3,傷跡と抱擁

「――おい雨夜、これ、どこに向かってるんだ?」

「………………」

「無視するなよ。冷たいな」

「………………」

 俺は雨夜の少し後ろを歩いている。どうやら、どこかに連行されているらしい。

「……ここだ」

 雨夜が突然、立ち止まる。俺が連れてこられたのは教室だった。校舎の隅の方で、人気がなく、ひっそりとしている教室だ。

 元々何に使われていたのかは知らないが――、今日からは、警備が厳しくなった体育倉庫に代わって、ここが雨夜専用のいじめ部屋というわけか。じゃあ今日は、帰る前にここにカメラを仕掛けることにしよう。

 雨夜が扉を開けて、中に入る――その隙を突いて、怯えながら俺の右腕にしがみついている明路に耳打ちした。

「大丈夫だから。ここで待ってて」

「…………うん」

 不安そうにしながらも、明路は俺の腕を離す。頭を少しだけ撫でてやってから、俺も部屋に入った。

 後ろ手で扉を閉じた途端に、腹を殴られる。突然の衝撃によろけている間に、胸倉を乱暴に引っ張られて、そのまま床に仰向けにされ、さらに馬乗りで殴られる。

 2、3発殴られただけで、目がチカチカして、身体に力が入らなくなる。

 今日もまた、苦悶と苦痛の時間が始まる。

 早く終わればいいのにと、心の中で強く念じたとき――、一人の女子が、乱入してきた。

「カーットカット、リストカットー……って、あれ?」

 滑稽な歌を歌いながら教室に入ってきた彼女は、言うまでもないかもしれないが、曇坂 みぞれだ。

 みぞれは、俺たち二人を交互に見つめてから、右手に持っていたカッターナイフの先端を、俺たちの方に向けて、言った。

「ハレンチ!」

「違う!」

「違ェよ!」

 今朝のことといい、なんで思考回路がそっち方面に偏ってるんだよ!

「あれ、あれれー? よく見ると下の方は透夜くんじゃない。私のリスカルームで何してるの?」

「……学校の一部をそんな物騒な空間にするな。というか、何してるかは見れば分か……いや、分からなかったんだったか」

「まあ、何をするにしても、私のリスカを見たくなければ、他の教室を使いなさいな」

 状況を理解できていない雨夜を尻目に、袖をまくり、包帯を解くみぞれ。その腕には、真っ赤な切り傷の跡が、肘の裏側にまで及んでいた。

「おい東雲。なんなんだよあいつ」

 雨夜が俺に、小声で訊ねる。

「俺に聞かないでほしい」

「……もういい。俺は帰る」

 不機嫌そうな表情をしたまま、雨夜が俺の上から立ち上がる。どうやら、みぞれのおかげで助かったようだ。

「……あっ、うあぁ……」

 雨夜が教室から出ていくと、教室の後ろのロッカーに腰かけて、みぞれはすぐに自らの手首を切りつけていた。血液が、滴る。よく見ると、ロッカーの上には薄い血の跡がいくつもあるから、いつもここでしているのだろう。

「はぁ……はぁっ、気持ちい……っ」

「……あのー、人前ではそういうの、抑えてもらってもいいすか?」

「っはは、ごめんね……つい声が出ちゃった」

「ていうか、気持ちいいもんなのか、リスカって」

「うん。すごいよ。やってみる?」

「絶対いやだ」

 残念ながら俺は、痛みを快楽として受け取る資質を持ち合わせていないだろう。

「それにしても、透夜くんがそんな事情を抱えていたとは……『やらなきゃいけないこと』がそんなことだったなんて、驚いたよ」

「お前がたどり着いた答えが正解だとはあまり思えないが、一応聞かせろ。俺はどんな事情を抱えていると思うんだ?」

 適当なところにカメラを設置しながら、片手間に聞く。

「透夜くんは、さっきの男の子のことが嫌いだね」

「………………」

「しかし透夜くんは、無理やり彼と身体の関係を築かされてしまった」

「…………おい」

「だから彼に復讐しようと、透夜くんは自分が犯されている映像を撮ってネットに――」

「カッターをよこせ。お前の舌を切り落としてやる」

「ひどいっ!」

 なんでそんな発想になるんだ……まさかこいつ、BL好きか? 腐女子か?

