。

 服は長襦袢型の患者衣で、先の女のように破れてはなかったが、かわりに全身至るところが血で染まっていた。特に脚の間を中心に下半身の服は殆ど血で濡れそぼり、両足は床の血溜まりに浸かっていた。

「其れが無ければ、伝染病調査班までお鉢が回ってこなかったかもしれないのだが」

 男は再び冊子を懐に仕舞い、一瞬止まった遅れを取り戻すかのように速度を上げて枝々を渡りはじめた。

 雪が厚く積もるエゾマツの枝に飛び移るも、衝撃で上の枝から雪塊が落ち、ぼすりと男の頭に直撃した。男は大儀そうに頭を振って雪をほろう。頭の形に沿った丸い短髪を、粉雪がするりと滑り落ちた。

 そうして暫く進む内、がさり、森の中で音が鳴った。斜め前方、獣道の脇。周囲に人の気配はなかった。真冬にここまで来る者は多くない。

 それもそのはず、二人が進むは大雪山――北海道の中央に鎮座する、島の屋根たる大連峰――の北麓を岩屏風で飾る幽渓、その名も層雲峡。人のみならず、獣の気配も薄い沈黙の雪山。

 荊凍ケイテは足を止め、小銃を森へ向けて構えた――――冬眠し損ねて気の立った羆でも出てきたら――――ごくりと生唾を呑んだ。安全装置のレバーを上げ、切替を全自動フルオートに入れる。がさがさ、きしきし。静まり返った山中に、雪の下で隈笹クマザサが擦れる耳障りな音が響く。がさがさ、きしきし、がさり、がさ。

 エゾマツの枝葉を透かして、灰色の影が動いた。羆にしては小さいが四つ足の獣というより雪上を転がる球体のようにも見える。森は只管深く、果たして鬼が出るか蛇が出るか。 荊凍ケイテは息を潜めて眼前の森を凝視していた。自身の呼吸音がやたらと耳につく。吐く息は白い――――この靄のせいで羆を見落としたりしないだろうか――――

――ぼふり。エゾマツの隙間から、灰色の毛玉が飛び出した。

 荊凍ケイテは一気に脱力し、銃を構えていた腕を降ろした。現れたのは、灰褐色の冬毛で身体は大きく膨れ、ほとんど球体のようになったエゾタヌキだった。

 つぶらな瞳の狸と荊凍ケイテの目が合う。エゾタヌキは暫し荊凍ケイテと見つめ合いながら固まっていたが、やがて辺りを見回したあと、獣道を横切っていった。左右に揺れる房状の尻尾が森へ消えていく。荊凍ケイテは大きく溜息をついた。

「狸か」手元の銃を撫でながら言葉を続ける。

「羆にでも遭遇したら大変と思って、念の為持ってきた。海外から取り寄せた自動小銃だ。これならぼくでも当たる。撃たずに済むのが一番だが」

 荊凍ケイテは大きく深呼吸すると再び歩き出した。

「さて、どこまで話したか。とにかく警官の死に様にもスナッフフィルムにも不審な点が多くてな。そういうわけでメカクレ、君にも協力してもらいたい」

「よりにもよってこんな寒い時期に……」

 メカクレと呼ばれた男は、枝の上で肩を震わせながら呟いた。

「そう言うな。車まで戻れば暖かいぞ。最近暖房を付けたんだ」

 荊凍ケイテはちょうど崖の上に出たところだった。足元の岸壁は柱状節理、また、背後にも更に高い柱状節理が聳え、その天辺は雲が隠す。山の外から見れば、柱状節理が作る段々の中ほどにいる形だった。

――どさり。

 背後で、何かが雪の上に落ちたような音がした。荊凍ケイテが足を止めて振り向けば、開けた崖から差し込む一条の光が、森に立つメカクレを照らした。

 ひょろりと細長い体躯を猫背に丸め、俯いた顔、その肌は皺一つなく陶器人形を思わせる。硝子質の髪を透かして、右眼だけが覗く。大きな瞳孔は森より昏く、濃い榛の縁取りがぎらり、金環日蝕のように輝く――――

「どうした。急に降りてきて」

 素足で雪を掻き分けながら、メカクレが荊凍ケイテに歩み寄る。薄い唇の隙間から、長い舌が伸びている。先は二股に分かれ、出入りするたび鞭のようにうねり、しゅる、しゅるり、と音を立てる。

 メカクレは長い腕をゆらりと伸ばし、荊凍ケイテを腰で掴むと米俵のように肩へ担ぎ上げた。背中からの静止も聞かずに歩き続け、崖から踏み出した。ぶわり、着物の裾が空気を孕んで膨らむ。ひゅっと荊凍ケイテが息を呑んだ。垂直の筋目が走る柱状節理を背景に、二人は真っ直ぐ落ちていった――――



