僕の手指は毎日毎夜、丹念に入念に女子高生に洗われる
@kuronekofutago
第1話 渡瀬恵美
その彼女は僕の両手を洗うのです。
丁寧に、丹念に、入念に時間を掛けてゆっくりと僕の手を洗ってくれるのです。
石鹸を泡立て、爪の隙間、指の間、親指と手首の間にある窪みの部分まで余す所なく洗ってくれるのです。手の甲に浮き出る蒼色の血管や細い骨に沿いながら、彼女の細い指は滑るように蠢きます。優しく静かに、時に強く擦る時もありますが、それもまた心地良い刺激となって僕の脳細胞を甘やかすのです。
幸せの価値観、基準は個々によって異なるとは思いますが、今彼女に洗われている僕の両手はどの男性の手よりも愛情に満ち溢れ、幸せに包まれていると思うのです。
彼女は僕の両手に名前を付けています。右手のみーちゃん、左手のひーちゃんという安直な名前です。しかし、彼女がみーちゃんひーちゃんと鼻歌混じりに口ずさみながら僕の手を洗ってくれる姿は、何か滑稽で、何故か愛おしい気持ちになるのです。
「先生、爪伸びてる」
「そうかな」
「最近伸びるの早いみたい。この前切ったばかりなのに」
「健康な証拠だろう?」
「切ってあげる」
彼女の名前は渡瀬恵美。高校一年生。つまりは僕の教え子です。
高校教師と女子高生だなんて今時ドラマにもならない関係。更に言えば、僕と渡瀬との間にはドラマのような物語性は何もありませんでした。純愛でもなく、泥沼でもなく、身体だけを求め合う関係でもなく、背徳感に押し潰されて悩み苦しむ関係でもありませんでした。そんな豊かな感情を持ち寄った二人ではなかったのです。無味乾燥。無色。無臭。暇潰し。時間潰し。
僕と渡瀬はそんな関係でした。
「あ、爪の真ん中に白い斑点出来てる」
「爪の先に到達したら願いが叶うんだったっけ?」
「幸せになるんじゃなかった?」
「・・・ま、どっちでもいいさ」
濃淡のない口調、空気に染まるような仕草、見返りを求めない静かな瞳を向けて、渡瀬は僕と接します。その曖昧な距離が非常に快く、ぬるま湯に肩まで浸かっているような心地良さを生み出します。
爪の先に白い斑点が到達したとして、その爪を切るのは渡瀬の役目。その光景は僕に安堵感という幸福を与えてくれる事でしょう。それは微々たる程の幸福ですが、僕にはそれで十分なのです。手を洗う事も爪を切る事も、本来は一人で行わなければなりません。それを他人に、しかも年下の異性にしてもらっているのですから、幸福と言うよりかは贅沢と表現した方が良いかもしれません。
「私、先生の授業好きよ」
「へえ。どこが?」
「寝ていられるから」
「・・・」
僕の授業は面白くありません。それは当の本人が一番よく知っています。勉強なんてものは基本的に面白くないものです。教える人間がこうなのだから、教わる側は輪をかけてつまらない事でしょう。仮に興味を持たせようと奮起したとしても、僕には授業を楽しくさせるような技術も話術も持ち合わせていません。残念ですが。
特に僕の担当は日本史。単純な暗記作業科目。面白くも何ともありません。要は重要事項を覚えさえすれば、それでいいのです。極論を言えば教師すらいりません。教科書や参考書の太字部分や過去問を全て覚えれば事足りるのです。僕なんてお飾りに過ぎません。
じゃあ何故、教師になったんだ?と言われそうですが、生徒として見ている分には、教師という職業は楽な仕事だなあと思っていたのです。毎年毎年、同じ内容を話していれば良いのですから、気楽な商売だと。しかし、いざ教師になってみると面倒臭い事ばかりです。教師間の派閥やPTAのご機嫌取り、流行のモンスターペアレントも出没注意です。ネットいじめも未だ深刻です。
はっきり言ってしまえば生徒間同士の誹謗中傷なら勝手にやってくれと思います。しかし今の時代は生徒から教師に向けての誹謗中傷も少なくありません。心の弱い教師などは自宅療養とかで数ヶ月も間仕事を休む始末です。
そう、平教員なんて気苦労だらけで何のメリットもありません。生徒の喜ぶ顔、成長する姿を共に共有出来る事が報酬・・・だなんて心の足しにもなりません。さっさと昇進試験を受けて教頭、校長になって、のんびりと職員室に引きこもりながら淡々と事務仕事をしていたいものです。(とは言え、教頭の位置が板挟みで一番辛いので、やはり校長ですかね)
故に、それまでは何の問題もない教師生活を過ごす事が重要なのです。トラブルに巻き込まれる事など許されません。静かな静かな日常を過ごし、それを維持し続ける事が僕のささやかな夢なのです。
平均。無風。無害。
そんな位置、立場が一番望ましいのです。ですが。
「先生。さくらんぼ食べる?買ってきた」
「ああ」
「茎、舌で結べる?」
「いーや。渡瀬は出来るの?」
「ううん。茎なんて口に入れた事もない。さくらんぼの実があるのに、どうしてわざわざさ苦い茎を味わう必要があるの?」
「じゃ、どうして聞いたんだよ」
「もし結べるって言ったら、気持ち悪いなあって」
そう言った渡瀬は、あぐらをかいた僕の脚の上に何の遠慮もなく座ると、背中を僕の身体にぐぐぐともたれ掛けるのです。そんな座椅子に成り変わった僕に対し、渡瀬は僕の口の中へさくらんぼを押し込みます。茎を取ったさくらんぼを。
渡瀬は、こういう子です。
掴み所なく、何を考えているか時々解らない時がある、高校一年の女の子なのです。平均、無風、無害を掲げる僕の人生において、非常に危険な存在である事は間違いありません。本来は避けるべき相手なのです。しかし、です。何と言えば良いのでしょうか・・・矛盾になりますが、渡瀬と一緒にいる時こそが、平均、無風、無害の自分でいられる場合もあるのです。
日常生活から全てを切り離した先にこそ、僕が望むべき無臭な空間がありました。現実に背を向ける事で、僕の居場所が見つかりました。それは現実逃避等の消極的行動では決してありません。言うなれば明日を迎え入れる為の積極的行動なのです。
とまあ、小難しい事を話していますが、何の事はない、渡瀬と一緒に過ごす時間が心地良く幸せだった、という話なのです。
絶望しか見えない未来ですが。
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