愛と毒の化合物〈一〉

 溯春が朱禰のオフィスに戻った時、彼を出迎えたのは部屋の主ではなかった。


「溯春さんんんんん!!」

「うるせェ」


 涙ぐみながら自分にしがみついてくる東雲を引き剥がし、溯春が当然のように部屋の隅にあるコーヒーマシンを操作する。全くいつもと変わらない様子の溯春に東雲はぐっと眉をハの字にして、「なんでそんないつもどおり……」と弱々しく呟いた。


「おれ本当に心配したんですよ? 飛び降りた喜多きたさんって知り合いなんでしょう? それなのにあんな……」


 東雲が言いづらそうに溯春の様子を窺う。先日この特殊治安管理局のビルから飛び降りたのは喜多という職員で、溯春とも面識があると朱禰から聞いていたからだ。

 喜多のはビルのエントランス付近。そこにちょうど帰りがけの溯春は出くわしてしまったのだから、どこまで話題にしていいのか東雲に判断がつかないのも当然だった。


「顔見知りってだけだ。ったく、それを周りが大袈裟に騒ぎやがって……」


 そう嫌そうに言う溯春に普段との違いは見受けられない。東雲はほっと胸を撫で下ろすと、「騒いでもいいじゃないっスか」と笑いかけた。


「それだけ心配してくれる人がいるってことっスよ。それに医者との面談は定期的にしてるんでしょ?」

「は?」


 東雲の言葉に溯春が怪訝な顔をする。そんな溯春に東雲もまた不思議そうな顔をして、「え?」と返した。


「だって溯春さんが会ってきた烏丸さんって、精神科医なんスよね? いや違う、分析医? まあどっちなのかはよく分かりませんけど、元囚人だから面談が必要だって……」


 はて、という顔で東雲が言えば、溯春が「あー……」と低い声で唸った。そして似たような声は彼らから少し離れた場所、席についている朱禰の方からも聞こえる。彼女は声と同じような表情をして、「私がちゃんと説明しなかったからだね」と東雲に話しかけた。


「東雲くん。烏丸さんは確かに医者だけど、それで溯春くんと会っているわけじゃないよ」

「そうなんスか?」


 東雲が声の主の方に向き直り、「じゃあどうして?」と首を傾げる。


「所長だから」

「へ?」

「所長なんだよ、関東第一刑務所の。だから溯春くんは定期的に彼女と面談しなきゃいけないんだ。あと今回みたいな問題が起これば、現場復帰には彼女の承認が必要になる。まあ、可否を判断するのに医者としての知識も使っているだろうけどね」


 朱禰が言い終わっても東雲はすぐに反応を返さなかった。たっぷりと五秒間朱禰を見つめ、次に目だけを溯春の方へと向ける。そしてまた朱禰に視線を戻すと、そこでやっと「いやいやいや」と口を開いた。


「や、ちょ、待ってください。おれ烏丸さんってインタビューか何かの記事で見たことありますけど、めちゃくちゃ綺麗な人っスよね!? なんかこう、色気ムンムンの!!」

「うん、多分その人で合ってると思うよ」

「ッ嘘でしょ!?」


 東雲が頭を抱える。そんな彼を溯春は嫌そうに見て、「うるせェな」と吐き捨てた。


「何をそんな騒いでるんだよ」

「騒ぐでしょう! だって美人っスよ!? 色気凄いんスよ!? あんな綺麗なお姉さんが医者で刑務所の所長って……え? 溯春さんしょっちゅうそんな楽しいことしてたんスか!?」

「はあ?」


 溯春が心底不可解そうに顔を顰める。と同時に朱禰が「私もお姉さんなんだけど」と呟けば、東雲ははっとしたように朱禰へと向き直った。


「勿論支部長も綺麗っス! いい匂いもします! 柑橘系の香水が今日の朝食のツナサンドのデザート感出してて凄い美味そうっス! あとほんのり味噌ラーメンの匂いもするんですけど、流石にこれは昨日の夕飯っスよね?」

