第2話 三日坊主
渡瀬恵美。
彼女ほど普通、平凡な生徒はいませんでした。
優等生でもなければ、不良でもない。成績も良いとは言えないが、悪くもない。ぱっと見の明るさは感じられないが、地味というほどでもなかった。つまり全てが平均点、それが渡瀬恵美でした。
一年の担任を受け持った当初、これほど名前が覚えにくい生徒もいませんでした。僕が勤める高校には、自分が受け持つクラスの生徒の名前を全て覚えるという、訳の解らない規則がありました。以前、ある教師が生徒の名前を間違えて呼んでしまい、それがその親の耳に入り、学校に乗り込んできた事がありました。娘を軽視している、いじめへの予兆だ、教師としての自覚が足りない等々、馬鹿な強弁を繰り返したのです。その事件以降、担任は新学期を前にクラス全生徒の名前を覚えさせられる羽目になったのです。
僕は人の名前を覚えるのが苦手です。元々、他人自体にに興味や関心がないので、その名前を覚えようとする気持ちが薄いのは当然です。それでも学校命令なので、仕方なく生徒の名前を覚えていたのですが、一番最後に覚えたのが渡瀬恵美だったのです。何の特徴もない渡瀬の顔と名前を一致させるのはかなり困難でした。
渡瀬はごく普通な生徒、際だった物がない生徒、いるかいないか解らない生徒でした。逆に言えば、何の問題もない生徒です。無難に生徒してくれる、生徒でした。手を煩わせる事のない、教師にとっては有り難い存在でした。
ですが、そんな渡瀬にも一つだけ、問題な点があったのです。それは遅刻癖でした。入学して一ヶ月程経った頃から、渡瀬は頻繁に遅刻するようになっていきました。四日に一度は遅刻してきます。
僕が出席を取っている時間に渡瀬は教室に入ってくるのです。渡瀬なりの気遣いなのでしょうが、点呼の妨げにならないようそろりとドアを開け、腰を低くし、愛想笑いを浮かべながら自分の席に着くのです。その一連の流れが何か滑稽で、憎めなく、くすくすと静かな笑い声が教室から漏れだします。点呼に影響がない程の静かな笑い声ですし、すぐに止むので支障はありません。
渡瀬の名字の頭は『わ』なので、出席番号は最後から二番目。返事には辛うじて間に合ってはいたのですが・・・悪びれた様子もなく涼しい顔で返事をする渡瀬の姿を見ると、何か問題児になりそうな気配を僕は感じたのです。僕は釘を差す事に決めました。
「渡瀬」
「はい?」
僕は放課後、渡瀬が帰る所を引き留めました。
「最近、遅刻多くないか?」
「そうですか?」
「先週も今週も二回ずつ」
「でも、ちゃんと出席の返事には間に合ってるでしょ?」
「そりゃ、そうだけど」
「サボらないだけ、真面目じゃないですか?」
「・・・」
遅刻を注意すれば素直に謝ると思っていた僕の予想を、渡瀬は簡単に裏切ってくれました。渡瀬と一対一で話したのは、この時が初めてだったので意外というか、面食らいました。そして何より意外だったのは、渡瀬の口調が滑らかだった事。一言二言の言葉だけで済まして、さっさとこの面倒な場から立ち去ろうというような態度ではなかったのです。ちゃんと会話が成り立っていたのです。はい、わかりました、とか、以後気をつけます等の、その場しのぎの生返事ではなかったのです。
「真面目ねえ・・・」
「そうでしょ?」
「とりあえず・・・近々、遅刻者の一斉取り締まりがあるらしいから気を付けろよ」
「そんな情報話していいの?」
「あくまで噂だよ」
「そうなんだ。でも大丈夫。先生方が職員室で朝の朝礼してる時を見計らって、学校に入ってるから」
「・・・」
「その時間にはもう遅刻見張り先生もいないしね。最悪、体育館の裏から入るし」
「慣れてるな」
「まあね」
「・・・とりあえず、程々にな」
「うん、ありがと。先生には迷惑かけないようにするから」
「・・・」
意外に勘の良い子なのかもしれない、そう僕は思いました。今回の注意は渡瀬に対してのものではなく、僕自身に対しての保護でした。遅刻取り締まりで自分のクラスから対象者が出てしまうと、何かと面倒なのです。担任意識が足りない、学校とは教育だけではなく集団生活を教える場だ、教師としての自覚と責任がない等々、職員会議でねちねち言われてしまうのです。