「それだと俺の方が被害が大きいんじゃないのか? 自爆してないか?」

「まあ、これは冗談だとして……本題に入ろう」

 突然まじめな口調になるみぞれ。こいつにこんな喋り方ができるなんて。俺には想像できなかった。

「いじめられてるんだよね、さっきの子に」

「………………」

「図星でしょ?」

「……そうだよ」

 なんだか、家族に隠し事がバレたときのような気分だ。昔、クラスの女子と遊んだのが明路にバレて怒られたときも、こんな気持ちだった。

「そして復讐するためにカメラで撮っていた、と」

「………………」

 俺の計画を知って、みぞれはどう思っただろうか。バカバカしいと、下らないと、思っただろうか。

「ねえ、透夜くん」

 俺の思考を断ち切って、心なしか、少し慎重そうな声音で、俺に訊ねる。

「私がリスカするとこ、見たい?」

「いや全然」

「そっかーやっぱり?」

「分かってたならなんで聞いたんだよ」

「だって、もしも万が一透夜くんが、私が痛みに喘ぐ声を聞きたいんだったら、期待に応えてあげたいなって思うからさ」

「思うなよ」

 そして俺が変態だとも思うな。

「それじゃ、一緒に帰ろっか」

「? お前はここでリスカするんじゃないのか?」

「そんなことより私は、知りたいんだよ。透夜くんのこと」

「…………なんで」

「一緒に心中する人だから」

 みぞれは腕に包帯をまき直しながら、平然と言う。まるで心中することが普通のことかのように、錯覚してしまう。

「透夜くんの過去のこと、もっとたくさん教えてね」

 それは、あまり気の進む話ではないが。

 平然と腕を組んでくるみぞれと共に、教室を出る。

 教室の外に、明路はもういなかった。


「そっかー。すれ違うときに肩がぶつかって、それでケンカを売ったら袋叩きにされて、それからいじめられるようになったんだねー。愚かだねー」

「そうだな」

 全部嘘だ。そのせいで、心臓の鼓動がどうしても少し速まってしまう。腕を通して伝わっていないだろうか。

 そう簡単には、本当のことは教えない。真実は決して軽いものではないのだ。

「まあ、それはそれとして……お前、今日もあの橋で踊るのか?」

「いいや、もう踊らないよ。せっかく心中してくれる相手がいるのに、その前に死んじゃったらもったいないでしょ」

「……うん、まあ、たしかに」

 言われてみれば、みぞれが踊る理由はもうない。自殺に求める条件の片方が確立されたのだから、もう片方を求める必要はないじゃないか。

「どうしたの、透夜くん? そんな浮かない顔して」

「え……そんな顔してた?」

「超してたよ」

 俺が、浮かない顔をしていた……? 自覚がなければ、理由の心当たりもない。

 あるいはその理由に、気づきたくないだけ、かもしれない。

「あれー? もしかして透夜くん、私が踊ってるとこ、見たいのかなー?」

「………………いや、」

 からかうように言うみぞれに、反論を、しようとした。だけど、言葉がうまく、出てこない。

 だから、取り出しやすい言葉を、外に出した。

「……みぞれは、ダンスを習ったり、してたのか?」

「うん。昔、ダンススクールに通ってたよ。」

 相変わらずニヤニヤしたまま、そう応えるみぞれ。昔、ということは――

「今は、習ってないのか?」

「……うん。やめちゃったんだ」

 みぞれの表情に、少し曇りがかかる。なんでやめたんだ、と聞くことは、さすがにはばかられた。

 静かな空気が漂い始めたそのとき、左腕が――みぞれと組んでいる腕が、突然引っ張られる。Y字路の前でのことだ。

「あれ、透夜くんあっち?」

「ああ。みぞれはそっちか。じゃあ――」

「ちょっと待って」

 離れようとした俺の腕を、みぞれが掴んで、そのまま引き寄せて――そして、俺の背中に、みぞれの腕が回される。

 ハグを、された。

「大丈夫だよ、透夜くん」

 耳元でそっと、囁かれる。泣いている子供をあやすような、優しい声で。

「つらかったら、苦しかったら、逃げたっていいんだよ。がんばらなくても、いいんだよ」

 片手で頭を撫でながら、投げかけられた、その言葉に。

 甘えたくなってしまった。

「…………うん」

 俺もみぞれを、抱きしめようとした。頭が回らない。考えることがうまくできない。自分が何をしようとしているのか、理解できていなかった。

 そのとき、唐突に、みぞれが俺の身体を離した。

「ということを伝えたいな、と思っていました。君がいじめられていることと、復讐しようとしていることを知ったときから」

「……そ、そうですか」

 つられて俺も敬語で喋ってしまった。

 俺がみぞれをハグしようとしたこと、バレてないだろうか。もしバレていたなら、恥ずかしすぎて死んでしまいそうだ。

「じゃあ透夜くん、また明日!」

「あ、ああ……」

 心の整理がうまくできず、曖昧な答えしかできなかった。

 そしてすぐに、ここが人通りの多い道だということに気づき、また恥ずかしくなった。

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