X日目

玖 あをいろ


 真暗な天井裏。床の上にメカクレが丸まっている。伝わる振動を身体で拾うため、耳を押し付けたりせずとも階下の音はよく聞こえる。紙を繰る音、それから話し声。


――でも、やくざ者への借金で首が回らなくなっていた女の方はともかく、主犯の男は。この、警察の資料によると……

――はい、アパートからは教材と夜間看護学校の入学案内チラシが見つかっていて、病院職員によると院内勉強会にも熱心に参加していたようです。

――すべて隠し通して働きながら夜間学校を卒業し、正看護師になる。本当にそんな未来が見えていたのかしら。あるいは、善良ぶりを周囲へ印象付けたかったのかも。

――うちの患者に、何十年も入院しているのに『自分は医者になるのだと』云って、読めもしないハイマットラント語の医学書を日がな一日眺めている者がいます。似たようなものでしょう。



*****



 車は上川道路を北東に進む。

 上川道路は、大雪山を含む上川地方と札幌方面を結ぶ道で、北海道への入植初期、囚人の強制労働で原生林を拓いて敷設された。厳しい寒さと飢え、重労働に数多の者が斃れ、自身が拓いた道の傍らへ、人知れず埋められていった。


「男の死体は見つかっていない。いや、まだ雪の下でいるのかもしれないが」

 車の窓から吹き込んだ風が荊凍ケイテの髪を巻き上げ、口元に張り付かせた。口元の髪を払い除けて話を続ける。

「生死はともかく、あの日から同居していた弟ごと消えた。柘榴と……」

 荊凍ケイテは一瞬言い淀んだ。低い声で続ける。

「瑠璃雛菊とも同じ救児院出身であることもわかった。弟の死体は本人のもので間違いないと救児院の職員が証言した」

「寒い。早う閉めて呉れ」

 助手席にはメカクレが胡座で収まっており、肩を丸めて震えている。

「少し暖房が効きすぎたと思ったんだが、直ぐ冷えたな」

 荊凍ケイテがハンドルを回して窓を上げた。窓の外、東の空では厚い雲が太陽を隠し、地上では雪が山々や道路を覆っている。上も下もコントラストの低い灰色が広がっていた。

「動機は棄てられた恨みであろうというのが警察の見解だ」

「判らぬな。わしらは仔を育てぬからの」

「そうだろうな。ぼくにも男が何故フィルムをばら撒いたかは理解しかねる。ただ、考えても仕方ないな。とんだ謀略家だったがそこはあの刑事と同意見だ」

「警察、あの娘か」

いや、別の者だが、化物の心情なぞ考えるだけ無駄だと云った警官がいたのだ」

 メカクレの袖からミドリが這い出て、荊凍ケイテの足下の暖房の元へ顔を近づけた。

「警察と云えば。遺体は狼などが喰ったのか殆ど見付からないし、身元不明の被害者が多い。更に共犯者が警官と来て、警察内部はかなり慌ただしくしているようだ」

 メカクレがくぁ、と欠伸をして、温風を浴びるミドリも続いた。

「しかし衛生課も引揚船団の検疫できりきり舞いだし、他所のことは言えないかもしれないな。ぼくもこの件が片付いたので、参加しなければ」

「人間は忙しいのう」

 真っ直ぐ伸びる道路の遥か前方に、雄々しい角のエゾシカが飛び出してきた。荊凍ケイテが警笛を長く鳴らし、その間にエゾシカは道を渡りきり、林の奥へ消えていった。

「あれは雄だな。雄は躰が大きいからぶつかればバンパーだけではすまなかったかもしれない」

 牡鹿を見ていた荊凍ケイテは気付かなかったが、メカクレの目は対向車線に横たわる仔鹿の死骸を捉えていた。雪上の血染みは一瞬で助手席の窓から見えなくなり、かと思うと次は前方、サイドミラーの中へ。

「鹿も人も、すぐ死んでしまうのう」

「なんだ急に」

 道はひたすら真っ直ぐ続く。メカクレが再び欠伸をした。

「すぐ死ぬから、忙しいのかもしれないな。もしくは」

 荊凍ケイテはギアを一段上げ、アクセルを踏み込んだ。

「忙しくなければ、退屈で死んでしまうからか」

 囚人たちの血と屍の上を、車は走る。



 窓の外は相変わらずの灰色。しかし一色ではない。目を凝らせば数多の色を孕んでいる。雲は陽を覆えば赤や山吹に輝き、青空を透かせば水色。早朝の雪影は青や紫の半透明で、トドマツの枝先に薄く積もる雪は、葉の色交じる緑。


 〝あを〟は古来、白と黒の間、様々の色を指した。あを即ち〝あを〟、陽が沈むばくとした草原。誰そ彼の空間に蠢く、曖昧模糊とした影。


 天地の狭間では、大蛇のとぐろにも似た〝あをいろ〟の混沌が渦巻く。

 生まれては消えるものたち――――鹿も、人も、蛇が孵す卵も、その波間に浮き沈む濃淡に過ぎず。



 荊凍ケイテが運転席のサイドミラーを、次に助手席のサイドミラーを見た。潰れた仔鹿は、疾うにミラーから消えていた。


 あの血染みも、彼方から見れば迷彩の如く雪へ交じり灰、いな、あをいろ。

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