6,盲信と積雪

 あれは二年くらい前、私が11歳のときのこと。私がまだ、ダンススクールに通っていたときのこと。

「おめでとう、みぞれちゃん。また一位だったのね」

「うん、ありがとう。おばさんがダンスに通わせてくれるおかげだよ」

 自分で言うのもなんだけど、私はかなりダンスの才能があったと思う。出場した大会ではいつも優勝していたし。あんまり大きい規模のものではなかったけど。

「みぞれちゃん、あなたは将来、有名なダンサーになるのよ。お母さんみたいにね」

「…………うん」

 私の頭に手を置いたおばさんに、乾いた言葉を返した。


 ある日、転校してきた女の子にダンスを勧めた。その子は少し暗い性格の子で、それがダンスを始める前の私に似ていたから。私みたいに明るくなってほしくて、ダンスを勧めた。

 すると、ダンスをしている時だけは、少しぎこちないが、笑顔を見せてくれるようになった。だけど、性格は一向に明るくならない。むしろ日に日に暗くなっていく。そして、ダンスの腕前はどんどん上がっていく。私を追い越しちゃいそうなくらいに。

 彼女の性格と、ダンスの腕前。私はそのどちらにも、不安と危機感を覚えた。

 そしてその年の夏、私とその子は、同じ大会に出場した。

 私は初めて、二位になった。

 一位は、私の友達。

 信じられなかった。まさか私が、一位を逃すなんて。しかも負けた相手が、ダンスを数か月前に始めた素人だなんて。

 ダンサーになることは、おばさんの言いなりみたいでいやだけど、ダンスをすることは好きだし、大会で優勝したら嬉しい。だから、私はとても、悔しかった。

 表彰式でも相変わらず、暗い顔をしていて。そのことが、私をさらに落ち込ませた。

 ――私に勝ったんだから、少しくらい笑えばいいのに。

 そんな偉そうなことを、思った。


 あの大会からも何回か、私たちは大会に出場した。結果は全部同じだった。

 いくら頑張っても超えられない、壁。私はその壁を、自分で造ってしまった。

 その子は、私よりも少ない練習時間で、私よりも綺麗に踊る。とても楽しそうに踊って、だけどダンスをしていないときには、いつも暗い顔をしている。

 憂鬱そうな彼女の表情を見るたび、腹が立った。

「…………あのね、みぞれちゃん」

 2月の、雪がたくさん積もった日のこと。二人で学校から帰っているとき、彼女はなんとも心苦しそうに、その話題を切り出した。

「私もう、ダンス、習えなくなっちゃったんだ」

「――! …………なんで?」

 驚きで、歩道橋の階段から転げ落ちそうになる。

 心の内からせり上がってくる喜びをなんとか抑え込んで、静かにそう返した。

「お金がもう、払えないんだって。お母さんね、私がダンスに行く日になると、すっごくいやそうな顔で、私にお金を渡すの。それで今日、もうダンスはやめなさいって、言われちゃったから……」

「そ……そうなんだー」

 感情を殺す。全力で。そうしないと、嬉しくて叫んでしまいそうだったから。

 私がまた、一位になれる日が来る。そう思うと、彼女のお母さんにに感謝したいくらいだ。

 そう思ったけど、そんな気持ちはすぐに、消え去った。

 隣から、静かな嗚咽が、聞こえてきた。

「いやだ……ぁっ、うぅ、やめたくないよぉ……!」

 泣いていた。歩道橋の上で、立ち止まって。ぼろぼろと涙を流していた。

「な、なんで泣くの⁉ ダンス、そんなに好きだったの? あんな暗い顔して踊ってたのに……」

 私には、ただやらされている風にしか、見えなかったのに。

「大好き……私、ダンスが大好きなの! なのに、お母さんが……うっ、うぅ……お母さんを困らせてるのに、私だけ楽しむなんてっ、苦しいの……だからうまく笑えなかった……」

