第4話 えくぼは破滅の落とし穴

 モーニングコールは朝六時。

 渡瀬は五回から七回までのコール音で電話に出ます。

 寝ぼけた声で、言葉も途切れ途切れで、欠伸混じりに電話に出るのです。

「・・・おひゃよう先生」

「おはよう。起きたか?」

「・・・まだパジャマ」

「早く着替えろ」

「ん・・・努力する・・・天気はどー?」

「天気?ああ、晴れてるよ」

「・・・」

「・・・?」

「。。。。。。」

「おい、渡瀬!二度寝するんじゃない!起きろ!」

「・・・ん、ああ・・・うん・・・じゃ、あとで・・・」

「渡瀬!」

 毎朝こんな調子です。疲れます。それでも月に一、二度程、調子が良い時もあるのですが、その時は滑舌も良く、テンションも高めで、ある時など寝起き姿を写真に撮り、コール前に送ってきた事もありました。寝癖でパジャマで虚ろな瞳、少し余裕な表情でピースをしながらで。

 しかし油断は禁物です。大丈夫だろうと安心していると、きっぱりしっかりと遅刻するのですから呆れてしまいます。自撮りする暇があるなら、ちゃんと眼を覚ませ!と、怒鳴りたい気持ちもありますが、あのキス写真がある為に強くも言えませんでした。

 とは言え、渡瀬の遅刻が以前よりも減ったのは事実です。一ヶ月に三回あるかどうかまで減りました。まあ、それでも多い方ですが、渡瀬にしてみれば格段な進歩であると思います。上出来だと思っています。遅刻が目に見えて減った事実は単純に喜ばしい事。それは渡瀬にとっても僕にとっても、です。

「先生、朝はごめんね。今日は本当に、ラッシュに耐えられないと思ったの。絶対酔って、吐くと思ったの」

「ああ、いいよ。今月はまだ二回目だし。明日はどうだ?」

「そうだなー・・・先生のコール次第かな」

「コール次第?」

「優しい声だったら、早く行こうかな」

「・・・とりあえず早く寝ろよ」

「うん、先生もね」

 渡瀬は遅刻してきたその日の夜、必ず電話してくるようになりました。渡瀬なりに多少の罪悪感があるのでしょうか・・・いや、きっとないでしょうね。ただの暇つぶしか何かでしょう。

 さて、その内に渡瀬からラインも来るようになりました。内容は本当にどうでもいいことばかりです。今日のチョークのリズム八十点だとか、お気に入りのお菓子の話だとか、家で飼っているらしい黒猫を無理矢理鍋に入れて半分蓋をした写真だとか、模様替えした部屋の写真とかも送られてきました。それを見て、僕はどう答えれば良いのかといつも悩むのです。

 そして、そんなやり取りが続く内に、僕と渡瀬は学校外でも会うようになっていきました。遅刻をしなかったご褒美をねだられ、食事に連れていった事が運の尽きでした。さすがに市内では人目に付いてしまうので、ドライブがてら隣街に行くのです。そんな時、渡瀬は驚くほど堂々としています。周りを気にしている僕が馬鹿に見えるぐらい、渡瀬は普通に過ごします。

「先生、何食べる?」

「渡瀬・・・何回も注意してるだろ?いい加減、その呼び方は止めろ」

「どうして?先生は先生でしょ」

「あのな・・・結構、これは、問題なんだぞ?」

「悪い事なんてしてないでしょ?」

「噂なんてものはすぐに尾鰭背鰭が付いて、とんでもない事実を作り出すんだ」

「ふうん」

「そうそう」

「じゃ、先生の名前で呼ぶね。俊太郎さん」

「え?」

「俊太郎さん、何食べますか?」

「・・・」

「俊太郎さん?」

「・・・やっぱり先生でいい」

「え、いいの?」

「・・・ああ」

「ふふ、そんなに名前で呼ばれるのって照れ臭い?」

 渡瀬は両頬にえくぼが浮かび上がる、あの悪戯っぽい笑顔で僕に聞き返してきました。そして、事あるごとに僕を名前で呼ぶようになったのです。少しでも弱みを見せると、渡瀬はすぐにそこを付いてくる油断も隙もない子でした。

 そして、ある日曜日のお昼。

 渡瀬は僕の自宅に何の連絡もなく急に訪れました。家の場所はドライブの際に教えた事があります。渡瀬の神経が図太い事は以前から知っていましたが、ここまで人目を気にしないとなると、何か抜けているんじゃないかと逆に心配になってしまいます。

「さっきまで帽子を深く被って、サングラスして変装してきたの。心配はいらないから」

 渡瀬の肩には変装道具か隠されているであろう、大きな鞄が下げられていました。とにかく人目に付くといけないので、僕は渡瀬の腕を掴み、勢い良く家の中に引き入れました。

「あのな・・・変装するんなら最後までやり遂げろ。どうして家の前で取っちゃうんだよ」

「知らない人が家の前に立ってたら先生出てくる?覗き穴を見て居留守使うでしょ、きっと」

「そんなちゃちな変装なら、渡瀬だってすぐに分かるよ」

と、言っている側から、渡瀬は僕の部屋を探索し始めました。こうなると何を言っても無駄だと諦めた僕は、渡瀬の気が済むまで放っておきました。その間、僕はソファーに腰を深く下ろし、渡瀬の行動をまじまじと観察する事に決めたのです。

 僕の部屋は十畳二間。結構広い空間ですが、整理整頓はきちんと行い、掃除も定期的にし、男一人暮らしにしては綺麗な部屋だと思います。渡瀬も拍子抜けしているかもしれません。汚い部屋を想像し、掃除でもしに来たのならお生憎様でした。僕は意地悪そうに渡瀬に声を掛けました。

「で、今日は何しに来たんだ?」

「手を洗いに来たの」

「手?」

「うん」

 渡瀬はいつだって僕の予想を裏切ります。

 僕の考えの遠く及ばないところで、渡瀬は僕を眺めているのです。

「何だよ、手って」

「何って、先生の手よ」

 そう言った渡瀬は僕の手を引っ張り洗面所に連れ出しました。

「このハンドソープとハンドクリームのコンボ、最高だから」

 そう言った渡瀬は自らの手にハンドソープを出し、両手両指を擦り合わせ、小刻みに動かし、石鹸の泡はみるみるうちにメレンゲのように大きく膨らんでいきました。

 意味が解りません。渡瀬が一体何をしたいのか、僕には全く理解出来ません。手を洗うとは、何?

「手、貸して」

「・・・手?」 

 僕は両手を渡瀬の前に差し出すと、渡瀬はまず僕の右手を握り締めました。くちゅくちゅと手を洗う音が聞こえます。指一本一本、丁寧に時間を掛けて洗います。僕はただ、その様子をじっと見つめる事しか出来ませんでした。渡瀬、何をしてるんだ?とは聞きませんでした。見たまんま、そのまんま、渡瀬は僕の手を普通に洗っているだけなのですから。

「先生って、緑とか青とかあまり使わないからいいよね。あれ、見辛いの」

「・・・え?何の話だ?」

「チョークの事」

「チョーク・・・」

「うん。白と赤だけで十分。化学の後藤先生なんて、あるだけのチョーク使うから、もう見辛い見辛い。黒板の緑に緑のチョークって有り得ないし」

「はは・・・」

 チョークの粉が爪の中に一旦入ってしまうと、軽く洗うだけでは流し切れません。しかも、授業は毎時間あるのですから、一々完璧に手を洗う事も出来ません。その内にチョークの粉が手のあらゆる部分に染み込み、同化し、変色し、職業病とも言える奇妙な肌の色を作り出します。まあ、個人差はありますけども。

「はい、今度は左手」

「・・・」

「染みたり、ひりひりしたら言ってね」

「ああ」

「これ、オリーブオイル入りなんだ。すごいつるつるになるし、肌にも優しいの」

「・・・」

 僕と渡瀬の手は絡み合い続け、泡は細かく膨らみ続け、数個の泡が手から放れて小さなシャボン玉となりました。優しい香りが僕の鼻孔をほんのり擽りました。

「先生の手、私好き。女性みたいな手してる」

「・・・」

「でも触ってみると、やっぱり固くて太くて、男の人の手って感じがする。もっと好きになるの」

「・・・」

「だから、綺麗にしてあげたいの」

「・・・」

「迷惑?」

「いや・・・」

「じゃ、また来ていい?」

 一瞬、僕は戸惑いました。キスの写真に自宅バレ・・・拒否しよう物ならどんな報復が待っているか分かりません。僕は一拍置いて頷きました。手を洗うぐらいなら問題はないだろう、と。それに何より、例え断ったとしても素直に従う子ではありません。

「嬉しい」

 その時の渡瀬の笑顔は何かを企んでいるような、あの悪戯っぽい笑顔ではなく、純粋に喜んでいるような笑顔に見えました。普段よりも、えくぼの窪みが深いような気がしたのです。特に左頬に出来るえくぼが深いように見えました。

 えくぼは恋の落とし穴とアイドルが言っていたけれど、この落とし穴に落ちたら僕は破滅だという事を改めて肝に銘じました。

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