第8話

全ての準備か整うと、彼女は徐ろに


「私の名前はリタよ。よろしくね」

と笑顔で言った。


「……………」

名乗って良いのか分からず、私が困惑していると、


「あ~、良いよ!名前言えないなら教えてくれなくても。それより賭けの対象にしてごめん。気分悪かったよね」

と彼女……リタはまた私に謝ってくれた。


「……気にしてない。私だってよく分かってないから」


私はこの親しげな女性に、自分の不安の一欠片でも渡してしまいたかったのかもしれない。誰かにこの状況を説明して欲しいのに、誰も彼もが私の気持ちを無視して事が進んでいた。不安と心細さから、私はそう口に出していた。


リタは私の言葉に、今度はとても不思議そうな顔をした。


「分かってないって?」


「これ以上は……。でも、本当に私にも何が何だが分からないの。この部屋も、この洋服も、この食事も」

と私はテーブルに並べられた豪華な食事に目をやった。店でケビンと出会ってから今の今まで。この扱いに戸惑っているのは私だ。


「私から見たら大切なお客様って感じに見えるけど」

リタの言葉に私は首を横に振る。


「客として招かれた訳じゃなかったの。でもこの扱いは……そう見えるわよね。私もそう思う。でもあの……ケビンって執事の人には良く思われていない事は確かよ」


「あぁ!そう言えばあなたの荷物も捨てろって言ってたわね」


私はあの時、私のカバンを受け取ったメイドがこのリタだった事を思い出した。


「ねぇ!あのカバン……もう捨てちゃった?!

私はリタの両腕を掴んで勢い良く尋ねた。


「へ?いや、まだ捨ててないよ」


「じゃ、じゃあ、頼まれて欲しい事があるの」


「頼み?何?」


「あのカバンの中に小さな箱が入ってるの。せめてそれだけ……それだけは返して欲しくて」

私の必死さにリタは少し面食らいながらも、


「……わかった。持ってくるから。あなたは食事でも食べてて」

と笑顔で約束してくれた。



「お待たせ。これで良いかな?」

リタが再び戻って来たのはあれから程なくしてからだった。

彼女はお仕着せのポケットからそっと小さな箱を取り出す。


「それ!間違いないわ。ありがとう」

私は笑顔でそれを受け取った。自分の手元に戻った事で、ホッと胸を撫で下ろす。


「中身確認してみて。私以外はこのカバン触ってないから大丈夫だと思うんだけど……」


まだこのリタという女性には会ったばかりだが、何故か彼女を信頼している自分がいた。

私がその小さな箱を開けると、そこには小さな薄紫色の石が付いたブローチが入っていた。


「良かった……」

私はホッとしてその小さな箱を胸に抱きしめた。


「大切な物なのね」


「たぶん、そんな価値のある物とかではないと思うの。でも兄が私の為にと……」


「お兄さんが居るんだ」


「ええ。四つ上の兄が」

そう言って、私はアダンの事を思い出した。思わず涙が出そうなのをグッと堪える。


「仲良し?」


「そうね。小さな頃から、私のわがままを許してくれる優しい兄だわ」


このブローチは兄が家を出る時に持ち出した物らしい。家にあって、唯一金目のものだと思ったから持ち出したが、女将さんの目に触れない様に隠すのが苦労した……そう言っていたっけ。