「………………」

 私は、この子に明るくなってほしくて、ダンスを勧めたはずなのに。それに苦しめられていたなんて。

 心が、痛い。

「私、いなくなった方がいいのかな……?」

「…………え?」

 彼女の言葉の、意味が分からなかった。

「私が幸せになって、お母さんが困るなら……私が、死んじゃえば――」

「だめ!」

 無意識に、力強く怒鳴っていた。

「そんな悲しいこと、言っちゃだめ!」

「私は、お母さんに幸せになってほしいの!」

「だからって、死んじゃだめでしょ⁉ そんなことしちゃったら……私、悲しいよ……!」

「でもっ! ……でも、それじゃあ……」

 まだ、何か言いたげな様子だったけれど、

「――ごめん。私が間違ってた」

 と、なんとか折れてくれた。

「よかった、分かってくれて」

「うん。ありがとう、みぞれちゃ――」

 彼女は、止めていた足を、再び前に進めた。

 だけどそのとき、

 足が、

 滑って。

「…………あ」

 その短い呟きが、誰のものなのかは、分からなかった。

 私のものか、彼女のものか、もしくは、両方か。

 身体が宙に浮いて、墜ちていく――その様子を、しっかりと見ていた。そして、その表情も。

 一瞬、恐怖に染まって、そして……笑っていた。

「……………………なんで」

 大好きなダンスでも、ちゃんと笑えなかったのに。もうすぐ死んじゃうのに。

 なんでそんなに――明るく、笑えるの?

「………………」

 下の方から二度、三度、鈍い音が聞こえた。私にはそれが、とても陳腐に思えた。

 彼女が。

 暗くて、ネガティブで。

 楽しいときにも笑えない彼女が、あんなに幸せそうに――

 笑うなんて。

 彼女をあんな表情にしてみせた『死』が、私にはひどく魅力的に思えて。

 そして、私は――


「お友達のことは残念だったけれど……でも、みぞれちゃんがケガだけで済んでよかったわ」

「……そう、だね」

 死ねなかった。

 あの子と同じように、階段から落ちた。あの子と同じように、頭を強く打った。だけど死んだのは、あの子だけだった。

 私が今いるのはあの世なんかじゃなくて、病室のベッドの上だ。

「本当に、よかったわ……咲雪みたいにならなくて」

 おばさんが、独り言のように呟いた。

 咲雪……私のお母さんの、おばさんの妹の名前だ。

「……ねえ、おばさん。そろそろ教えてよ。お母さんたちが、どうして死んだのか」

 私の両親は、私がまだ幼稚園に通う前に、死んだらしい。でも私は、二人がなんで死んだのか、どんな風に死んだのか、知らない。

 覚えてないし、教えられていない。

「で、でも、あなたはまだ子供だし……」

「私、もう六年生だよ? 子供じゃないもん」

 今はとにかく、少しでも多くの『死』を知りたい。あの子を最期に幸せにした『死』を、私はちゃんと理解したい。

「…………そうね。分かったわ」

 おばさんは、ある種観念したような表情で、静かに言った。

「咲雪と……あなたのお母さんとお父さんは、心中したの」

「しんじゅう……?」

 聞いたことのない言葉に、少し間の抜けた声を出してしまった。

「しんじゅうって、何?」

「えっと……、心中っていうのは、恋人同士が、『生まれ変わったら一緒に幸せになれますように』ってお願いして、一緒に自殺することなの」

「っていうことは……お母さんとお父さんは、幸せになれなかったの?」

「そう……そうなの」

「なんで?」

「それは、お父さんが……不倫したからよ」

「えっ、そうなの⁉」

 思ってもいなかった言葉に、今度は素っ頓狂な声を上げてしまう。私のお父さんが、不倫なんて。正直、あまり……知りたくなかった。

「あなたのお母さん、有名なダンサーだったでしょう? だから、なかなか家にいられなくて……その間に、他の女の人と仲良くなって……子供も、作ったって」

「そ、そんな……」

 その事実は、あまりにも……残酷だった。

「でも、来世ではきっと、二人で幸せになれたはずよ。そう信じるしかない……それだけが、唯一の救いだから」

「…………! そっか」

 人生がどれだけ不幸でも――、大好きな人と一緒に死んだら、生まれ変わったら幸せになれる。

 それは、とっても素敵だと、思った。

「……よし」

 私はおばさんには聞こえないように、小さく言った。

 決めた。私が死ぬのは、あの子みたいな事故死か、お母さんたちみたいな心中だけだ、と。

 それまでは……がんばって生きてみようかな。

 窓の外の景色を眺める。雪はもう、雨に変わっていた。



「――はい、というわけで、みぞれちゃんのお話はめでたしですね」

「ひとつもめでたくない気がするんだが……」

 複雑すぎるだろ、こいつの家庭事情。父親が不倫して、両親が心中して、叔母からは習い事を強制って……家庭問題の詰め合わせ、みたいな。それに、友達の方にも、何やら問題があったようだし。

「まあまあそんなことより。早く聞かせてよ、君の過去について」

 ブランコの鎖をねじり、身体の向きを変えて、みぞれが俺の顔を見る。

「ああ、そうだな…………」

 みぞれにだけ語らせておくというのは、いささか不平等だ。そろそろ俺も、腹をくくるしかない。

「突飛な話だけど、全部本当のことだから――」

 どうか、笑わないで。

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