違法妊婦スナッフ 篇

一日目

壱 層雲峡、石の女

「違法妊婦のスナッフ・フィルムが出回っている。調査に協力してくれないか」


 雪深い冬の山。細流さいりゅうを挟み、軍服の凛々しい女と、着流しの胡乱うろんな男が向かい合っていた。

 東岸の男が、半開きの眼をこすりつつ口を開く。

久方ひさかた振りに訪ね来て、いきなり何かの。その、すな……なんとかは」

「スナッフ・フィルム。殺人記録映画だ」

 西岸の女が返した不穏な言葉に似つかわず、辺りは白く輝いていた。

 沢に射し込む冬の蒼白あおじろい日光が、男の背後にそびえる白銀の氷瀑ひょうばくを照らす。滝の裏から流れ出す、川の水面みなもは冷たげにきらめめいている。氷の滝とは呼ばれても、凍っているのは表面だけで、その下を流れる水が、谷間に細い川を作っているのであった。

「説明している時間が惜しい。歩きながら話そう。暗くなる前に、山を降りて司令部へ戻りたい」

 女は、綴糸つづりいとで綴じた冊子を男に向かって放り投げ、沢を下りはじめた。両岸には、柱状節理ちゅうじょうせつりの岩壁が屹立きつりつし、狭い沢をしひしぐよう。太古の巨人が石柱を繋いで作ったとも見える、垂直な割れ目を持った岩の連なりは、そのじつ、火山活動が生み出したのだった。

 川岸に残された男は、投げ渡された冊子を開いた。

 初めのページには、一葉いちようのモノクロ写真が貼り付けてあった。女が椅子に縛り付けられており、裂けた腹には女の生首がはまっている。服は腹を中心に千切ったようにぼろぼろで、胸から上と膝より下を残すのみだった。

 女の首の元いた場所には、腹に収まっていたであろう胎児。突き立てたナイフで、首の上に固定されている。女の首と胎児の場所を入れ替えたようだった。

 男は冊子を懐に収めて歩き出し、で川に踏み入った。裾が擦り切れた浅葱あさぎの着物と、薄藍うすあい襦袢じゅばんが水にひたる。

「うゝ、冷たい」

「裸足じゃないか。この寒いのに」

 女は、歩きながら顔だけ一瞬振り向いた。前下がりに肩で切り揃えた髪も、一緒にひるがえる。

「寒いので寝ておったというのに。叩き起こしたのはケエテ、お主であろう」

 女の名は荊凍ケイテと言った。灰の金髪、みどりの瞳。将校用の防寒外套がいとうに軍刀をき、革の背嚢はいのう小銃ライフルを背負っている。

「ぼくは叩き起こしてなどいない。君が勝手に起きたのではないか。それより、話の続きだが――――」

 男はなにか言葉を発しかけたが、荊凍ケイテが構わず話し続けるため、そのまま口を閉じた。その唇は薄く、死人のように血色がない。青磁せいじの髪に、瞳ははしばみ。長い前髪が左眼を隠し、見える右目は眠たげで、薄い瞼が大きな眼の半分を覆っている。

「どうも最近、札幌郡内で違法妊婦のスナッフ・フィルムが出回っていてな。映画とは云っても、個人用の8mmミリカメラで撮影された、拷問と殺人の様子を記録しただけのものだ」

 荊凍ケイテは話しながらも、雪の積もった岸を歩く。蛇行する川に沿って岩壁は張り出し、と思えば引っ込み、さながら石柱を連ねた屏風びょうぶのよう。荊凍ケイテは壁沿いに歩いて曲がり、石屏風いしびょうぶの陰に消えた。川をわたり終えた男も、後を追って岩壁の裏へ回る。

 曲がった先には、針葉樹と冬枯れの広葉樹が入り交じる、深い森があった。エゾマツの巨木が、来る者拒む門のように、厚い雪を載せた枝を垂らしているが、荊凍ケイテは迷わず足を踏み入れた。雪が入らぬように覆いをした乗馬靴で、膝まで埋まる深雪ふかゆきを漕いでいく。

 雪は軽く見えても、積もると重い。さらに、雪の下には隈笹クマザサが潜んでおり、固い葉や茎が足を取るため、歩く者の体力を削る。並の兵士なら青息吐息の険路けんろだが、荊凍ケイテの顔に疲労は見えない。