渡瀬は、僕の言いたい事を感じ取ってくれたかな、と少し期待しました。僕に迷惑を掛けないとは、そう言う事だろう、と。
「渡瀬、恵美・・・か」
さて、その数日後、遅刻者一斉取り締まりが行われました。そこに引っかかった生徒は職員室から少し離れた廊下に正座させられ、体育教師で生活指導の高木にいびられるのです。そんな中、僕は人事のように生欠伸をしながら出席簿を脇に抱え職員室を出ました。
高木の甲高い声が廊下に響き渡っています。
「やってるな・・・ご苦労な事だ」
失笑気味に唇を歪ませた僕は、どんな顔で高木は怒鳴っているのだろうかと興味が沸いてきたのです。悪趣味な僕です。僕は教室に向かう足を止め、怒鳴り声が聞こえる方へと身体を移動させました。静かに廊下を歩き、顔半分だけを壁から覗かせました。
「・・・」
十数人の遅刻者が壁を背にして一列、正座していました。その前を高木は幾度も往復しながら説教を繰り返しています。このご時世にそこまでするかね・・・僕は半ば呆れ顔でその場から立ち去ろうとしました。
が、僕は、絶句しました。
正座している十数人の遅刻者の中に、渡瀬がいたのです。しかも、一年生の女子は渡瀬だけでした。普通にしていても目立ちます。
更にです。その渡瀬はと言えば別に反省する様子もなく、どうして自分が正座させられているか解らないような感じで、いつもの涼しい表情を浮かべていました。また変に姿勢が良い為、相手を挑発、逆撫でするようにも見えてしまっていました。
生活指導の高木はこういう生徒を嫌います。少しでも、嘘でもいいから項垂れて反省している感じを出せば、高木も納得するのです。他の生徒達もそれを知っているらしく、背中を曲げ、反省じみた表情を作っています。ですが、その中で渡瀬だけが背中をぴんと真っ直ぐ伸ばし、両手を膝に置いた正座らしい正座をしている為、余計に目立っていたのです。必ず高木に目を付けられる・・・そう確信した僕は溜息を軽くつき、遅刻者が座り並ぶ廊下に足を向けました。
「・・・」
高木と遅刻者達の視線が僕に集中します。その中で渡瀬と僕の視線が絡み合いました。僕は鼻から空気を静かに吸い込み、ゆっくりと肺に酸素を取り込みました。そして。
「渡瀬!放課後、指導室に来い!」
僕は露骨過ぎる程の怒鳴り声を渡瀬に投げ放ちました。廊下に僕の声が響き渡ります。高木は驚いたように目を丸くして僕を見つめていました。
「・・・」
僕は高木に軽くお辞儀をして歩き去りました。これで高木も渡瀬に対し、追い打ちをかけるような叱り方はしないでしょう。そして僕に対しても、後からあからさまな嫌味を言う事はないでしょう。
ああ全く、渡瀬を少しでも信じた、買い被った自分が恥ずかしい。僕が一番嫌いな人間は、僕に迷惑を掛ける人間です。そのせいでいらない悩みが増えるのは我慢ならないのです。
さて、その放課後ですが、僕は啖呵を切った手前、とりあえず指導室に寄りました。別に渡瀬が来ようが来るまいが、どうでも良い事でした。高木のような単純な奴には、一応のそれらしい行動を見せておけば満足するものです。僕はと言えば、指導室の扉の前に使用中の札を掛け、少しの間ソファーで横になって時間を潰せば良いと考えていました。考えていたのですが。
「先生、遅いよ」
「渡瀬?」
僕が指導室に入ると、すでに渡瀬は来ていました。ソファーに座り、悠々とスマホをいじっていたのです。こんな時は律儀に遅れずに来るのだなと、半ば呆れながら渡瀬の前に座りました。
「本当に来たんだな」
「来たんだなって、先生が呼んだんじゃない」
「まあ、そうなんだけどさ」
「朝はありがとう。助けてくれたんでしょう?私が、あれ以上怒られないように」
「違うよ。あのまま渡瀬を見捨ててしまうと、高木先生から嫌味言われるのは自分だから。生徒管理がなっていないとか、担任失格ですとか。で、朝礼の時にも他の先生がいる前でぐちぐち言われるのが落ち。あの先生しつこいからなあ」
「ふーん。じゃ、そーゆー事にしとく」
「ああ。じゃ、いいぞ、帰って。今度から気を付けろよ」
僕は子供や虫をあしらうように、しっしと手の甲を渡瀬に向けながら手首を前後に動かしました。するとです。渡瀬は席を立つどころか、より深くソファーに腰を埋めたのでした。
「はあ、やれやれ。先生、馬鹿ねえ」