「……しっかりお風呂に入って歯も磨いてるんだけどな」

「それくらいどうってことないっスよ。ちゃんと嗅げば二日前に食べたものまでは分かります!」


 ふふんと東雲が胸を張る。朱禰はなんとも言えない顔をすると、溯春の方へと目をやった。


「……溯春くん、東雲くんにデリカシーっていうのを教えておいてくれる?」

「俺の仕事じゃないんで」

「……じゃあ犬の嗅覚を仕事以外で使わないよう注意して」

「仕事中にちゃんと使えてれば俺は構いませんよ」

「…………」


 淡々とどうでも良さそうに答える溯春に、朱禰は「はあ……」と深い溜息を吐き出した。そして未だ誇らしそうにしている東雲を見て、もう一度溜息を吐く。


「……ああ、そうだ。君達に仕事があるよ。面倒な手続きでストレスが溜まってると思って取っておいたんだ」


 気を紛らわすように朱禰が言えば、溯春が「お気遣いどうも」と言ってホロディスプレイを開いた。それを見た東雲も同じようにし、朱禰の言う仕事の詳細を確認し始める。


「えーっと……若い男性を狙ったゴースト? 怪我人は出てるけど被害は小さそうっスね」

「見つかってないだけかもね。助かった人の話では、急に捕まってどこかに連れて行かれそうになったって」

「そのままそのどこかで骨ごと食われてれば見つからないな」

「うわ……そういう怖いこと言う……」


 朱禰と溯春による補足に、それまで明るく話していた東雲がうんと眉根を寄せる。しかしふと気が付いたように目を瞬かせると、「でもなんで今更?」と首を捻った。


「これ、最新の被害の日付が先週っスよ。先週ならおれら暇してたのに」

「ゴーストの仕業だって判定されるまでに時間がかかったんだよ」


 東雲の疑問に朱禰が答え始める。


「三区のメロウタウンって言えば風俗街として有名だろう? 同時に違法薬物も多く取引されているからジャンキーも多い。その被害者もジャンキーってほどじゃないけど、完全にシラフとは言い切れない状態だったみたいでね。そのせいで証言の信憑性っいうのが疑われていたんだ」

「あー、なるほど」


 東雲は納得したように頷くと、同時にぎゅっと鼻をつまんだ。「クスリの匂いって鼻痛くなるんスよねー」嫌そうに言った彼に、朱禰が「ついでに、」と続ける。


「溯春くんの言ってた、『骨ごと食われてれば』っていうのも全くない話じゃないんだよね。あそこは規制なんてあってないような場所だ。そのせいで短期間で大金を稼ぎたい人間が集まってくるし、人もよく。どこかで骨だけになっててもなかなか周りに気付かれない」

「死体だらけってことっスか……? おれあんまあそこ近寄んないからよく知らないんスけど……」

「君が近寄らないってことは、ゴーストがそれほど発生していないってことだよ。つまりあそこでたくさんおかしな死があるわけじゃない。まあ、過剰摂取や事故で命を落とす人は他より多いけどね。いくら規制が緩いって言っても、しょっちゅうそれ以外のがあるんじゃ警察も動かなきゃならなくなるから、あそこに世話になっている人達は外でやるんだ。意外とモラルがあるだなんて面白いよね」

「はは……笑っていい、のかなぁ……?」


 引き攣った笑みを浮かべながら、東雲は助けを求めるように溯春を見た。しかし溯春は見向きもしない。資料に目を落とし、朱禰の話は補足程度にしか聞いていないようだ。

 そんな溯春の態度に東雲が涙目になっていると、朱禰が「笑うかどうかは君次第かな」と話を続けた。


「色々話したけど、あの街の仕組みっていうのはどうでもいいんだ。私達の仕事ではないからね。ただ、今話したことは全部事実だけど、今回のゴーストに襲われた人達が本当に殺されていれば話も変わってくる。強い恐怖を感じながら命を落としたのなら、ゴースト化したっておかしくはない」


 朱禰がすっと目を細める。途端に張り詰めた空気に東雲はゴクリと喉を鳴らし、溯春は面倒臭そうに「ゴースト退治だけじゃないってことですか」と尋ねた。「え、どういうことっスか?」東雲が怪訝な顔で他二人の顔を見比べる。

 しかし溯春も朱禰も彼の方を見ようとしない。朱禰は不機嫌そうな溯春に困ったように笑いかけて、「そんな怒らないでよ」と肩を竦めた。


「君の言うとおり、今回はゴースト退治もそうだけど、住処を探して被害状況も確認して欲しいんだ。必要なら追跡官も追加するから別にいいだろう?」

「……まあ、朱禰さんがそう言うなら」


 溯春が渋々と頷いた後、状況を理解したらしい東雲が「ええ!?」と声を上げた。


「追跡官追加って……おれ一人で十分っスよ! ねえ、溯春さん!!」

「それは状況次第で俺が判断する」

「えー……そんなぁ……」


 がっくりと項垂れた東雲を無視して、溯春は部屋の出口に向かって歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る