*****



 車の窓から見える外は凹凸が多い山道で、左右に雪がうず高く積り、道幅は辛うじて車一台分といったところ。

「酷い目に遭った。こんなに肝が冷えたのは、南洋で壕の近くに爆弾が落ちたとき以来だ」

 片手で車のハンドルを握る荊凍ケイテは、もう片の手で左耳に掛けた髪を撫で付けた。一粒小さな金剛石が耳朶で輝く。右の前髪は横に流し、アッシュ・ブロンドの髪が数筋右眼に掛かる。

「滑り落ちて、歩いて、また滑り落ちて……おかげで全身雪まみれだ」

 荊凍ケイテが頭を軽く振るとはらはらと幾片かの雪が舞い、将校用上衣の肩へ落ちた。後部座席に置かれた外套と軍帽、布地はくすんだ青緑だが、雪で白くなっている。

「道を急ぐと云ったのはお主であろう」

 助手席に胡座で座るメカクレが言い、続けて「ふう、温いぬくい温い。生き返る」と。荊凍ケイテは眉を顰めて横目で助手席を見遣ったが、メカクレの袖からすっと青蛇が顔を出したのを見ると眉根を開いた。

「なんだ、ミドリもいたのか」

 蛇の身体は緑がかった青で、うっすら縞模様に見える濃淡がある。薄い油膜を張ったような鱗が輝く。

「ずっと居ったぞ。漸く身体が温まってきて目を覚ましたようだ」

「そうか。すまない。眠りを邪魔してしまって」

 荊凍ケイテがミドリの顔を見ながら言った。メカクレは首を傾げ「わしの睡りは」と呟いたが、荊凍ケイテは独り言のように話し続ける。

「相変わらずいい色艶だな。〝アオ〟ダイショウと言いつつ殆ど土色の個体もいるし、ここまで綺麗な青は中々見ない……蛇の飼育指南書に書いてあったのだが、北海道は本州に比べて青味の強い個体が多いらしい。特に道東でその傾向が顕著だとか」

 メカクレがくぁ、と小さく欠伸をし、ミドリも続いた。荊凍ケイテは身体を前方へ向け直し、語り始める。艶のあるハスキー・ボイスが車内へ響く。

「話の続きだ。最初はただの噂だったのだ。個人で映写機を持っているような好事家たちの間で、違法妊婦のスナッフ・フィルムが出回っているらしい、と」

 メカクレは背中を丸めてうつらうつらしており、撫で肩から伸びた長い首の先で、車の動きに合わせて頭が揺れる。いつの間にかミドリはどこかへ引っ込んだようだった。

「当初は個人もしくは同好の者数人で集まって見ていたようだが、そのうち金を取って上映会をする輩が現れ、金銭トラブルから警察の厄介になる者が出た。それで警察が捜査を始めたのだが、奇妙なことに、フィルムの出処を辿ると必ず『ポストに入っていた』と主張する者に行き着いた。他の者は彼らから譲り受けた、或いは買ったと証言した」

 外は少しずつ樹々の密度が下がりはじめている。人里に近付きつつあった。

 運転席のドア・ウィンドウから光が射し、荊凍ケイテが目を細めた。すらり通った鼻筋が顕かになり、高い頬の上で和毛が金色に輝く。ちょうど雲間が切れ、太陽が顔を出したところだった。冬の北海道は正午でも太陽が高くは昇らない。冬至を過ぎて一月以上、されど冬至の東京より陽は低かった。西へ向かう荊凍ケイテの車は左ハンドルで、南の低い空から運転席に陽が刺さる。

「フィルムの所持者は警察が厳しく調べたが、全員の勾留中にが別の家に投函されたりもしてな。共犯者が紛れている可能性はあるが、少なくとも実行犯は別にいるとわかった。更に、ポストに入っていたと証言した者は皆、映画愛好家向けの雑誌に文通やフィルム交換相手募集の広告を出していた。つまり誰でも住所を知り得たわけだ」

 左手に防風林が現れた。樹が庇になり、幾分眩しさが和らぐ。荊凍ケイテは細めていた目を開いた。巴旦杏アーモンド型の大きな眼に光が射し、オリーブ・グリーンの瞳が輝く。

 助手席のメカクレは先ほどから俯いたままで、高くはないが形の整った忘れ鼻から、寝息が漏れている。しかし、車がどすん、と大きく揺れると顔を上げた。根雪に覆われた未舗装の道路は、処々に大きな凹みがあるのであった。

