愛と毒の化合物〈二〉

 溯春と東雲が最初に向かったのは、被害者がゴーストの襲撃に遭った場所だった。そこはメロウタウンのど真ん中、周囲にはきつい色合いのネオン看板が並ぶ。しかし今はそれほど目に悪い光景ではなかった。まだ時刻は昼過ぎだからだ。

 夜から起き出すこの街の住民にとって、今は深夜と同じ。人通りは少なく、そのため店を目立たせるための看板にスイッチを入れる必要もない。


 しかしながら道路には夜の名残が残る。食べ残しのゴミ、吐瀉物、更には靴や下着など、この時間帯の他の街ではあまり見ないようなものばかりが散らかっていた。路地の方を見れば路上で眠る人間もおり、そういった様々なものの臭いが混ざったこの街の悪臭に、東雲はううっと顔を顰めて鼻を手で押さえた。


「本当にここ通らなきゃならないんスか……」


 隣を歩く溯春に弱々しく問いかける。


「地図見ただろ」

「そうっスけど……もうこの辺りの仕事は受けたくないっス……」


 東雲の目に涙が浮かぶ。「それかガスマスク支給してください……」か細い声で言う彼に、溯春は「自分で申請しろ」と冷たく返すと、そのまま歩を進めていった。

 そうしてしばらく歩いて辿り着いたのは、街の外れにある路地裏だった。中心街から離れているということもあって夜でも人が少ないのか、汚れは他よりも少ない。

 それを見て東雲が鼻を覆っていた手を恐る恐る離した時、溯春が「ここだな」と言う声が聞こえてきた。


「帰宅途中だったんでしたっけ。なんで大通りじゃなくてこんなとこ通っちゃうかなぁ……」

「用があったんだろ」

「用? ……ああ」


 溯春が視線で示した先を見た東雲は、納得したように低い声をこぼした。そこは建物の壁。他と同じように汚れているが、人の腰よりも低い位置にシミがある。「トイレ行けばいいのに……」東雲は嫌そうに呟くと、「で誘っちゃったのかもしれませんね」と周りを見渡した。


「どこかに連れ去られそうになったってことは動物系でしょうし、こんな臭いさせてたらここにいるぞって言ってるようなモンでしょう。なんか自業自得感ありますね」

「そこに異論はないが、動物系っていうのは微妙だな。気付いた時には何かが全身に巻き付いてたらしいが……蛇ならその場で丸呑みするはずだ。それ以外に獲物に巻き付くような動物っていたか?」

「うーん……何かの尻尾? 猿だったら手みたいに使ったりしそうっスよね」

「それかキメラタイプか……習性が分かりづらい奴だと面倒だな」


 ふう、と溯春が溜息を吐く。「住処がどうでもいいならおびき出せば終わりだったんだが……」そうこぼしながら面倒臭そうにスーツのポケットを漁った彼は小さなビニール袋を取り出すと、「とりあえずこの辺一帯で痕跡探せ」とそれを東雲に渡した。


「はあい」


 東雲がビニール袋を開け、その口に鼻を近付ける。中に入っていたのは布だった。洋服の切れ端のようなもので、ビニール袋には〝被害者所持品〟と書かれている。

 それを少しの間すんすんと嗅いでいた東雲だったが、彼の顔は息を吸い込むたびに怪訝そうなものへと変わっていった。


「……んん?」

「どうした」

「いや、動物のニオイがしないなって」


 ビニール袋から顔を離し、東雲が鼻を指でさする。「どっちかっていうと人間にニオイっスね」と言えば、溯春が「なら人間系ってことだろ」とどうでも良さそうに言った。


「つーかゴーストが動物のニオイをさせる理屈が俺には理解できねェ」

「そもそも解明されてないっスからねぇ……未練を残して死んだ人間の魂がゴーストになるっていうのは確かでも、それがどうしてうまい具合にその未練に沿った怪異になるかは諸説ありますし」


 言いながらビニール袋の口を閉じた東雲がしゃがみ込む。そのまま低い体勢で地面を確認し始めた彼に、溯春は「それは別にどうでもいい」と会話を続けた。


「俺が言いたいのは、猫と触れ合ってすらいない奴が、化け猫になって猫のニオイさせるっつーのが意味分かんねェってことだよ」

「そういうものってことにしときましょうよ。おれらは研究者じゃないですし、個人的にはニオイが追いやすいから歓迎っスよ。――お、あったあった」


 そう言って東雲は地面に顔を近付けた。すんすんとニオイを嗅ぎ、それに沿って低い姿勢で数歩分移動する。「追えそうか?」溯春が尋ねれば、東雲は「ギリギリっスね」と答えながら立ち上がった。


「他のニオイに消されかけてます。追いかけてるうちに強くなってくればいいっスけど」


 いつになく真剣な目で東雲が前を見据える。「分かるところまで追え」溯春の指示に東雲が歩き始める。

 いつもは前を歩く溯春だが、今回は東雲の後を追うように続いた。溯春の目の前を東雲の大きな背が迷うことなく進んでいく。時折地面や壁のニオイを嗅ぎ直すが、方角を変えることはない。


「そういや溯春さんちの犬、元気っスか? ほら、ウルフドッグの」


 しばらく歩いた頃、東雲が後ろを振り返った。


「お前にゃ関係ねェだろ。無駄話してるとニオイ見失うぞ」

「大丈夫っスよ、結構強くなってきましたもん。それに溯春さんいつもかすかに狼のニオイさせてるから気になって気になって……あ、そうだ! 今度会わせてくださいよ。ちゃんと挨拶しときたいし」

「犬と会話できねェだろ」

「気持ちの問題ですぅ」


 不満そうに口を尖らせた東雲だったが、ふと何かに気付いたように顔を前に戻した。

 そこにあったのは古いビルだった。看板から見てラブホテルだろう。どの窓を見ても明かりが付いているのは確認できず、エントランス付近にはゴミが散乱していた。中から出されたようなものではなく、空の容器や落ち葉など、掃除をしていないために溜まってしまったようなゴミだ。


 そんな建物を前に何度も確認するようにニオイを嗅いでいた東雲だったが、やがて「ここっスね」と確信したように溯春に話しかけた。


「多分廃墟っス。生きた人間はほとんど出入りしてないと思います」

「だろうな」


 東雲に頷きながら、溯春が建物を見上げる。


「これだけの死体のニオイ、俺でも分かる」


 辺りには微かに腐臭が漂っていた。建物の方からしているのだ。「お陰でおれはゴーストのニオイ見逃しそうっスよ」困ったように言う東雲には強すぎる臭いなのか、先程からしきりに指で鼻をさすっている。

 溯春はそんな東雲をちらりと一瞥すると、「生存者は探さなくていい」と低い声で言った。


「お前は本体だけに集中しろ。逃げられたら面倒だ」

「了解っス」


 東雲は神妙に頷くと、溯春と共に建物の中へと入っていった。

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