第2話
アルバリアとの婚姻の準備は恐ろしいほど早く進んでいた。相手の顔が描かれた釣書が手元にあるというのに、セレスタはそれを一度も開くことなく、自室の引き出しに閉まったままにしていた。
アルバリアへと旅立つ朝。周りは慌ただしく準備をしていた。
「姉上、どうかお元気で.....落ち着いたらお手紙書いてください。」セレスタは弟のテオドールに向かって微笑むが、その笑顔にはどこか陰りがあった。
「分かったわ。」しっかりとした口調で答えたが、テオドールの目にはセレスタの不安を見透かすような優しさが宿っていた。
彼女が誓った国を守るという使命、そのために選ばれた運命。しかし、それと同時に、彼女の心は彼女自身の思いを置き去りにしてしまっているように感じた。
「セレスタ...どこにいても、お前らしく、誇り高く生きろ。」兄のリオンは優しく彼女の肩に手を置いた。彼の言葉には、彼女への深い信頼と愛情が込められていた。
「お兄様...。」セレスタはその手の温もりに心を和ませたが、兄の期待を裏切りたくない気持ちと、自分自身の本音との間で揺れ動いていた。
「国のために戦うと決めたのに、どうしてこんなに心が苦しいのかしら。」彼女は小さな声で呟く、兄はその様子を見て、彼女の心の内を理解しているかのように、じっと見守っていた。
彼女は深く息を吸い込み、少しずつ自分を取り戻す。どんな運命が待ち受けていようとも、家族の絆は彼女を支えてくれる。彼女は微笑み、そして決意を新たにした。
「お兄様。私、頑張ります。」セレスタははっきりとした声で返した。その瞬間、心の奥にあった不安が少し和らいだような気がした。
馬車で揺られること数時間、セラフィスとアルバリアの国境へとたどり着いた。
周囲の風景は少しずつ変わり、今目に映るのはアルバリアの堅牢な城壁と、厳格な雰囲気を漂わせる兵士たちの姿。冷たい空気が肌を刺すように感じられ、セレスタはその場に立つだけで、自分が異国の地に足を踏み入れたことを実感した。
「これより転移魔法を使用し、アルバリア城内へとお送りいたします。」
従者の声が静かに響く。セレスタは深く息を吸い、こわばる肩をわずかに下ろした。これから待ち受ける出会い、そして新しい生活。彼女は覚悟を決め、僅かに震える手をそっと握りしめた。
光の揺らぎと共に、彼女の視界は一瞬で別の場所へと変わった。
目の前に広がるのは、まばゆいほどに白く輝く大理石の床と、荘厳な装飾が施された広間。そして、広間の中央には一人の男性が立っていた。
(この人が……リュシアン?)
セレスタの視線は、思わず彼の姿を捉えた。アルバリアの冷徹な公爵として名を馳せる、リュシアン・アルバリア。直感ではあるが、彼こそがその人だと瞬時に理解した。
短く整えられた黒髪に鋭い青い瞳、彫刻のような整った顔立ち。彼の全身からは威圧感すら漂っていたが、それと同時に優雅さを感じさせる佇まいは、戦場で鍛え上げられた者の風格だった。
しかし、その美しさに一瞬だけ見とれたセレスタの心を引き戻したのは、彼の無感情な表情だった。彼女が視線を向けたにもかかわらず、リュシアンはわずかに眉を動かしただけで、挨拶すらしようとはしなかった。
「セレスタ・ルクレシア王女、ようこそアルバリアへ。」冷たく、乾いた声が彼の口から放たれる。
その一言に込められた距離感と無関心さに、セレスタは内心、胸を締め付けられるような思いを覚えたが、それを表に出すことはなかった。彼女は王女としての気品を崩さぬよう、かすかに頷く。
「お会いできて光栄です、公爵様。」
たったそれだけの言葉を交わした瞬間、彼女たちの間には見えない壁が立ちはだかったようだった。リュシアンは目線をすぐにそらし、淡々とした口調で言葉を続けた。
「これから城内にお連れします。陛下がお待ちですので。」
それだけ告げると、彼はすぐに背を向けて歩き出した。まるで彼女に対して何の興味もないかのような素振り。セレスタはその姿を見送りながら、胸の中で小さくため息をついた。
(この結婚はただの政治的な取り決め……最初から、心を通わせることなんて期待してはいけない。)
アルバリア城内へと転移した二人を、待ち受けていたのは王の謁見の間だった。
黄金色の刺繍が施された深紅の絨毯が広がるその空間には、アルバリアの王——アレクシス三世が玉座に鎮座していた。年齢を感じさせる白髪と威厳ある顔立ちは、彼がアルバリアを統治する冷厳な支配者であることを物語っていた。
「セレスタ・ルクレシア、我が国へようこそ。」王は低く響く声で言った。その視線はまっすぐセレスタに注がれていたが、その奥には冷たい探るような光が宿っていた。
「……ありがとうございます、陛下。」セレスタは礼儀正しく頭を下げた。だが、謁見の間に並ぶ廷臣たちの視線もまた、彼女に向けられた刃のようだった。
(彼らは私を見ている……私の価値を測っているのね。)
セレスタは緊張に押しつぶされそうな心を何とか奮い立たせた。アルバリアの者たちは、セレスタがこの婚姻にふさわしいかどうかを疑っているのだろう。魔法が使えない王女としての評判、そして前線での戦果を誇張された作り話だと侮っているのかもしれない。
それでも、彼女は自分の弱さを見せたくなかった。たとえどんな目で見られようと、彼女がセラフィスの王女であることには変わりない。そして、彼女はこの国で果たすべき役割を持っている。
「アルバリアの地に貢献できるよう、最善を尽くす所存です。」彼女は力強く答えた。その声には迷いはなく、毅然とした気高さがあった。
だが、王は静かに目を細め、かすかに口角を上げた。
「それは素晴らしいことだ。だが、セレスタ王女……貴女の『最善』という言葉、果たしてどこまで我が国に通じるのか、見せてもらおう。」
その言葉は、まるで試練を課す宣告のようだった。セレスタはその意味を測りかね、わずかに表情を引き締めた。
一方、リュシアンは黙って王の隣に立ったまま、ただじっと彼女を見つめていた。その目には、依然として無表情な光が宿っていたが、その奥に何か深い感情が隠されているような気がして、セレスタは思わず視線を逸らした。
(この地で、私は……)
彼女の心の中に、再び孤独な覚悟が芽生えた。
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