「暫く掛かるかのう」

「そうだな。旭川までまだ一時間以上、そのまま市街は通り抜けて、上川道路へ出る。そこからが少し長い。上川道路を暫く南西に下って、札幌まではさらに三時間は掛かる」

 フロント・ガラスの先は川沿いにゆるく曲がる見通しのいい道で、他に車の影もない。荊凍ケイテはアクセルを踏み込んだ。

「先程、警官が不審死した、と云っただろう。の登場と前後して、先ず二人。聞き込みの帰りだったそうだ。一人は殆ど首が千切れかけ、もう一人は人相が判らないほど顔が抉れていた。検死官の見立てでは野犬の仕業とのことだ。武装した警官が二人揃って犬を相手に殉職とは珍しいが、この時点では不幸な事故という扱いだった」

 メカクレは舌を出し入れしはじめた。二股に別れた先それぞれが空に漂う微粒子を捉え、口蓋の裏側、二股に別れた窪みへ運ぶ。匂いの左右差から、獲物の隠れる方角を割り出す仕組みだ。

 顔をゆっくりと左へ向ける。青っぽいグリーン・ローズのコロンで隠し切れない、消毒液と機械油が入り混じる匂い――――彼を冬の睡りから醒ました、森にない筈のもの。それからその奥に、膚の匂い。荊凍ケイテの視線は前方に注がれ、メカクレの方は見ていない。

「次の一人は喉を握りつぶされていた。成人男性の手形と思しき跡があり、指先が深く刺さったような孔も空いていた。人間であれば途轍もない筋力だ。怪力と云う点ではフィルムの方でも」――――

 メカクレが助手席から身を乗り出し、身体をぐいと荊凍ケイテに寄せた。長い舌を彼女へ向けて出入りさせる。

「どうした」

「相変わらず、い匂い」

 メカクレの声は抑揚が小さく、低いのにどこか上擦る奇妙な響きだった。しかしけして不快でもなく、喩えれば、異郷で聞く耳慣れぬ楽器のような風情。

「身体が温まったら、次は腹が減った」メカクレは軍衣の襟に手を掛け、留め金を外す。

「待て、司令部に着いたら食べる物はある」

 荊凍ケイテが右手で制するのも構わず、メカクレはシャツのボタンも外し、生白い首を露わにする。

「待てぬ。わしはもう二月ふたつき、何も喰っておらぬ」

 メカクレの口が大きく開かれ、小さな顎に似合わぬ鋭い牙が覗いた。話す分には目立たぬこの牙、大口開いたときだけ筋肉の動きで飛び出す仕組みだった。解き放たれた今、牙は荊凍ケイテの首筋に沈んだ。

 荊凍ケイテは微かに声を漏らした。一瞬の鋭い痛みの後、首筋は痺れ、指先がすっと冷える感覚。

 じゅるり、じゅるりと音を立ててメカクレが血を啜る。

 荊凍ケイテは息を浅く吸い、細く長く吐き出す。ハンドルの上に置いた左手、人差し指の先がぴくり、と震えた。首元から指先まで、細い氷の糸が通ったように痺れる。

 じゅふ、じゅるり。首元からの音は続く。

「おい、もう十分だろう」

 荊凍ケイテがメカクレに声を掛けた瞬間、車の前方に、脇の林からエゾシカが飛び出してきた。

「待て、本当に――――」

 荊凍ケイテはアクセルから足を離し、静かにブレーキを踏んだ。しかし間に合わず衝突し、エゾシカは斜め前方に撥ね飛ばされて行った。車が大きく揺れ、荊凍ケイテが小さく呻く。メカクレは荊凍ケイテの首元から顔を離し、するりと助手席へ戻った。ちゅるり、口の端に残った血を舐め取るのも忘れなかった。

 エゾシカを跳ね飛ばしたのちもゆっくりブレーキを踏み続け、漸く車が止まったのは、エゾシカが落ちた場所から大分進んだ場所だった。

 荊凍ケイテが大きく溜息をつく。

「夏なら間に合ったかもしれなかったが……冬だとどうにも……急ブレーキで車がひっくり返ったりするからな……」

 ぶつくさ呟きながら荊凍ケイテが車を降り、車や周囲の様子を確かめる。

「バンパーが凹んでしまった」

 そう言って運転席に戻ると、今度は車を後進させはじめた。

「戻るのか」

「鹿が道に少しはみ出している。他の車がぶつかると危ないから片付けよう」

 荊凍ケイテは車をゆっくり後退させ、エゾシカの真横に付けると、ハンドルを回して窓を下げた。鹿を見ると、首と前脚があらぬ方向に捻じ曲がり、口から血を流していて、後脚は道路に投げ出されている。道路脇は雪の壁が出来ている所も多いが、ここは少し下が沢になっているようで、路肩は落ち窪んでいた。

 荊凍ケイテは車を降りると、後ろ手で車を支えにしながら足でエゾシカを道路の外へ押し遣った。エゾシカは本州のホンシュウジカより大型で、体重も同様だ。反動で車が揺れる。荊凍ケイテが何度か体重を掛けて押し出し、漸く躰全体が路肩に落ちた。

