5,雨漏りと夜

 雨夜は俺と同じクラスで、席は俺の少し前。だからあいつの姿はいやでも目に入る。だけど今日は、いない。ホームルームを終え、一限目が始まっても、その席は空席だった。

 まったく、俺は動画を撮影するためだけに来たというのに……。雨夜が休むことなんて今までなかったから、想定していなかった。早退しようかとも思ったが、わざわざ来たのに雨夜のせいで帰るというのもしゃくだ……今日は普通に授業を受けて、計画を進めることなく帰ることになりそうだ。

 計画は進まず、明路はいない――俺にはこの一日が、ひどく無価値なものに思えた。

 そんな無駄な時間が、止まっていた時間が動き出したのは、昼休みのころ。

「東雲‼」

 扉が勢いよく開き、教室中に声が響き渡った。少しの残響の後に、音が消える。

 俺の名前を叫んだのは雨夜だった。いつもはきちんと着ている制服を着崩して、肩で息をして――そして、怒りで顔を歪ませている。

 親の顔より見た表情だ。

「…………ついてこい」

 先程とは打って変わって、声音だけは穏やかにして、言った。仕方がないから、ついて行ってやる。

 背中に突き刺さる静寂と視線が、気持ち悪かった。


 顔面を殴られた。昨日と同じ教室で。雨夜はこれまで、顔面を傷つけることだけは頑なに避けていたのに、今日は殴られた。

 遅刻してきたこと、制服を着崩していることといい、何かあったのだろうか。八つ当たりしないでほしい。

「――お前、さ」

 散々殴ったあと、雨夜が静かに喋り始めた。

「昨日の、女と……ハグしてたんだろ?」

 ……お前も見てたのかよ。世間が狭すぎるだろ。

「ああ、そうだよ。なんだ、嫉妬でもしちまったのか?」

 いつものように俺が煽ると、雨夜もまたいつものように、俺を殴った。

 そして俺に何かを、語りだした。

「俺の母さんはさ――」

「はいはーい、失礼しまーっす」

 雨夜の言葉を遮って、何者かが――いや、無理にはぐらかす必要もない。

 みぞれが乱入してきた。昨日と同じように、後ろのロッカーに向かいながら、俺に声をかける。

「わぉ、透夜くんったら、なんというか……いつにもまして無様だね。助けないでおいてあげる」

「助けろよ人でなし」

 しかもなんだよ、いつにもましてって。俺がいつも無様だとでも言いたいのか。

「私、邪魔しないであげるからさ、続けたまえよ」

 どの立場から物を言っているんだ、こいつは。雨夜も腹が立ったのか、改めて俺の顔を一度殴り、語りを再開した。

「俺の母さんはな、お前が死ねばよかったって、マジで思ってんだよ。頭がおかしいくらいに、お前のことを嫌ってる。俺がお前のこと殴ったときのこと、話したり、痛めつけた後の写真とか見せると、すっげえ喜ぶんだ」

「へえ。それで?」

「なのに昨日、見ちまったんだよ。……お前と、そこの女が、ハグしてるところを! お前が、幸せそうな顔してるところを! お前が……ッ、お前が幸せになんて、なるんじゃねえよ! お前ら家族は、俺の父さんを殺したくせに! お前は、俺の父さんを踏み台にして生きてるくせに!」

「はいはい。知ってるよ、そんなこと。結局何が言いたいんだよ、お前」

「俺の母さんは! お前が幸せそうなところを見て、自殺しようとした!」

「……はっ、メンタル弱すぎるだろ、お前の母親」

「お前、自分の立場がわかってねえんだろ⁉ お前は俺の父さんを殺して生き延びてるんだ!」

「そいつは随分な言いがかりだな」

「人殺しのくせに! 父さんは不幸になったのに、なんでお前は不幸じゃないんだ! 死んじまえ、お前なんて、死んじまえ!」

「――――っ」

 その言葉は……笑って受け流すにはあまりにも重かった。

 三年前のこと、そして昨日のことが、頭の中をかき乱す。

 また、気持ち悪く、なって――

「ふざっけんな!」

 みぞれが――みぞれが、雨夜の頭を、足蹴にした。弱々しい力だけど、気迫だけは強く。そしてそのまま、雨夜を横向きに押し倒す。

「……おい、みぞれ――」

「お前は、何も分かってない!」

 これまで聞いたことのない、激しい怒声だった。

「死ぬことを、不幸だなんて言うな! 決めつけるな! お前に何が分かるんだ! 死ぬことを――、私の救いを、バカにするな!」

「………………」

 狂気、だ。

 狂ったように、狂ったことを叫ぶその姿に、俺も雨夜も、呆然としてしまった。

「――――……行こう、透夜くん」

「え、え……」

 みぞれは立ち上がり、俺の手を引いて教室を出た。雨夜は、追ってこない。何も言わない。空気の抜けた浮き輪のようになっている。

 俺の手首を握ったみぞれは何も言わず、俺もみぞれに何も言わなかった。

 怒ったような、悲しいような横顔を、ただ見つめていた。


 雨はもう止んでいて、雲の隙間から太陽が顔を覗かせていた。

「ごめんねー、見苦しいところ見せちゃって」

「いや……それより、ありがとう。助かったよ」

 みぞれに連れて行かれたのは、学校から少し離れたところにある小さな公園だった。まだ日は暮れていないというのに、俺たち以外に誰もいないというのは……時代を感じる。

 ブランコが遠ざかって、また戻ってくる。俺はまた、みぞれの背中を押してやった。学校を出た途端に「ブランコ乗りたい」だなんて、自殺志願者の言葉だなんてとても思えない。

「そういえばお前、なんで俺があの教室にいるって分かったんだ? というか、なんで俺のところに来てくれたんだ?」

「それはね……透夜くん、朝から様子がおかしかったからさ、やっぱり何かあったんじゃないかなって思って。一年生の教室で聞き込みしてたら、知り合いの女の子が教えてくれたよ」

「そうか。それは……ありがとう」

「うん。どういたしまして」

 聞き込みなんて面倒なことをしてまで、探してくれたのか……。俺なんかのために、なんでそこまでしてくれたんだろう。

「それにしても驚いたよ、お前があそこまで死を……信仰、していたなんて」

「信仰か……。っはは、センスいいね、透夜くん」

「…………そうか?」

「それに、私こそ驚いたよ。透夜くんの事情が、『本当は』結構壮絶っぽいからさ」

「そ、そんな言い方しないでくれよ……」

「もっと他に、言うことがあるんじゃないの?」

「…………昨日は、嘘ついて、悪かった」

「よくできましたー。あとで頭撫でてあげるね」

「いらない」

 中学生にもなって誰かに、しかも女子に頭を撫でられるなんて、恥ずかしすぎるし、昨日のハグで散々痛い目を見たんだから、そういうことはなるべく避けなければ。

「それでも私、透夜くんの過去ついて完全に把握できたわけじゃないからさ。いい機会だし、全部教えてくれてもいいんじゃない?」

「まあ、いいけど……その前に――」

「『その前にお前のことを教えろ』でしょ?」

「……なんで分かるんだよ」

「単純なんだよ、君は」

 可笑しそうな声でそう言ってから、みぞれはブランコの動きを止めた。俺もその背中を受け止める。

「まあ、バカみたいな話だから、聞き流してね」

 そう前置きしてから、みぞれは語り始めた。

 別れと希望と、盲信のお話を。

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