1,日がのぼる
朝食のトーストを食べ終わるところを、机の向こう側から、妹に見つめられていた。
「――なんだよ、
「ううん、なんでもないよ。ただ見てただけ」
「そっか」
立ち上がり、食器を片づける間も、どこか嬉しそうな表情で、ずっとこっちを見つめている。いつもと変わらない、いつも通りの明路だ。
毎日繰り返していることだけど、慣れることはない。くすぐったいような、変な気分になる。
仏壇で父さんと母さんに挨拶してから、制服に着替えようと、着ていたシャツを脱ぐ。嫌でも目につく、体中の痣。
「ねえ、お兄ちゃん」
そのとき、突然後ろから、抱きつかれた。
――いや、本当は、抱きつかれたわけではない。
「死なないでね」
「……わかってるよ」
胸元に回された手に、自分の手を重ねても、触れられるわけではない。
明路は――もうこの世にはいない、幽霊なのだから。
俺は学校が嫌いだ。それはもう、一般的なレベルとは一線を画すくらいに。
体育倉庫のマットに倒れこみ、改めて思い知った。
「どうだ、本日一発目の腹パンは。今日一日殴ってもらえなくてつらかっただろ?」
「……いや、俺そんなキモいやつじゃねぇんだけど――」
「おい、東雲」
俺は胸倉を掴まれ、背中がマットから離れる。
「お前ひょっとして、まだ自分の立場わかってないんじゃねえの?」
「立場、ねえ……、どっかのクソガキのサンドバッグだったとは思うんだが――」
そう言った途端、再び腹を殴られる。息が詰まり、視界がぼやける。
「お前が俺にしていい返事は、『はい』と『イエス』と『殴ってください』だけだろ? なんでそうなったか……、分かるよな?」
「さぁな……。忘れちまったよ」
……そうだ。言うのを忘れかけていたけど、このクソ野郎の名前は
雨夜は俺の腹を殴り続けながら、言う。
「俺はお前に、家族を奪われたようなもんなんだからよぉ! てめェは俺に、一生かけて埋め合わせしなきゃなんねえんだよ!」
……分かってる。分かってるから、そんなことを言われたところで、心と腹が痛むだけだ。
それからも俺は、殴られ続けた。何度も何度も、同じところだけを。そうして、また服の下に、痣ができる。周囲にバレないように、なんてことを考えられる、無駄に頭が回る雨夜に、腹が立つ。
最後に雨夜はスマホを取り出して、写真を撮った。俺は余裕ぶってピースしてやった。
「じゃあな、東雲」
散々殴ってから、また明日、と手を振りながら倉庫を後にした雨夜。その後ろ姿は目に入れず、天井だけを見つめる。
痛みの残り香を、静かに感じていた。
「お兄ちゃん!」
物陰に隠れていた明路が、駆け寄ってくる。幽霊なんだから、隠れる必要はないと思うが……、それは置いておくとして。
「お兄ちゃんっ! お兄ちゃん、大丈夫⁉」
「うん、大丈夫。心配しないで」
「……よかったぁ」
泣きそうだった表情を、安堵のものに一変させる明路。この表情を見ることができたなら、殴られた甲斐はあったかもしれない。
「いや、それだけじゃないか……」
近くにあった跳び箱をどかして、中に仕掛けていた物を回収する。
小型のカメラ。きっと、一部始終を記録していることだろう。
まず、一つ目。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん。肩、貸してあげよっか?」
「……冗談だよね?」
二人で並んで、体育倉庫の扉に向かう。
扉を、二度、三度と揺する。
「――開かねえじゃん」
学校から出る頃には、辺りはもう真っ暗で、人っ子一人いなかった。
体育倉庫から出る際には、扉を外させてもらった。きっと明日、学校で騒ぎになるだろうが、俺がやったとバレることはないだろう。証拠は残していないし、雨夜は自分以外に俺をいじめさせたくないようだから、表立って告発することもないはずだ。
「扉が木製だったからよかったけど……、それでもかなり体が痛いな」
「すっごい体当たりしてたもんね」
「窓から出られたらよかったんだが、はめ殺しだったからな……」
はめ殺しの窓の存在意義を、俺はいまいち理解できない。開かない窓なんて、しかもそれを、体育倉庫なんてほこりっぽいところにつけるなんて、何のためになるんだろう?
