第9話
馬車に乗るまでも一苦労。ベールで前は見えにくいし、ドレスは重い。ヒールの靴で既に足が痛むし、コルセットが苦しくて仕方ない。
何とか馬車に乗る頃には、もうクタクタだった。
私は公爵と向かいに座らされる。この前より豪華な馬車で広さも十分な筈なのだが、空気が薄い気がするのは、この空間が重苦しいせいだろうか。
この馬車を見送るのは執事と侍女長だけ。貴族の仕来りなんて知らないが、公爵……所謂当主が出かけるにしては、なんとも寂しい光景だ。
公爵の合図で馬車は動き出した。
私は何処に何のために行くのかも何も知らされないまま、馬車の揺れに身を任せた。
この無言の空間が辛い。私は意を決して口を開く。しかし緊張から喉がひっついた様な感覚に襲われて、声が掠れてしまった。
「……ど、何処へ行くのですか?」
「ん?言ってなかったね。今から向かうのは王宮だ」
「王宮…………」
まさかと思っていた目的地が現実となり、私は目眩がした。王宮なんて、一生無縁だと思っていたし、今でも思っている。私なんかが足を踏み入れて良い場所じゃない。
「そうだ」
公爵はそう言うと、窓の外を眺めた。
「何故?」
そう聞いた私の声は少し震えていた。
「……僕には幼い頃に決められた婚約者が居た」
公爵は私の方を見ることなく、独り言の様に話し始めた。
「彼女はとても美しく、可愛らしかった。少しわがままな所もあったが、それがまた、たまらなくて……僕の太陽だったんだ」
公爵はそこで言葉を切った。
少し待っても、次の言葉は出てこない。
ふと、私は思った。あの屋敷に公爵夫人……そうこの人の奥さんはいたのだろうか?と。私が見ていないだけなのか……。いや、でも昨日のリタの話を思い出す。私が例えばこの人の情人だったとして……屋敷にそんな人物を入れる事を許可する奥さんっているのだろうか。
それに今の口ぶり。全てが過去形なのは何故だろう。
「その人は……?」
私の質問に、公爵は私に視線を移して、
「彼女は不幸せの中に居る」
そう一言言うと、また窓の外を見た。
彼はいつも空を眺めている。まるで自由に空を飛ぶ鳥たちに憧れているかの様に。
結局、私が欲しい答えは得られぬまま、馬車は静かに王宮へと着いた。
「さぁ、降りようか」
そう言った公爵様は少し緊張している様だった。私はと言えば、公爵の数千倍は緊張している。
公爵のエスコートで馬車を降りるが、長いドレスの裾を踏んでしまって、前のめりに倒れそうになるのを、公爵様がスマートに支えてくれた。そして私を抱きとめるようにしながらも、私の耳元で、
「ここからはなるべく俯き加減で歩いて。体重は僕にかけてくれて構わない。とにかく躓かない様に」
と小さな声で囁かれた。私はコクコクと頷くと、体勢を整えて、公爵の差し出された腕にしっかりと掴まった。
俯き加減で歩けと言われたので、周りを見回す事も出来ないが、足元の絨毯はフカフカで足音が吸い込まれる。私はとにかく集中して躓かない様歩くので精一杯だった。
どうも馬車を停めた場所は正門と言うわけではなさそうで、あまり人の気配はしない。それでも全く誰も居ないわけではないので、
「おや?ベイカー公爵。今日はどうしました?」
と低い声の男性に声を掛けられ、公爵は立ち止まった。
「あぁ、ハインツ侯爵お久しぶりです。少し陛下に用がありまして」
そう公爵が言った途端、何故かその場の空気が凍りついた。
「陛下に?貴方が?」
ハインツ侯爵と呼ばれた男性の声には、戸惑いの色が混じっている。
「ええ。父の代で大臣の職を辞してからというもの、あまり王宮には足を運んでおりませんでしたが……このご時世、公爵として陛下とお話する機会を持ちませんと、自分の身の振り方を間違えてしまいそうですからね」
公爵はハインツ侯爵の戸惑いを感じているのかいないのか、いつもの様に穏やかな口調でそう言った。
「確かに。王国軍が負ける事はないだろうが、反乱軍の狙いには私達上級貴族も入っている。陛下と一蓮托生。密に連絡はとっておきませんとな。しかし……公爵が女性をエスコートしているとは珍しい」
顔を上げる事は出来ないが、何となく視線を感じる。何だが怖い。私は自分のつま先をじっと見つめていた。
「そうですね。この女性も紹介したくて……」
そう笑う公爵に、
「ほう。……という事は公爵もやっと身を固める決意を?いやーおめでたい事です」
ハインツ侯爵の声も角が取れた様に朗らかだ。この会話から、やはり公爵は独身であったと思われる。では……馬車で話た婚約者は、どうしたのだろう?不幸の中とは?
私が小さな脳みそで考えた所で知る由もない。私は黙って二人の会話を聞いていた。
「ところで何処のご令嬢ですかな?」
俯いた私を覗き込む様に、ハインツ侯爵が腰をかがめる。私は何と答えて良いか分からず、心臓が音を立てた。
「実はこの国のご令嬢ではないのです。言葉もまだ……」
公爵の答えに、ハインツ侯爵は困惑した様だった。
「他国のご令嬢ですか?このご時世です。慎重に事を運んで下さいよ」
「もちろん、理解しています。大丈夫、我が国と友好関係にある国ですから」
「ふむ……それならば良いのですがね」
冷静で穏やかな公爵の口調とは真逆で、私は額にじんわりと汗が滲む。公爵を掴む腕にも力が入った。
「すみません。どうも彼女が緊張している様だ。この辺で」
公爵の言葉に、
「あぁ、足止めして申し訳ない。陛下をお待たせしても悪いしな。ではご結婚の際にはまたご連絡を」
そう言い残して、ハインツ侯爵は私達から離れて行った。
私は思わず大きく息を吐いた。
「驚いたろう。もう大丈夫だ」
公爵は腕に置かれた私の手の甲をポンポンと軽く撫でた。手袋越しでも、その温もりが嬉しい。
そしてまた、私達は歩き始めた。
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