「そのブローチ……あなたの瞳の色と同じね」

リタにそう言われ、


「何度も売ろうと提案したのだけど、兄が私の瞳の色だからって。どうしても売りたくないとそう言ってくれたの。兄が私に与えてくれた大切な物だから」

と微笑んだ。


「そんな大切な物、捨てなくて良かった~」

リタは大袈裟にそう言って胸を押さえた。


私は侍女長に釘を刺された事も忘れて、自分の事をリタへと話していた。


だが、ここに連れて来られた理由については話さなかった。いや、話せなかったと言った方が正しいのかもしれない。

それは話すべき事が見つからなかったからだ。

自分でも分かっていない事柄を他人に説明するのは難しい。


「なら……ご両親の顔は覚えてないのね」

リタが少し同情した様にそう言った。


「でも、兄がいたし……拾って育ててくれた人も居るから、そこは気にしたことないわ」



これは本当だ。私達を捨てた親より、大切なのは自分に関わってくれた人間だと思っていた。



「そう……苦労したんだ」


「うーん……どうなんだろう。そうやって今まで生きてきたし、他人と自分を比べる余裕も無かったから、そんなもんなんだろうって思ってたの。苦労だったのかしら?」

私は苦笑した。


生きていく事が目標。それさえ達成出来ていれば御の字の生活。

反乱軍が勝っても、王国軍が勝っても、私の生活は変わらないはずだった。……此処に来るまで。


リタは徐ろに時計をみると、


「いけない!長居しちゃった。何処で油を売ってたんだって怒られちゃう!」

慌てて部屋を出ようとするリタに、私は


「これ、ありがとう」

と小さな箱を少し掲げた。


「いいよ!何かあったらベルで呼んでね」

そう笑顔で言い残したリタは部屋を出て行った。


途端に部屋を静寂が支配する。常に女将さんの怒鳴り声や、アダンの優しい声、お客の笑い声に囲まれていた私は、この世にたったひとりぼっちになったような感覚に襲われていた。



翌日。朝早くから私はまた湯浴みをさせられた。


あの地獄の時間が少しマシに思えたのは、そこにリタの姿を認めたからだろう。


そこから着替えが始まったのだが……


「これを着る……の?」

私は目の前の高級なデイドレスを見て、困惑した。昨日のワンピースがお金持ちの商会のお嬢さんが着る様な物だとしたら、このドレスはまるで貴族が着る物のソレだ。


「お喋りしている暇はありません」

侍女長に言われ、私は口を噤む。


結局言われるまま、私はそのドレスに身を包んだ。



女性の支度とはこんなに時間がかかるものなのだろうか。綺麗に仕上がる頃には私は何もしていないのに疲労困憊だった。コルセットでギュウギュウと締め付けられ、息がしづらい。


「さぁ、行きましょう」

侍女長に促され、私は部屋を出ようとする前に、彼女が背を向けた瞬間、小さなブローチをそっと隠し持った。


「早く来なさい」

扉の所で侍女長に強めに言われて肩が跳ねる。どうしてこうも高圧的なのだろう。

その瞬間、リタと目が合った。リタは少し微笑むと小さく頷いた。

たった一時間程の彼女との付き合いだったが、私はとても心が温かくなった。


しかし、ドレスなど着たことがない私は靴のヒールも相まって、上手く歩く事が出来ない。それでも侍女長は待ってくれない。私は泣きたくなる気持ちを抑えながら、何とか侍女長の後を付いて行くと、そこは玄関ホールだった。

そこには公爵が待っている。


公爵は私は穴が空くほど見つめた。


「……凄いな。これなら大丈夫だろう」

公爵はそう呟くと、私にグッと近づいた。


「この瞳の色……美しい」

彼は少し体を屈めて私の瞳を食い入る様に覗き込む。

確かに私の瞳の色は珍しい様だ。私の周りには同じ様な色の人を見たことはない。


しかし、あまりにも近すぎる。私は何故か公爵に恐怖を覚え、半歩程後ろへと下がった。


ふと我に返った様に公爵は背を伸ばすと、


「では行こうか」

と私に声をかけた。

行く?行くって何処へ?


私は昨日の公爵とケビンとの会話を思い出して青ざめた。……まさか王宮……じゃないよね?


すると横から、


「これを被って」

と侍女長が帽子を差し出した。その帽子には顔を覆うようにベールが施されている。

なるほど、この為に今日は髪を纏められたのかと思い至る。

私がされるがまま、その帽子を被ると公爵はスッと私に腕を差し出した。


「僕がエスコートする。僕の腕に体重をかけて良いよ。だが、なるべく優雅に見える様に歩くんだ」


公爵にそう言われて、私はこの無理難題に頭を抱えた。

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