4,感情と幽霊

 明路が家出した。

 突然いなくなったわけではないし、理由も分かっている――理由は全て、俺にある。

 まあ落ち着いて、順を追って説明しよう。

 みぞれと一緒に歩いて、それから別れて、一人で家に帰ってきた。家のドアを開けると、明路が、泣いていた。

 玄関の廊下で、壁にもたれかかるように座って、顔を膝にうずめて。静かに泣いていた。

「……明路? どうした――」

「お兄ちゃん」

 俺の言葉を遮って、明路が言う。声を震わせながら。

「見てたよ、私。全部、見てた」

「全部……って、何を――」

「お兄ちゃんが、あの女の子と腕を組んで歩いてるところ。あの女の子とハグしてるところ。全部、見てたの」

「…………あれは」

 言い訳をしようとする。まるで俺が、悪いことをしたみたいだ。

「私じゃ、だめなの? あの子の方がいいの? なんで、私じゃないの? 幽霊だから? 触れないから? あの子はまだ生きてるから、だからあの子の方がいいの? ねえ……ねえ、お兄ちゃん。私のこと、もっと見てよ。あの子と出会ってから、お兄ちゃん、私に対してちょっと冷たくなったよね。ハグしてくれること減ったし、今朝だって……っ、私、追いかけてきてほしかったの! なんであの子を選んだの⁉ 私をもっと大切にしてよ! わ、私がいい……っ、お兄ちゃんの一番は、私がいい! 他の子のことなんて見ないで! 考えないで! 全部捨ててよ! 心中なんて……、復讐なんてどうでもいいでしょ⁉ 学校にも行かないで、ずっと私と一緒にいてよ! お兄ちゃんとずっと、お話していたいよぉ!  ねえ、私はお兄ちゃんのことだけ見てるから……お兄ちゃんは、私だけ見てて! 私のことだけ考えて! 他の子のことなんて忘れて! 私以外知らなくていいから! ……………。………あのね、お兄ちゃん。お兄ちゃん、私ね、お兄ちゃんのお嫁さんになりたいの。お兄ちゃんと結婚したいの。幽霊とか、兄妹とか、関係ない……私、お兄ちゃんのことが好きだから。大好き。大好きだよ、お兄ちゃん。ずっとずっと、二人きりで暮らそうよ。きっと、あんな子のことなんて忘れちゃうくらい、楽しいはずだから。だから………、お願い、お兄ちゃん。私を、選んで」

 最後に、不安そうな声で言う。姿勢はそのままで、片目だけで俺の目を見ながら。

 明路がこんなに自分の気持ちを、俺への想いをはっきり言うのは、初めてだ。正直俺は、明路の言う「好き」を軽く見ていた。半分くらいは冗談なのだろうと、そう思っていた。

 だけど本当は、こんなにも真剣に想ってくれていた。その気持ちに応えてあげたいと、思った。

 思った、のに――

「……ごめん」

 違う言葉が、口をついた。

「…………そっか」

 そこで初めて、明路が顔を上げた――涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていて、目は真っ赤に腫れていて……。今も、そっけない返事をしながらも、泣き叫びたいのを必死にこらえているように見える。

「明路、ごめ――」

「もういいよ、お兄ちゃん」

 冷たくそう言ってから、俺の横を通って、そのまま外に出る――ドアを開けることもせずに。

 ……追いかけないと。同じ失敗を繰り返さないために。

「お兄ちゃんなんてっ!」

 だけど、ドアの向こうから聞こえてきた声が、俺を阻む。

「お兄ちゃんなんて、死んじゃえばいいんだ‼」

「…………っ!」

 明路の声が、昔聞いた言葉と、重なった。

『おまえが……っ! おまえが、死ねばよかったんだ‼』

 気分が悪い。吐きそうだ。口元を抑えてうずくまる。

 ああ—―いつもなら、明路が背中をさすってくれるのに。


 こうして明路は、家出した。

 その日はそれから、一人で吐しゃ物を処理して、一人で夕飯を作って食べて、一人で風呂に入って、一人でテレビを見たあと、一人で眠った。

 大丈夫。きっと明路は、帰ってくる。

 そう自分に言い聞かせて、涙をこらえた。


「やっほー、透夜くーん。今日は雨が降ってて、絶好の自殺日和だねー。どう? 海とか行っちゃう? 沈んじゃう?」

「………………行かない」

 今、11月だし。だからこそ、みぞれにとってはいいのかもしれないけど。

「どうしたの、透夜くん。辛気臭い顔して。もしかして、首をくくろうとしたら、ロープがちぎれちゃったとか?」

「別に……なんでもない、から」

 明路がいなくなった夜を過ごして、明路のいない朝を経験して、自分にとって明路がどれだけ大きな存在だったかを、改めて思い知った。

「ごめんけど、今日はほっといてくれ……」

「うーん……まあ、いいよ。ほっといたげる」

 みぞれはどこか怪訝そうな顔をしながらも、そう言ってくれた。本当にほっといてくれるかはわからないが。

「それじゃ、また今度ね」

「うん……また」

 小走りで学校に向かう後ろ姿を、静かに見送る。

 明路がいなくなってから、俺はずっと落ち込んでいた。海には沈まないにしても、気持ちは沈んでいる。大げさではなく、死んでしまうことも考えた。

 学校を休もうかとも思ったが、それはしたくなかった。なぜなら、雨夜に復讐する準備を少しでも早く進めたいからだ。

 —―じゃあ、復讐しちゃおうよ。

 明路の言葉を思い出す。そうだ、いじめられながらも前向きでいられることも、復讐をしようと思えたことも、全部明路のおかげだ。

 俺は、明路のおかげで生きてこられたし、明路のために生きてきた。

 もし俺が、雨夜への復讐を果たして、それでもし――これは最悪の想像だが、もしも明路が帰ってこなかったら……。

 そしたら、みぞれと一緒に死ぬのもいいかもしれない、と。

 そんなことを、思ってしまった。

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