 あとに続く男は、葉の落ちた白樺の枝に取り付くと、ひらり登った。浅葱あさぎの着物と薄藍うすあいの襦袢がはためく。氷点下の山中に羽織も無しの寒々しい装いで、枝を伝って樹々きぎを渡り、眼下の荊凍ケイテを追いながら、

「警察の仕事ではなかろうか」

 頭上からの問いかけに、荊凍ケイテが一段低めた声で返す。

「この件を追っていた警官が、不審死してな」

 サッと厚い雲が太陽を覆った。山の天気は変わりやすい。まだ日の高い時間だが、大樹と雪で閉ざされた森はくらくなった。さらに、軍帽のつばが影を落として、荊凍ケイテの表情は測りにくい。銀糸刺繍ぎんしししゅうかたどった蚕蛾カイコガ帽章ぼうしょうが、昆虫の無感情さで鈍く光る。

「そういう訳で、軍からも協力を出すことになった。最初はもちろん憲兵で、という話だったが、そんな折、妙な」――

 ごう、と風が吹いた。下からは地吹雪じふぶきが舞い、上からは樹に積もった雪が舞い落ち、荊凍ケイテの眼の前では灰色がかった金髪アッシュ・ブロンドが宙に舞う。上下左右も判らぬような、白と灰の視界。荊凍ケイテは毛皮が付いた外套がいとうの襟を掻き合せた。

「――妙なフィルムが見付かった。最後のページを見てくれ」

 男は動きを止め、懐から冊子を出し最終ページを開いた。先程の写真同様、女が椅子に縛り付けられていた。

 女の服は長襦袢型の患者衣で、腹は臨月近くと見えるほど膨れている。虚ろな目から涙のように黒い汁――血のように見える――を流し、鼻から流れた血は、口からのものと合流し、太い流れを下顎に作っている。

 血は顔だけでなく服のあちこちも染め、特に、脚の間を中心に下半身は濡れそぼっている。染まった裾から伸びる両足は、床の血溜まりに浸かっていた。

「それが無ければ、伝染病調査班までお鉢が回って来なかった、かもしれない」

 荊凍ケイテは歩きながら言った。男は再び冊子を懐に仕舞い、止まった遅れを取り戻すように、速度を上げて枝々えだえだを渡りはじめた。

 男は、雪が厚く載るエゾマツの枝に飛び移った。が、衝撃で上の枝から雪塊せっかいが落ち、ぼすりと男の頭に直撃した。男は大儀そうに頭を振って雪をほろう。頭の形に沿う丸い短髪を、粉雪がするりと滑り落ちた。

 そうして暫く進む内、がさり、木立の奥から物音がした。進路の斜め前方、獣道の脇。

 周囲に人の気配はなかった。真冬にここまで登る者は多くない。それもそのはず、二人が進むは層雲峡そううんきょう。大雪山――北海道の中央に鎮座する、島の屋根たる大連峰――の北麓ほくろく岩屏風いわびょうぶで飾る幽渓ゆうけいだった。人のみならず、獣の気配も薄い、沈黙の雪山。

 荊凍ケイテは足を止め、小銃を森へ向け構えた――冬眠し損ね気の立ったヒグマでも出てきたら――ごくり、生唾を呑んだ。安全装置のレバーを上げ、切替を全自動フルオートに入れる。

 がさがさ、きしきし。雪の下で隈笹クマザサこすれる耳障りな音が、静まり返った山中に響く。がさがさ、きしきし、がさり。

――がささっ。

 エゾマツの枝葉の向こう、灰色の影が動いた。ヒグマにしては小さいが、四つ足の獣というより、雪上を転がる球体にも見える。森はひたすら深く、果たして鬼が出るか蛇が出るか――

 荊凍ケイテは息を潜めて眼前の森を凝視していた。自身の呼吸音がやたらと耳につく。吐く息は白い――この白靄しろもやヒグマが隠されないだろうか――

――ぼふり。エゾマツの隙間から、灰色の毛玉が飛び出した。

 荊凍ケイテは一気に脱力し、銃を降ろした。現れたのは、灰褐色はいかっしょくの冬毛で身体が膨れ、ほとんど球のようになったエゾタヌキだった。

 つぶらな瞳の狸と、荊凍ケイテの目が合う。エゾタヌキは暫し、荊凍ケイテと見詰め合いながら固まっていたが、やがて辺りを見回したあと、獣道を横切っていった。ふるふると左右に揺れる房状の尻尾が、森へ消えていく。荊凍ケイテはふう、と溜息をついた。