「今日のはさすがにひどかったよね。閉じ込めるなんて、あんまりだよ」
「まあ、そうだな……最近、エスカレートしてきてる気もするし」
「……お兄ちゃん、早く仕返し、した方がいいんじゃない?」
「いや、それは――」
俺は雨夜に、復讐をしようと企んでいる。合理的に、かつ論理的に。法と大人を味方につけて、大人のようで、そして大人げない復讐の計画を立てている。
「それは、まだだ」
まだその計画は、実行に移せるような段階ではない。まだ俺は、そんなレベルの被害者にはなれていない。
「もっと、雨夜が俺を殴っているところを、記録しなきゃだめだ」
もっともっと、殴らせて、罵らせて、壊させる。
そしたら――、
「そしたら俺は、あいつを後悔させてやるんだ」
そう、決意とともに呟いた、そのとき。
カン、と、澄んだ音が聞こえた。
「ねえ、あれ……」
明路もそう言い、音のした方を指さしている。
そっちには、大きな橋があって。そして、その欄干の上で――
女の子が、踊っていた。
優雅に、静かに、そして、軽やかに。
靴の音だけを、甲高く響かせながら。
月明かりに照らされたその姿は美しくて――、儚げで。
思わず、見惚れてしまった。
不意に、その少女と目が合った。
「…………あ」
彼女のその短い呟きが、何によるものなのかは、俺は判断しかねる。
俺と目が合ったことなのか――、もしくは。
足を踏み外したことなのか。
「――お、おいっ‼」
幸い、その少女が倒れたのは道路側で……、それでも頭を打ったようで、鈍い音が聞こえた。
「だ、大丈夫か、お前⁉」
「――うぅ、いてて……」
駆け寄って声をかけると、反応があった。
「あれれ……? お星さまが見える……」
「………………」
この発言は……、ジョークなのか、それとも事態は深刻なのだと捉えるべきだろうか?
思考の渦に囚われた隙を突くように、少女が勢いよく起き上がった。あまりに驚いて、息が止まりそうになる。
そして少女はそれから、自分の体のあちこちを触りだした。
「――――生きてる」
彼女はそう言って、ため息をついた。
それも、「安心した」という風ではなく、まるで「残念だ」とでも言うように。
「あーあ、また失敗しちゃった」
そして片手を額に添えて、天を仰ぐ――よく見ると、俺と同じ中学の制服を着ている――長袖の奥に、包帯が覗いている。赤いスカーフをつけているから、2年生、俺の一つ上だ。
「それで、君は誰かな? 見た感じだと同じ学校っぽいけど……」
姿勢はそのままで、首の角度だけを変えて俺と目を合わせる。にこやかなその表情には、俺を責めるような思いが、含まれている気がした。
「俺は東雲 透夜。あんたは?」
「私はみぞれ。曇坂 みぞれだよ」
――曇坂。聞き覚えのある苗字だ。クラスのやつらが話していたかもしれない。
「じゃあ、えっと……、曇坂」
「みぞれちゃんでいいよ。みぞれちゃんって呼んで」
「……じゃあ、みぞれ」
「………………はいはい。なんすか」
そんなに露骨に機嫌を悪くしないでほしい。俺はそんなに高度な社交性を持ち合わせていないから。
「みぞれはどうして、こんなところで……、踊ってたんだ?」
「誰にも見られたくなかったからね。なるべく人通りの少ないところにしたんだよ」
「いや、そうじゃなくて――、場所の理由じゃなくて、行動の理由は?」
「ふむ。やはりそっちか」
まあ別にいっか、と、軽く諦めるような言葉が聞こえた。
「死ねたらいいなーって、思ってさ」
「え……?」
「だから、運がよかったら死ねるかなー、と思って」
運が――よかったら?
何を言っているんだろう、こいつは。
死ぬことなんて、不幸以外のなんでもないだろうに。
「あ、いいこと思いついちゃった」
そう言ってニヤニヤとしながら、俺を見つめるみぞれ。俺にはもう、その表情が不気味に見えて仕方がなかった。
「透夜くん、私と一緒に心中してよ」
「やだよ!」
あまりにも常識外れなその「思いつき」に、俺は思わず、声を張り上げてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます