第3話 モーニングコール

『チョークの音、リズムが好きよ』


 無意識的に行ってきた動作に対し、一度でも意識を携えてしまうと、もう元には戻れません。脳は動作を考え、細胞はその伝令を待ち、身体の動きが僅かな時間、停止します。

 例えば、無意識的に日々行っている歩くという行動を改めて意識して行うと、どことなくぎこちなく見え、違和感だけが残ります。つまり無意識的な行動に一度でも疑問を持ち、脳で考えて演じようとすると、今までどうやって動いていたのかが急に分からなくなるのです。

 大学の後輩で陸上部に所属する女の子がいました。彼女はトラックを走っている最中、あろう事か自分が今までどう心臓を動かしているのかを意識してしまったのです。その途端、どう心臓を動かして良いか分からなくなり、過呼吸を起こし病院に運ばれました。

 心臓なんて意識的に動かしている物でもなく、勝手に二十四時間動き続けている物体です。どう動かそうだなんて考える物じゃあありません。しかし、一つ歯車が狂ってしまうと大惨事になってしまう、いい例です。


 指導室の一件以来、僕は、黒板に走らすチョークの手が幾度も止まってしまうのでした。原因は解っています。黒板の前に身体を向かわせ、右手にチョークを持ち、いざ書こうとする時、決まって渡瀬の言葉を思い出してしまうのです。

『チョークの音、リズムが好きよ』

 チョークのリズムって何だよ・・・そう意識した瞬間から、毎日握っている筈のチョークが重くなりました。

 今までどうやって書いていた?

 どれぐらいの早さで書いていた?

 文字の大きさや太さはどれくらいだ?

 どんなに思いだそうとしても、以前のような無意識の感覚は戻ってきませんでした。その結果、僕は一文字一文字を意識しながら、ぎこちなくチョークを動かし続けるのでした。その為、黒板に文字を書く早さが格段に遅くなりました。授業の時間配分も狂ってきました。チョークを握る力の強ささえ定まらず、折ったり落としたりしてしまうのです。こんな事は、今まで一度もありませんでした。リズムなんて刻む暇もありません。

 試行錯誤しながら文字を綴り、やっとの思いで書き終え、ほっとしながら振り返ってみると・・・教科書で顔を隠す事もなく熟睡している渡瀬の姿があったりするのです。リズムが良かろうが悪かろうが寝るのかい。そんな心の乱れはすぐに現れ、チョークを走らす速度は更に遅くなりました。


 渡瀬との一件から一ヶ月経った頃、僕のクラスで問題が一つ発生しました。

 その問題とは、クラス内の遅刻者が増えた事です。今まで遅刻と言えば渡瀬ぐらいでしたが、日が経つに連れて一人、また一人と増えていったのです。理由は解っています。渡瀬の影響です。渡瀬の遅刻癖は依然として治らず、その連鎖反応として皆に波及してしまったのです。

 僕は頭を抱えました。波風立たない平和で穏和なクラス作りが理想であるのに今、厄介な風が吹きつつありました。しかも、その発端が当初全くノーマークだった渡瀬ときているのです。

 今の内に手を打たなければ収集が付かなくなります。どうにかしなければいけません。溜め息と舌打ちが交互に湧き出ます。生徒の指導なんて面倒臭くて無駄骨だらけで、かったるくて時間の無駄であると思っていましたが、後々手遅れになるよりかは今、面倒な仕事は済ませようと僕は思いました。

 放課後、僕は渡瀬を再び指導室に呼ぶ事になりました。生徒の為だとか、風紀の為だとか、そんな事はどうでも良い事です。僕の体面を守る為に、渡瀬を叱る事にしました。

しかしです。

 今思えば、これが間違いでした。渡瀬の事を全く理解していなかった僕の落ち度でした。渡瀬を他の生徒と同じように扱おうとした僕の軽率さでした。

 そう。

 涼やかな二つの瞳の奥にある、渡瀬の揺らめいた感情を僕はまだ知っていませんでした。いえ・・・そんな綺麗なものじゃありません。もっと悪戯的で揶揄的で、娯楽的な衝動を渡瀬は常に持ち抱いていたのです。しかも渡瀬本人、その事に気付いていないのです。無意識的な感情こそが、何より一番厄介なのでした。

「先生、最近調子悪いの?」

「あ?」

「チョークのリズム、最近、変だけど?」

「・・・普通だよ」

「そうかな?あんな音じゃ、すぐ眠たくなるんだけど。聞き苦しくて」

「・・・」

 指導室に入るなり、すぐに渡瀬は僕に話し掛けてきました。そこで簡単に出端を挫かれました。本来なら僕の方から本題を切り出し、有無を言わさず強固に端的に叱る予定でした。その後で同情的な優しい言葉でも掛けて上げれば、渡瀬程度の生徒なら素直に謝るだろうと考えていました。

 それでも反抗的な目つきをしてきたなら、親を呼び出す、内申書をちらつかす等のカードを切り出せば良い事です。僕の身の保全を維持する為には、多少乱暴な手段を使うのも仕方のない事です。ですが、渡瀬はそんな僕の魂胆を見抜いたように、話の主導権を簡単に持ち去っていきました。

「チョークの音が変って事は、最近悩み事でもあるの?」

 そう言った渡瀬は先にソファーに座りました。

「悩み事・・・か」

僕もソファーに座り、正面に座る渡瀬を見ました。短いスカートから二つの膝小僧が顔を出しています。

「私で良かったら、話ぐらい聞くけど?」

 どこまで本気なのか、冗談なのか、単にからかっているだけなのか・・・渡瀬の瞳からは何一つ真意が見いだせません。ただ、悪気はないように見えるのは気のせいでしょうか。渡瀬の少し潤んだ瞳を見つめていると、本当に僕を心配しているようにも見えてしまうのです。

「悩みね・・・」

「うん」

「お前だよ」

「え?」

「渡瀬だよ」

「私?」

「そ。悩みの種は渡瀬、お前だよ」

「私・・・先生に何かした?」

こういう事を言うか。何をしらばくれているんでしょうか。僕は渡瀬にも聞こえるよう、深く大きな溜め息を見せつけました。

「遅刻癖、どうにかならないか?」

「またその話?前に話した通りなんだけど」

「最近クラスの遅刻者が増えてるだろ」

「それが何?」

「原因は誰だと思ってる」

「私のせい?」

「いいか。例えばな、見るからな不良が遅刻したってみんな真似はしないさ。自分とは違う生き物として見下したり、関わりたくないと感じるからな」

「暴言過ぎない?」

「ただな・・・渡瀬みたいな見るからに普通な生徒がだな、こう遅刻が多いとな・・・自分もしちゃおう、自分も遅刻ぐらいしていいかな、なんて思っちゃうものなんだよ。流れに身を任す自分を持たない十代ってのはな」 

「でも、それって私のせいじゃなくて、個人意識の問題じゃない?遅刻しない人はしないでしょう?」

「・・・」

 僕は口ごもった。確かに渡瀬の言う通り。正論だった。罪を犯す原因は環境にあるとよく言われるけれども、僕はそう思わない。子供程の年齢なら仕方ないかもしれないが、少なくとも高校生以上が犯す罪に対し、生活環境が影響している割合なんて一、二割程度なものだろう。残りはやはり、個人の意識の問題だ。環境のせいだなんて言っている人間は言い訳に過ぎない。いい歳して善悪の区別も付かないのか、と。


 僕は、ある事件を思い出します。

 僕が教師になって間もない頃、右も左も解らない僕に対して色々と教えてくれた男性教師がいました。三十代前半で僕と同じ日本史を教え、演劇部の顧問でもあり多数の生徒から慕われている教師でした。

 まだ新人で馴染めない居心地の悪い職員室内でも、彼は僕に話しかけ、周りを巻き込み、コミュ力が低い僕の代わりに周りの教師達と接点を持たせてくれた、言わば恩人でした。

「どうしてこんな不愛想な僕なんかに親切にしてくれたんですか?」

 数年経ったある日、満を持して先輩に問いただしました。飲み屋で酔いも少し回った時の言葉でした。

「ああ。教師は二種類しかいないから。教師になろう!と自分なりの信念を抱いて教師になる人間と、取り合えず教員免許があるから、取れたから教師にでもなるかという何かを諦めた人間さ」

「僕が後者に見えましたか?だから親しくしてくれたんですか?」

「はは。教師の九割は後者だよ」

「え?」

 彼からそんな言葉を聞くとは意外でした。

「信念は月日が経つに連れて崩壊し、理念は消え去り、聖職者だなんて意識は皆無になり、理想を諦める。そして九割に落ち着く」

「・・・」

「でもな、信念理念を突き通す一割が周りから浮き、厄介者となる時もある」

「・・・」

「教師なんて不条理なもんだよ」

「今、先輩はどっちなんですか?九割ですか一割ですか?」

「俺は・・・教師失格だろうな」

「え?」

 その言葉を言い終えると彼は酔いが回ったのか、テーブルに突っ伏し寝てしまいました。教師失格の意味も、僕に親しくしてくれた理由も答えないまま、先輩はいびきをかいて寝てしまいました。

 なんだよ・・・僕は先輩をタクシーで送り、部屋に押し込み、そのまま僕は自宅に帰った。あんなに酔い潰れた先輩を見るのは初めてでした。


 その二か月後、先輩は学校を辞めました。

 先輩は生徒の母親を殴ったそうです。

 その話を最初に聞いた時、僕は鼻で笑いました。先輩がそんな馬鹿な事をする訳がないからです。まあ、先輩だって人間ですから、そんな衝動に陥いる時もあるかもしれません。しかし、その衝動を抑えられるだけの精神力は持っている人間です。

 ある事ない事が噂になって教員内で広がっていきました。僕は憤りを感じました。もしかすると先輩は、何かの犠牲になって学校を辞めたのでは?そう思うようになっていきました。

 結局この一件は内々に済まされ、一切の詮索を止めるようにと釘を刺されました。勿論表沙汰になる事もありませんでした。


 僕は真実を聞こうと思い、先輩に電話をしました。

 先輩は全て真実であると話しました。

 ある女子生徒が母親から虐待を受けられていたそうです。先輩は母親に会いに行きました。するとです。母親は涙ながらに、自分も子供の頃、母親に虐待をされていたと話し始めたらしいのです。

 同じ辛さを娘に経験させてはいけない・・・母親は常日頃そう思っていたらしいのですが、娘が成長するにつれて、感情の何かが歪んでいきました。私が子供の頃、あれだけ苦しく辛い思いをしてきたのに、どうしてこの娘は今、こんなにも幸せに生きているの?

 母親は実の娘に嫉妬を抱きました。そこから先は鬼畜の思考です。狡い、狡い、狡い、程なくして虐待が始まりました。母親なんだから娘に何をしても良いという考えに切り替わりました。自分の受けてきた傷を、今度は実の娘に擦り付け始めました。 

 その話を女子生徒から聞いた先輩は母親に同情などする事なく、有無を言わさず母親を殴りつけました。一度ではなく、二度三度。そして先輩を止めたのは、その母親の娘でした。

 先輩は、その責任を負い教師を辞めたのです。僕は言葉が出ませんでした。どこに彼の非があるのでしょう?彼を罰する必要などありません。確かに殴ったのはやりすぎでしたが・・・復職出来るように校長に申し出ましょうかと、僕は先輩に話しました。しかし、先輩は僕を止めました。

 先輩は言います。

「どうして虐待を見付けられたか分かるか?」

「女子生徒の告白ですか?先輩は生徒から信頼されていましたから」

「虐待されている子は、自らの事は話さないものだよ。むしろ隠し通す」

「じゃ、周りからの情報ですか?」

「噂なんて信じるものじゃない」

「・・・虐待された傷跡を見付けた、ですか?」

「そうだ」

「・・・それがどうしたんですか?」

「母親は自らも虐待されていたんだ。つまり、どう虐待すれば良いのかを知っている。周りに気付かれるような傷跡を残してはいけない事も、子供の頃から知っていた」

「・・・」

「彼女の傷もまた、外見からは見付けられない場所にあった。顔や腕や脚や首等に傷を付けてしまえば、すぐにばれてしまうからな」

「・・・」

「傷跡は胸の下や腹、太ももの裏、臀部に集中していた」

「え?臀部?」

「ああ、そういう事なんだよ。俺が教師を辞めるのは、当然の事なんだ」

「あ・・・」

 胸の下や腹、太ももの裏、臀部の傷。

 それらは全て制服の下の傷。

 もっと言えば裸体にならないと見えない傷。

 そうなのです。

 女子生徒と先輩の間には身体の関係があったのです。

 そこに到る経緯は知りません。ただ、日に日に傷付いていく生徒の姿に我慢がならなくなり、この騒動に至ったというのが真相でした。その後の事は分かりません。女子生徒は安全な環境で過ごす事になったのかもしれません。或いは、母親と未だに一緒に暮らし、虐待は続いているのかもしれません。ただ、もし、先輩と女子生徒の関係がなければ、虐待は闇のままだったのも事実です。

 虐待は環境が産んだなんて子供の言い訳です。単なる個人意識の問題を、生活環境のせいにするというのは調子が良すぎます。教師と生徒の関係も互いの意識の問題です。


 その後、先輩と会う事はありませんでした。

 見損なったり、嫌悪感に陥った訳ではありません。本人の意思に基づいた行動なのですから、僕がどうこう思う権利はありません。ただ単純に、会う理由も必要もなかったからです。

 教師失格。

 今後も先輩と関わり合うという事は、僕自身にも何らかの責任が生じます。波風立たない普通な生活を過ごしたい僕にとって、それら一連の事実は煩わしいだけの物に変わっていきました。 

 反面教師。

 僕は改めて、他人と深く関わり合う事は損だと気付きました。得な事もあるでしょうが、総計すれば損である方が多いと思います。結局、人間関係は損得でしか成り立たないという事です。 