「狸か」手元の銃を撫でながら言葉を続ける。

ヒグマにでも遭遇したら大変と思って、念の為持ってきた。海外から取り寄せた自動小銃だ。これならぼくでも当たる。撃たずに済むのが一番だが」

 荊凍ケイテは深呼吸すると、再び歩き出した。

「さて、何処どこまで話したか。とにかく、警官の死に様にも、スナッフ・フィルムにも不審な点が多くてな。そういうわけでメカクレ、君にも協力してもらいたい」

「よりにもよってこの寒いときに……」

 メカクレと呼ばれた男は、雪が積もったエゾマツの上で肩を震わせ呟いた。

「そう言うな。車まで戻れば暖かいぞ。最近、暖房を付けたんだ」

 先を歩く荊凍ケイテは、ちょうど崖の上に出たところだった。足元の岸壁は柱状節理ちゅうじょうせつり、また背後にも柱状節理ちゅうじょうせつりの岩壁がそびえ、その天辺てっぺんは雲が隠す。山の外から見たとすれば、柱状節理ちゅうじょうせつりの段々の、中程にいる形だった。

――どさり。

 荊凍ケイテの背後で、何かが雪に落ちたような音がした。彼女が足を止め振り向けば、開けた崖から差し込む一条の光が、獣道に立つメカクレを照らしていた。

 彼はひょろりと細長い体躯たいくを猫背に丸め、うつむいた顔、その肌は皺一つなく、陶器人形を思わせる。硝子質ガラスしつの髪を透かして、右眼だけが覗く。大きな瞳孔は森よりくらく、濃いはしばみの縁取りがぎらり、金環日蝕のように輝く――――

「どうした。急に降りてきて」

 荊凍ケイテの問いには答えず、メカクレは素足で雪を掻き分けながら、荊凍ケイテに近付く。薄い唇の隙間からは、細長い舌が伸びている。先端は二股に分かれ、出入りするたび、しゅる、しゅるり、鞭のようにしなる。

 メカクレは長い腕をゆらり荊凍ケイテへ伸ばし、彼女を腰で掴むと、米俵のように肩へ担いだ。背中で荊凍ケイテが静止するのも無視して歩き続け、崖の縁まで着くと、迷わず踏み出した。

 ぶわり、着物の裾が空気をはらんで膨らむ。メカクレの背で、荊凍ケイテがひゅっと息を呑んだ。そのまま二人は真っ直ぐ落ちていった――垂直の筋目が走る、柱状節理を背景に。



*****



 車の窓から見る外は、凹凸おうとつが多い雪の山道。左右に雪がうず高く積み上がり、道幅は辛うじて車一台分といったところ。

「酷い目に遭った。こんなに肝が冷えたのは、南洋で壕の近くに爆弾が落ちたとき以来だ」

 片手で車のハンドルを握る荊凍ケイテは、もう片の手で左耳に掛けた髪を撫で付けた。一粒小さな金剛石コンゴウセキ耳朶ジダで輝く。右の前髪は横に流し、アッシュ・ブロンドの髪がはらり、幾筋か眼に掛かる。

「落ちて、歩いて、滑り落ちて……お蔭で全身雪まみれだ」

 荊凍ケイテが軽く頭を振れば、はらはらと雪が落ち、将校用軍衣の肩へ乗った。後部座席に置かれた防寒外套がいとうと軍帽は、くすんだ青緑の布地だが、雪で白くなっている。

「道を急ぐと云ったのは、お主であろう」

 助手席で胡座あぐらのメカクレが言い、続けて「ふう、温いぬくい温い。生き返る」と。荊凍ケイテは眉をひそめて横目で隣を見遣ったが、メカクレの袖からすっと青蛇が顔を出したのを見ると、眉根を開いた。

「あゝ、ミドリもいたのか」

 蛇の身体は緑がかった青で、うっすら縞の濃淡があり、薄い油膜を張ったような鱗が輝く。

「ずっとおったぞ。ようやく身体が温まり、目を覚ましたようだのう」

「そうか。すまない。眠りを邪魔してしまって」

 荊凍ケイテがミドリの顔を見ながら言った。くりくりした目の、愛嬌ある顔立ちだった。メカクレは首を傾げ「わしのねむりは」と呟いたが、荊凍ケイテは独り言のように話し続ける。