「まだ息がある。楽にしてやろう。ヒグマへの備えだったのだが、鹿とは」

 そう言って荊凍ケイテは後部座席から小銃を取り出した。安全装置を上げ、切替が半自動セミオートに入っていることを確認するとエゾシカの頭に向け二発撃った。辺りに血と硝煙の香りが漂う。エゾシカを見下ろしながら荊凍ケイテが呟く。

「妙だ。なあ、この腹を見てくれ」

 メカクレは助手席で丸くなっていたが、ゆっくり運転席に寄り、窓から顔を出した。頬に寒風が当たり、ぶるりと震えた。

ツノが無い。仔を宿した雌であろう」

 エゾシカの下腹部は、馬鈴薯を詰めた麻袋のように膨らんでいた。荊凍ケイテは「胎児にしてはどうもゴツゴツしている様な」と言い、軍靴の爪先で腹を小突く。

「やはり硬い。中を見てみよう」

 荊凍ケイテは後部座席の扉を開け、蝦蟇口の大きな革鞄からマスクとゴム手袋、それに手術用具を納めた外科嚢を取り出した。エゾシカの元へ戻ると上衣の袖を捲り手袋を着け、しゃがみ込んで腹を改める。指で押すと硬い。羊水で張り詰めた腹のような弾力もなく、まるで皮膚の下に石が詰まっているかのようだった。

 荊凍ケイテが雌鹿の腹の真ん中を縦に切り始めた。だらりと血が流れ、辺りの雪が赤く染まっていく。血の匂いも一層濃くなった。

 エゾシカの下腹部に、一直線の切れ込みが出来た。メスを置き、両手で薄い皮下脂肪ごと毛皮を拡げると、半透明の筋膜を透かして薄桃色の筋肉が見える。筋肉は避けて正中にある筋膜の白線にメスで切れ目を入れ、鋏で切り開いていく。

 筋膜を開き終えると、淡黄に透けて張り詰めた腹膜が現れた。鑷子ピンセットで腹膜を摘み上げ鋏で切ると、赤褐色の子宮が露出した。表面は内側の凹凸に押されて薄く伸び、触れるとやはり硬かった。

「やはり子宮か。では異物の誤飲ではなさそうだ」

 荊凍ケイテは再びメスを持ち、子宮の下部を横に切り始めた。

「人間と、軍用犬の帝王切開なら見学したことがある」

 特に子宮が薄くなった箇所に差し掛かり、メスの先が硬いものに当たった。と同時に、ぶち、と音を立て、子宮が自ずから裂けはじめた。ぶちゅり、ばちっ。横に目一杯開き切ると、粘膜に覆われた灰褐色の塊が顕になった。それは、石膏で作った不格好な仔鹿の頭のように見えた。

「胎児だ。石灰化している」

 表面を鑷子ピンセットの先で引っ掻くと、がり、と音がした。

「人間でも、死産した胎児が石灰化して母体に長期間残留した症例がある」

 荊凍ケイテは切れ目をぐるりとU字に延長し子宮を大きく開くと、中に手を入れて胎児を取り上げた。桃色の粘液が臍の緒のように糸を引いたが、臍の緒自体は既に腐り落ちたのか見当たらなかった。

 手の上の歪な楕円。丸まった無毛の仔鹿のような格好だが、折り曲げた脚は胴と癒着して全体が硬い灰褐色の石で覆われている。荊凍ケイテは石塊――――前衛彫刻のようにも、古代の祭具にも見える――――を一頻ひとしきり眺めすがめつしたのち、母鹿の傍らに置いた。

 再び厚い雲が空を覆いはじめた。一気に辺りは暗くなり、灰の雲が、同じ灰色の雪を撒く。母鹿の腹の中、肉の赤に雪の華が咲いた。

「降ってきたな。急ごう」

 荊凍ケイテは足元の雪で手袋とメスの血を拭い、立ち上がった。車へ戻り、手袋は裏返して縛ると後部座席の足元に、メスはガーゼに包んで椅子の上へ置いた。

「この分なら明るいうちに月寒つきさむへ着きそうだが、もし吹雪いてしまえば視界が良くない」

 運転席に座った荊凍ケイテが車を出す。道の左右を確かめるが、人も車も、獣の影もない。曇天の下でちらちらと小雪が舞う、莫とした灰色の冬景色。

「つきさむ、と云うのが、お主の住む街だったかの」

「そうだ。ぼくの家と、軍の司令部も月寒にある。着いたらまともな食事を摂って、フィルムを見よう」

 降る雪は大きさを増し、今や綿毛のよう。見る間に地上の総てが覆われていく。薄赤混じった雌鹿も傍らの石も、既に殆ど灰色だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る