第二章 あなたがもういなくとも

相思相愛の望み

 電気の付いていない、ホテルの一室。夜の暗闇は無数のろうそくでぼんやりと照らされて、幻想的とも言える雰囲気を放っている。

 しかし明るい場所をよく見てみれば、どこもかしこも薄汚れていることが分かった。ろうそくは全てアロマキャンドルなのか、そこから放たれる香りが強すぎるせいで空気も悪い。しかも中途半端なことに、廊下に置かれたろうそくは芯が燃え尽きて一つも火が灯っていなかった。そのせいで真っ暗闇が続いているようにしか見えないものだから、小さな光の放つ幻想的な空気は打ち消され、恐怖心を煽るような光景となっている。


 そこに、人影が二つ。部屋の奥にあるバスルームから、男女の話し声が聞こえる。


「――もっとちゃんとやれよ」


 入口側に立った男が不機嫌そうに言う。その視線の先はバスルームの中、手前にある洗面台の前に立つ女に向けられていた。


「お前が下手クソだから値切られたんだぞ? 俺の面目まで潰れるじゃねぇか」

「……ごめん」


 ぽそりと謝る女は俯いていた。ミニ丈のキャミソールワンピースをぎゅっと握り締め、ずれた肩紐も直せずにいる。


「謝るんじゃなくて行動で示せって言ってるんだよ! 毎回毎回返事だけはするくせに何も変わらねぇ。他にもっとうまい女探して来たっていいんだからな?」

「っ、やだ! それはだめ!!」


 男の声に女が顔を上げる。若い女だった。愛らしい顔立ちにしっかりと化粧を施しているが、口紅は崩れ、髪も乱れている。

 情事の名残があるその顔を悲痛に歪めると、女は「お願い!」と縋るように言いながら男に手を伸ばした。


「次はちゃんとするから! だから行かないで……!」

「触るなよ、きたねぇな! 野郎と寝た後に近付くんじゃねぇよ!」

「っ……ごめん」


 女の伸ばした手が男に届くことはなかった。はたかれることすらない。男が一歩引いて避けたからだ。

 そんな男の行動に女が辛そうに眉根を寄せた時、男の前に着信を知らせるホロディスプレイが表示された。


「おう、どうした?」


 女に一声かけることもなく、男が通話をし始める。優しい声だった。というよりも、甘い声だ。

 聞き覚えのあるその声に女は愕然とした面持ちとなった。通話相手の名前は見えなかったし、声も聞こえない。しかし相手に話しかける男の口振りは異性に向けるものだと女は知っていた。かつては他でもない、自分に向けられていたものだからだ。


 女が呆然としていると、男が通話を終えた。先程よりも少しだけ機嫌良さそうに口角を上げている。それが示すものに確信を抱いて、女は意を決して口を開いた。


「今の、誰……?」

「お前よりいい女」

「そんなっ……」


 悪びれることなく答えた男は、ニヤリと意地悪く笑った。


「嫌なんだろ? 俺が他の女のとこ行くの。だったらしっかりやれよ。相手が望むこと全部してやれ。次の奴も値切ってきたらお前なんて捨てるからな」


 見下すように言って、男が踵を返す。「あと三〇分で次連れて来るから化粧直しとけよ」自分を見もせずに告げて去ろうとするその背中に、女は「……やだ」と声を漏らした。


「あ? なんか言ったか?」

「――やだ!!」


 ゴッ……と、何かを打ち付ける音が響く。タイルの床に飛沫が散る。

 やがて時間が経ってろうそくの火が消えると、赤い水滴もまた暗闇の中へと消えていった。



 § § §



 オフィスの中を東雲しののめがしきりに歩き回る。部屋の主である朱禰あかねが彼を無視して自席で仕事をしているのは、もう長い時間繰り返されている行動だからだ。東雲も朱禰に話しかけることなく、ただただ気を紛らわすように足を動かし続ける。


 そうしてまたしばらく経った頃、仕事が一段落した朱禰は全てのホロディスプレイを閉じて溜息を吐いた。


「君は溯春そはるくんがいないと落ち着かないね」


 席から立ち上がり、部屋の隅にある台の方へと歩いていく。台の上にはコーヒーマシンがあった。朱禰がボタンを押せば、モーター音とコーヒー豆を挽く音が響き始めた。


「そんなことないっス……。それほど付き合いが長いわけでもないし」


 東雲の声は豆が砕ける音に掻き消されそうなくらいに弱々しかった。しかし朱禰にはしっかりと聞き取れたらしい。豆を挽き終わり、カップへと注がれ始めたコーヒーを見ながら、「付き合いの長さは関係ないよ」と優しい声で言った。


「君達追跡官はハンドラーに従順であるよう教育される。その影響でハンドラーを失うと情緒不安定になってしまう子は多い。……そのまま引退せざるを得なくなる子もね」

「ッ、おれは……!」


 東雲が慌てて声を上げる。そんな彼を朱禰は手で制すと、「分かってるよ」と笑いかけた。


「君はまだ大丈夫。だから私も溯春くんと組ませた」


 そう言って、朱禰が淹れたてのコーヒーの入ったカップを東雲に渡す。東雲は目をぱちくりとさせ、しかしすぐに「ありがとうございます」とそれを受け取った。


「溯春さんは……戻ってきますか?」


 コーヒーを見つめながら東雲が問う。ゆらめく黒い水面に映る顔は、迷子の子供のように頼りない。


「それはこれから分かる。だからここで待っているんだろう?」


 朱禰はそれだけ言うと、もう一度コーヒーマシンのボタンを押した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る