「相変わらず良い色艶だな。ダイショウと言いつゝほとんど土色の個体もいるし、ここまで綺麗な青は中々見ない……蛇の飼育指南書によれば、北海道は本州より青味の強い個体が多いそうだ。特に、道東でその傾向が顕著だとか」

 メカクレがくぁ、と欠伸をし、ミドリも続いた。荊凍ケイテは顔を前へ向け直し、語り始めた。艶のあるハスキー・ボイスが車内に響く。

「話の続きだ。最初は只の噂だったのだ。個人で映写機を持つような好事家こうずかの間で、違法妊婦のスナッフ・フィルムが出回っているらしい、と」

 メカクレは、背中を丸めてうつらうつらとしはじめた。撫で肩から伸びた長い首の先で、小ぶりな頭が車の動きに合わせて揺れる。いつの間にか、ミドリはどこかへ引っ込んでいた。

「当初は内輪の秘密だったが、そのうち金を取って上映会をする輩が現れ、金銭の揉め事を機に警察の手が入った。だが、フィルムの出処でどころを辿ると、必ず『ポストに入っていた』と主張する者に行き着いた。残りの者は、彼らから貰った、買ったと証言した」

 車の外は、樹々きぎの密度が下がりつつあった。人里が近い。まばらになった樹の間から陽が射し、荊凍ケイテが目を細めた。山吹の光に照らされ、すらり通った鼻筋があきらかになり、高い頬では和毛にこげが金色に輝く。

 冬の北海道は、正午でも太陽が高くは昇らない。冬至を過ぎて一月ひとつき以上、されど冬至の東京より陽は低かった。西へ向かう荊凍ケイテの車は左ハンドルで、南の低い空から、運転席に陽が刺さる。細めた目のまま、運転手は続きを語る。

「フィルム所持者全員の勾留中に、が投函されたこともあった。警察は犯人候補も掴んでいないようだ。付け加えると、投函された者は皆、映画雑誌に文通やフィルム交換相手の募集広告を出していた。つまり、誰でも住所を知り得たわけだ」

 左手に、エゾマツの防風林が現れた。樹がひさしになり、眩しさが和らぐ。荊凍ケイテは、細めていた目を開いた。大きな巴旦杏型の眼アーモンド・アイ、オリーブ・グリーンの瞳が輝く。

 一方、助手席のメカクレは、先ほどから顔を伏せたまま。高くはないが整った忘れ鼻から、寝息が漏れる。が、車がどすん、揺れると顔を上げた。根雪が覆う未舗装の道は、処々ところどころに深いわだち凹凸おうとつがあった。

 メカクレは大儀そうに「まだしばらく掛かるかのう」と言った。

「そうだな、まず旭川あさひかわまで一時間以上。旭川から札幌さっぽろまでは、上川かみかわ道路を南西に下って、たっぷり三時間は掛かる」

 フロント・ウィンドウの先は、右手の川沿いにゆるく道がカーブし、見通しが利く。他に車通りもない。荊凍ケイテはアクセル・ペダルを踏み込んだ。

「あとはそうだ、警官の不審死だ。登場のすぐ後、まず二人。聞き込みの帰り、野犬に襲われた。一人は首が千切れかけ、もう一人は人相も判らぬほど顔がえぐれていた。警官が犬を相手に殉職とは珍しいが、そのときはまだ、不幸な事故という扱いだった」

 助手席のメカクレは、俯いたまま舌を出し入れしはじめた。二股に裂けた先端それぞれが、くうに漂う微粒子を捉え、口蓋コウガイの裏、同じく二つに別れた窪みへ運ぶ。匂いの左右差から、獲物の隠れる方角を割り出す仕組みだった。

 メカクレが顔をゆっくり左へ向ける。青っぽいワイルド・ローズのコロンが隠し切れない、消毒液と機械スピンドル・オイル油――彼を冬のねむりからました、山にそぐわぬ匂い。それらの奥には、かおはだ香気こうきの主は前方に注意を払っており、助手席は見ていない。

「次の一人は、喉を握り潰されていた。くびには成人男性の手形とおぼしき跡があり、指先が深く刺さったようなあなも空いていた。人間であれば、途轍とてつもない筋力だ。怪力と云えば、フィルムの方でも」――――

 助手席から、メカクレがぐいと身を乗り出し、身体を荊凍ケイテに寄せた。彼女へ向けて舌をしゅるしゅると出し入れする。

「どうした」

「相変わらず、い匂い」

 メカクレの声は抑揚よくようがなく、低いのにどこか上擦うわずる奇妙な響きだった。しかしけして不快でもなく、たとえれば、異郷いきょうで聞く耳慣れぬ楽器のような風情ふぜい

「身体が温まったら、次は腹が減った」軍衣ぐんいへ手を伸ばし、襟の留金とめがねを外した。

「待て、司令部に着けば食べ物はある」

 荊凍ケイテが制するのも構わず、メカクレは彼女のシャツもくつろげて、生白いくびあらわにした。

「待てぬ。わしはもう、二月ふたつき何も喰っておらぬ」

 メカクレの口が開き、細く鋭い牙がのぞいた。喋る分には目立たぬこの牙、大口開ければ、筋肉のはたらきで飛び出す仕組みだった。

 牙を剥いたまま、メカクレは荊凍ケイテの首元に顔を埋めた。荊凍ケイテかすかに声を漏らした。一瞬鋭く痛んだのち、首筋はしびれ、指先がすっと冷える。

 じゅるり、じゅるりと音を立て、メカクレが血をすする。

 荊凍ケイテは浅く息を吸い、細く長く吐き出す。ハンドルに置いた左手、人差し指の先がぴくりと震えた。首から指先まで、細い氷の糸が通るよう、しびれが広がる。

 じゅふ、じゅるり。吸血は続く。荊凍ケイテが「おい、もう十分だろう」とそのとき、車の前方、脇の林からエゾシカが飛び出してきた。

「待て、本当に――――」

 荊凍ケイテはアクセルから足を離し、静かにブレーキを踏んだ。しかし間に合わず、車は鹿に衝突し、哀れな被害者は撥ね飛ばされていった。車が激しく揺れ、荊凍ケイテが小さくうめく。

 メカクレは荊凍ケイテの首から顔を離し、するり助手席へ戻った。ちゅるり、口のに残る血を舐め取るのも忘れなかった。

 エゾシカをねた後も、荊凍ケイテはゆっくりブレーキを踏み続け、ようやく車が止まったのは、倒れた鹿を通り過ぎてからだった。

「夏なら間に合ったかも知れないが……冬だと、どうにも……急ブレーキで車がひっくり返ったりするからな……」

 荊凍ケイテはぶつくさぼやきながら車を降り、車体や周囲の様子を確かめた。

「バンパーが凹んでしまった」

 そう言って運転席に戻り、ギアをリバースに入れてアクセルを踏んだ。

「戻るのか」

「鹿が道にはみ出している。他の車がぶつかると危ないから片付けよう」

 ルーム・ミラーの中で、エゾシカは左の路肩に倒れていた。道路脇は雪の壁が出来ている所も多いが、ここは道の脇に用水路でもあるようで、路肩は落ち窪んでいる。そこへ鹿の躰が落ちていた。

 荊凍ケイテは車をエゾシカの真横へ付けた。ドアのハンドルを回して窓を下げる。見れば、鹿は前脚まえあしがあらぬ方向に捻じ曲がり、後脚うしろあしは道路へ投げ出され、たしかに車の邪魔にはなりそうだった。

 荊凍ケイテは車を降り、後ろ手で車を支えにして、足でエゾシカの脚を押しはじめた。

 エゾシカは本州の鹿より大型で、それだけ重量もある。荊凍ケイテが鹿を押す反動で車が揺れる。何度か体重を掛けて押し出すと、ようやく躰の全体が路肩に落ちた。その衝撃か、鹿はごぽ、と喉を鳴らして血を吐いた。

「まだ息があるようだ。楽にしてやろう。ヒグマへの備えだったが、鹿とは」

 荊凍ケイテは後部座席から小銃を取り出した。安全装置のレバーを上げ、切替が半自動セミオートに入っていることを確認する。鹿の頭へ銃口を寄せ、二発続けて撃った。周囲に血と硝煙の香りが漂う。息絶えたエゾシカを見下ろし、荊凍ケイテが言う。

「妙だ。なあ、この腹を見てくれ」

 メカクレは助手席で丸くなっていたが、気怠げに運転席側へ寄り、窓から顔を出した。彼の頬に寒風が当たり、ぶるりと肩を震わせた。

ツノが無い。仔を宿したメスであろう」

 仰向けに転がったエゾシカの下腹部は、馬鈴薯バレイショを詰めた麻袋のように膨らんでいた。荊凍ケイテは「胎児にしてはどうもゴツゴツしている様な」と言い、軍靴の爪先で腹を小突いた。

「やはり硬い。を見てみよう」

 荊凍ケイテは後部座席のドアを開け、そこに置かれた蝦蟇口がまぐちの革鞄を開いた。マスクとラテックスの手袋を出して装着し、手術器具を納めた外科のうも取ると、雌鹿めじかの元に戻りしゃがみ込んだ。

 雌鹿の腹を指で押すと、羊水で張り詰めたような弾力もなく、見た目の通りに硬い。皮膚の下に、石が詰まっているかのようだった。荊凍ケイテは雌鹿の腹を、正中線に沿って切り始めた。だらりと血が流れ、辺りの雪に赤が広がる。血の匂いも一層濃くなった。

 雌鹿の下腹部に、縦一直線の切れ込みが出来た。荊凍ケイテはメスを置き、両手で薄い皮下脂肪ごと毛皮を拡げた。半透明の筋膜きんまくを透かし、暗紅色の筋肉が見える。筋肉が下にある場所はけ、正中にある、筋膜の白線部分にメスで切れ目を入れ、ハサミで切り開いていく。

 筋膜を開き終えると、淡黄色たんおうしょくに透ける張り詰めた腹膜ふくまくが現れた。内臓を傷付けぬよう、鑷子ピンセットで腹膜をつまみ上げ、鋏で切り進めると、暗紫色に鬱血うっけつした子宮が露出した。内部の凹凸に押されて薄く伸び、触れるとやはり硬かった。

「やはり子宮か。では異物の誤飲ではなさそうだ」

 荊凍ケイテは再びメスを持ち、子宮の下部を横に切りだした。

「人間と、軍用犬の帝王切開なら見学したことがある」

 子宮が特に薄い箇所に差し掛かり、メスの先が硬いものに当たった。と同時に、ぶち、と子宮がおのずから裂けだした。ぶちゅり、ばちっ。目一杯開き切ると、粘膜に覆われた灰褐色の塊があらわになった。それは、仔鹿の頭をかたどった、いびつ石膏セッコウ像のように見えた。

「胎児だ。石灰化している」

 低い声で荊凍ケイテが言った。表面を鑷子ピンセットの先で引っ掻くと、がり、と音がした。

「人間でも、死産の胎児が石灰化して、長期間、母胎に残留した症例がある」

 荊凍ケイテは子宮の切れ目をぐるりU字に延長し、中から胎児を取り上げた。

 胎児は、丸まった無毛の仔鹿の形ではあったが、折り曲げた脚は胴と癒着し、全体が硬い灰褐色の石で覆われていた。

 荊凍ケイテは胎児を掌に載せ観察した。それは前衛彫刻にも、古代の祭具にも見える。動かすたび、血混じりの粘液がへそのように糸を引く。しかし、臍の緒自体は既に腐り落ちたのか、見当たらなかった。

 そうして眺めすがめつするうち、身を刺すような風が吹き、空がかげった。あたりは一気に暗くなり、灰色の雲が、同じ色の雪を地上へきだした。

 暴かれた鹿のはら、赤い肉に、白い雪華せっかが咲いた。

「降ってきたな。急ごう」

 荊凍ケイテは胎児を母鹿の傍らに置いた。それから足元の雪で、手袋と手術器具の血を拭った。車へ戻り、手袋は裏返し後部座席の足元に、雪に濡れた手術器具はガーゼに包んで椅子の上へ置いた。

「この分なら明るいうちに月寒つきさむへ着きそうだが、もし吹雪ふぶいてしまえば視界が良くない」

 運転席に戻った荊凍ケイテが車を出す。道の左右を確かめれば、人も車も、獣の影もない。曇天の下でちらちら小雪が舞う、ばくとした灰色の冬景色。

「つきさむ、と云うのが、お主の住む街だったかの」

「そうだ。ぼくの家と、軍の司令部も月寒にある。着いたらまともな食事を摂って、フィルムを見よう」

 降る雪は徐々に大きさを増し、今や綿毛のよう。見る間にすべてが覆われていく。薄紅うすべに混じった鹿も仔も、既にほとんど灰色だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る