 今、僕は渡瀬を叱っていますが、それは渡瀬の為を考えての事ではありません。担任である僕の立場を汚すな、という事です。個人の意識なんて物は集団社会において必要とされません。むしろ、余計な物です。生徒は大人しく教師の言う事を聞いていれば良いのです。それを納得する事こそが、生徒としての意識だと思います。

「渡瀬が遅刻をなくせば、皆もしなくなる」

「でも、私にだけ注意するのって、なんか不公平な感じ」

「その遅刻してる生徒にも勿論、注意はするさ。ただ、」

「ただ?」

「大本をどうにかしないとな」

「大本って、私の事?」

「そうだよ」

「そっか」

「・・・」

「先生、そんな事で悩んでたの?」

「そんな事とは何だよ」

「ふうん。だから、チョークのリズムも不協和音だったのね」

「渡瀬がリズムとか言うから、変に意識しちゃったんだよ」

「それも、私のせいなのね」

「だな」

「全部、私のせいにするのね?」

 僕は口を噤み、ゆっくりと眼を伏せました。渡瀬の視線が真っ直ぐと淀みなく、僕を突き刺したからです。僕は組んだ手を見つめ、人差し指を意味なく動かしたりしていました。

 するとです。カシャリと、聞き覚えのある機械音が指導室に小さく響きました。僕ははっとして顔を上げました。

「先生の困ってる姿って、可愛いね」

 そこにはスマホのカメラを僕に向ける渡瀬がいました。

「これ、壁紙にしよう。みんなに見せたら何て言うかな」

「渡瀬・・・」

「冗談。さっきの、ちょっとした、お返し」

「・・・」

「あ、でも、良く撮れてる。ほら、先生見て。項垂れてる感じが哀愁を醸し出していて・・・」

「・・・」

 渡瀬は身を乗り出してスマホの画面を差し出しました。僕は軽く身体を前に傾け、渡瀬が持つスマホを覗き込みました。隙を見て取り上げ、消去しようと考えていたのです。

「ね?」

「どれどれ・・・」

 と、その瞬間でした。再び、あの音。

 カシャリ。

 僕の背中に冷たい汗が走りました。ぶわっと耳の裏に脂汗が湧き出ました。一方の渡瀬はスマホを抱きしめ、倒れ込むようにソファーへと横になりました。スカートの裾がふわりと捲れ上がます。そして、うっすらと笑みを浮かべてスマホの画面を覗いています。

「渡瀬・・・」

「先生も見たい?」

「・・・」

 二枚目の写真。そこには、僕の頬にキスをしている渡瀬の姿がいたのです。

 やられた。隙を付かれたのは僕の方でした。女は恐い。これで僕を脅す気でしょう。こんな写真が表に出たら何の言い訳も出来ません。先輩の顔が鮮明に浮かび上がりました。僕は定年まで数十年ある身です。今、辞める訳にはいきません。 

「これ、みんなに送ったら面白いよね」

 そう言っている渡瀬の口元も瞳も、実際には笑ってはいません。僕も同じでした。

「・・・何が望みだ」

「え?」

「遅刻を見逃してほしいのか?テストの回答を教えてほしいのか?それとも、お金か?」

「先生?何言ってるの?」

「何って・・・」

 僕は渡瀬の携帯に視線を向けました。

「あ、もしかして・・・あーなるほどね。はは、そっかそっか・・・」

「・・・」

「この写真で先生をどうにかしようだなんて私、全然考えてないから。単に面白いかなって思っただけ。そんな脅し的な事、全然思いつかなかった・・・でも、それっていいアイデアかも」

「・・・」

「うん、決めた」

「決め、た?」

「先生をオドソウっと」

「・・・」

「先生、モーニングコールして」

「は?」

「電話番号教えるから、モーニングコールして。そしたら遅刻しないかも」

「渡瀬・・・」

「脅しにしては破格な安さでしょ?」

 渡瀬はスマホの画面をちらちら見せながら、にやりと悪戯的な笑顔を作り出しました。渡瀬の二つの頬に、浅いえくぼが浮かび上がりました。ここで僕が怒鳴ったり、力任せな対応をするのは得策じゃありません。そんな素振りを少しでも見せてしまうと、渡瀬は送信ボタンをすぐに押す事でしょう。ここは言う通りにしなければなりません。

「本当に、遅刻しないんだな・・・」

「遅刻しないかも、よ」

「渡瀬・・・」

「だったら毎日、家まで迎えに来てくれる?それが一番、遅刻をしない方法だと思うけど」

「・・・」

 結果、この日から僕は毎朝、渡瀬にモーニングコールする羽目になったのです。抵抗は勿論ありましたが、背に腹は替えられません。それにです。これで遅刻がなくなるなら安いものだと思い、僕は引き受けたのでした。


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