第5話 チョークのリズム

 渡瀬は頻繁に僕の部屋へ来るようになりました。

 学校が終わり、一度家に帰って私服の時もあれば、何も気にせずに制服姿のまま来る時もありました。そして習慣として、まず僕の手を洗うのです。

「今日はね、馬油入りの石鹸。赤ちゃんにも使えるような優しい石鹸なんだって」

 渡瀬は鼻歌を交えながら嬉しそうに石鹸を泡立てます。僕も普通に右手を差し出します。白い泡が赤や黄のチョーク粉を浮かび上がらせ、虹のような泡が僕と渡瀬の手を包み込むのです。

「先生の手首って細いよね。頑張って指伸ばしたら、私でも掴んで指がくっつきそう」

 僕は僕の手を洗い続ける渡瀬を見つめます。

 最初の内はさすがに戸惑いましたが、人間は習慣に慣れていく生物です。渡瀬が僕の手と指を洗う時間も今となっては、苦にならなくなっていきました。僕の指を真剣な表情で洗う渡瀬の姿を見ていると、呆れも通り過ぎていったのです。

「右手のみーちゃん綺麗にねー左手ひーちゃん、優しくねー」

「?何だそれ」

「手の唄」

「は?」

「作詞作曲、私」

「・・・紅白は無理だな」

「編曲担当する?」

「遠慮しとく」

「右手のみーちゃん今日は頑張りましたー左手ひーちゃん、可愛いねー」

 渡瀬は僕の手を洗い終えると、そのまま僕の横に座りスマホをいじり始めます。雑誌を読む時もあれば、一緒にテレビを見たりする時もあります。僕の手を洗いにだけ来てすぐ帰る日も少なくありません。

 僕と渡瀬は、手を洗う洗われる、ただそれだけの関係でした。生徒と身体の関係を持ってしまった先輩のような愚行を、僕はしません。ただ、泡まみれな女子生徒の手と指が僕の手と指に絡み合い、纏わり、さすり合っている光景は・・・身体を重ねる行為よりも不埒で淫靡に思えたりもしますが。

「渡瀬」

「なに?」

「自分と一緒にいて、楽しいか?」

「居心地は悪くない感じ」

「そうか・・・」

「先生は?どう?」

「どうって?」

「私と一緒にいると面倒?」

「そんな事はないさ」

「ほんと?」

「ああ、もう慣れた」

「慣れた?私の事、飽きたって事?」

「そういう意味じゃないよ」

「飽きたら言ってね。すぐ帰るから」

 きっと恋だとか下心とか、そんな安い感情に飲まれただけの関係ならとっくに飽きていたと思います。好意という感情はは上昇下降のむらが起こる産物であり、ピークが過ぎればお払い箱というような構図が一般的です。

 僕が渡瀬に飽きる事はありませんでした。

 僕と渡瀬との関係は無味無臭。手を洗う以外、渡瀬は僕に何も求めようとはしませんでした。勿論僕も同じです。僕と渡瀬はずっと平行線の関係でした。激しい感情も、蔑視する意識も抱く事なく、ただただ側にいるという空気のような存在になっていったのです。だからこそ、僕が渡瀬に飽きるという気持ちは生まれなかったのです。隣にいるのが当たり前の存在になっていたのです。

 ただ、渡瀬の気持ちは僕と同じベクトルを向いてはいなかったようで・・・その日は、何の前触れもなく訪れました。

 いつものように渡瀬が僕の手を洗い、タオルで拭き、ハンドクリームを塗り終えた時、渡瀬は不意に僕の眼を見入りました。そして渡瀬は、風に吹かれる枯れ葉のように、身体をふわりと僕の胸元へと舞い落としました。

「先生の手で私に触れて」

 僕の手は渡瀬の頬をなぞります。

 背徳感。罪悪感。猥褻感。不道徳。非常識。それら後ろめたさの感情は、驚くほど僕にはありませんでした。何故なら僕は、渡瀬を疚しく卑しい目で見た事は一度もなかったのです。

 渡瀬は、あくまで生徒。

 手を出す事は120%ありません。

 僕は、あの先輩教師のように感情に身を任せるような人間じゃありません。どんな時でも自分の保身が先に来る人間です。生徒と一線を越える関係なんて以ての外。波風立たない僕の人生設計が崩れてしまう愚行です。

「先生の手で私に触れて」

 渡瀬はさっきと同じ言葉を繰り返しました。

 僕の手は渡瀬の頬をなぞります。頬のみを指で這わせました。

 渡瀬はそれ以上の意味を込めて二回目の言葉にしたのでしょうが、僕には頬が精一杯。それ以上は出来ません。何せ教師と生徒なのですから。

「むう・・・」

 渡瀬も僕の気持ちを察したのでしょう。三回目の言葉はありません。渡瀬はそれ以上何も言わず、僕の胸に顔を埋めるだけでした。

「先生、意外に忍耐強いよね」

「はあ?」

「女子高生に抱き着かれて手を出さないなんて、男性として終わってない?」

「終わった人間を見てきてるからな」

「そんなに私、魅力ないかな?」

「そういう問題じゃない。渡瀬だろうと誰だろうと、生徒と関係を持つのは無理だと言っているんだ」

「まあ今は、それで良しとしときましょうか」

 そう言った渡瀬は、猫のようにぐりぐりとを顔押し付け、ぎゅうと僕の身体に抱き着きました。僕は渡瀬の頭を優しく撫でた後、髪がくしゃくしゃになる程までに荒々しく渡瀬の頭を撫でました。これが限度、これ以上は無理だぞ、分かっているな?そう理解させる為に。


 僕の手の匂いが渡瀬の手の匂いと同じぐらいになった頃、僕のチョークのリズムは直っていたそうです。いつものように僕の手を洗っている時、渡瀬が教えてくれました。

 

 かつ。かっか。かつかつ。かっっか。かつ。


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