「あ?」
「こんなに早くお説教終わったんじゃ、高木先生にまた何か言われちゃいますよ?」
「え?」
「随分お早い事ですね、とか。変に怪しまれちゃいます」
「・・・」
「とりあえず、形式的な時間だけでも二人でいましょう?」
僕は両肘を両膝の上に置き、組んだ手をおでこの上に押し付けました。何でしょうか、僕の中で渡瀬のイメージがどんどん修正されていきます。地味で大人しくて、大人の言う事はきちんと守る生徒という第一印象は、まるで間違いでした。渡瀬は僕が思っているよりも遙かに思慮深い・・・いや、ずる賢い生徒だったのです。第一印象なんて当てになりません。特に女性の場合はそれが顕著に表れます。ただ単に、男の眼力が劣っているだけかもしれませんが。
「・・・で、どうして遅刻が多いんだ?寝坊か?」
「ううん」
「アラームが聞こえないとかか?二度寝とかか?家に時計がないとかか?」
「全部はずれ」
「・・・どうして遅刻なんてするんだ」
「バス」
「バス?」
「そう、バス。ラッシュ時間は嫌なの」
「嫌なのって、お前な・・・」
「人が多いと酔っちゃうの。本当に吐くぐらい」
「それで、時間帯をずらしてバスに乗るって訳か」
「そんな感じ」
「・・・」
「さすがに毎日は遅刻出来ないから、一本早めにしたり、ラッシュを我慢したりする日もあるけど」
「毎日一本早めのバスに乗る事は・・・出来ないのか?」
「早起きは眠たいでしょ?」
「子供の理由だな・・・」
「いや、それでも私、早く起きようと努力はしてるのよ?」
「なるほど。だから三、四日に一回の遅刻なんだな」
「そういう事。何事も三日坊主だから、私」
「三日坊主・・・か」
腹が据わってるのか、度胸があるのか、それとも単に鈍感なだけなのか。何の問題もない生徒だと思っていのに、その内面はそこら辺の不良よりも達が悪い。自分が正しいと思っている分、厄介な人物でした。この先、ちょっとした事で要注意人物になりそうな雰囲気です。今後、気をつけなくてはならない生徒の一人になりそうだと、僕はその時に感じました。芽は今摘まなくては、と。
遅刻癖は早急に直さなければなりません。これ以上、遅刻が何度も続くようであれば教師間の話題にも上るであろうし、クラスにも何らかの悪影響が出てくる可能性もあります。僕は柄にもなく、どうすれば渡瀬の遅刻癖が直るか考え始めました。そんな矢先です。
「私ね、先生が黙々と授業進めてるところ、好きなんだ」
「は?」
渡瀬はスマホをいじりながら突然、僕に話しかけてきました。ですが、その視線はスマホの画面。渡瀬の声だけが僕の耳に入ってきます。
「先生ってさ、いつも事務的に淡々と授業してるじゃない?他の先生はさ、一応形式的に生徒に教科書読ませたり、質問したり、軽い雑学雑談とか言うんだけど・・・先生は、ゼロ。ただひたすら教科書を読んで、ただつたつたと黒板にチョークを走らせるだけ」
「・・・」
「でもね、私は先生のそんなところが好き。生徒に媚びを売らないっていうか、一線を引いてるっていうか、ね。大人な感じがする」
「・・・ま、要するに、面白くなくつまらない授業だって事だな」
「まあね。でも、先生は好き」
「そんなんで、ひいきはないぞ」
「期待してないし。それとね、あれが好き。先生のチョークの音。リズムがいいの」
「リズム・・・?」
「うん。黒板にチョークで色々書くでしょ?その時の音。かつかつかつ・・・って」
「意識していないから解らないな」
「あの音、心地良くなって眠たくなるの。他の先生じゃ駄目」
「渡瀬、お前なあ・・・」
「冗談。でも、先生のチョーク、本当に好きだから」
「・・・」
「あ、もうそろそろ、叱られ終わるの、いい時間じゃない?じゃ、先生、私帰るから」
「あ、ああ」
一人指導室に取り残された僕は何気なく、自分の両手を眺めてみました。
チョークの音ねえ・・・僕は意味なく両手を閉じたり開いたりしてみました。そして、はっと気付いたのです。やられた。渡瀬はまんまと遅刻の話題を掻き消し、どうでもいいチョークの話にすり替え、涼しい顔で何事もないように帰っていったのです。
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