第5話 密室の保証
「――この家の者は代々、芸術の隆興を目的として人生を捧げてまいりました。自分自身が芸術を表すもの、芸術家のより良い作品作りに寄与する者。亡き夫はその最たるものです。古くは室町時代初期から――」
依頼主に連れられ、地下室までの道を歩いている。白いコンクリートの壁と床が続く階段は、少し緩やかで歩きやすいが、どこか閉鎖的な雰囲気による精神的威圧感を覚えさせられる。
亜門が婆さんと呼んでいた依頼主は、歳の頃にして七十は超えていそうな貫禄たっぷりの女性だ。だがその推定年齢が正しいかは未知数である。しゃんとした背筋に、はきはきとした物言い、顔立ちは皴こそ刻まれているものの、はつらつとしている。旦那さんが心臓病で亡くなったことを鑑みても、彼女だってそこそこの年齢のはずだが、全身から漂う歴戦の強者のオーラが、疑問を投げかける。私も、いずれはこんなふうに年を取って、格好いいおばあちゃんとして死んでいきたいものだ。なかなか難しいだろうが。何しろ恋人もいない。
ふとミシェルのことを思い出す。私たち三人のうち、ミシェルは一番後ろをつかず離れずついて来ている。相変わらず眠たそうだ。先頭は亜門。こちらも、思いのほか眠たそうだが、仕事だからか今は精一杯真面目な顔を取り繕っている。強張り過ぎて、少し仕事の鬼みたいだ。
私は彼らに挟まれるように、真ん中を歩いている。正直、私が来ても何もできないだろうが、ミシェルににっこりと微笑みかけられて、ホイホイついて来てしまった。亜門は邪魔なものでも見るみたいに睨んできたが、きっと気のせいだと思う。だって私は、もはや立派な助手のはずだから!
それにしても、依頼主の女性――瀬野享子さんと言うらしいが――瀬野さんの説明を聞く限り、私とは全く異なる人生、環境の人みたいだ。彼女の産み育てた子供の話や、今さっき聞いたみたいないわゆる名家の一族の話は、私が予想もつかなかった言葉で満ちている。私は習い事などさせてもらえなかったし、お菓子だって家にはおいていなかった。それがこの人たちは、ピアノコンクールに夜会、それに好きなお菓子と言ったら葛切りだとかなんだとか。葛切りって何だっけ?
何十メートルかも分からない単調な階段を下り終えたところで、あるのは再度の扉と鍵である。どうやら亡くなった旦那さんは、よほど厳重に絵画を守りたかったらしい。図書室からこの階段のエリアに入る扉は鍵で開けたし、そこから更に、階段を下って地下室の入り口も鍵だ。要するに二重の鍵で、絵画の部屋は守られている。
一体、この二重のロックをどう破るというのだろう……いや、破ってはいないのか? おじいさんと犬が倒れていた部屋は鍵がかかっていた。ならば……んん?
考えているのに、さっぱり分からない。もしかして、私ってあんまり頭が良くないのか? それとも、この謎が難しいだけ……?
考えるのは一旦よそう。私はあくまでも助手であって、探偵ではないのだから! 頭脳労働は亜門か、もしくはミシェルの仕事だ!
瀬野さんが、手に持っていた鍵をガチャリと鳴らす。扉はもちろん、どうやら上のそれと全く同じなようだ。だったら一枚で良くないか? と思わないでもない。雪国では雪や風が家の中に入らないように玄関が二重だと聞くけれど、別に図書室のそれは、そういう理屈じゃあないだろう。屋内なのだから。
ここに来るまで、私は鍵と言えばごてごてとした豪奢なものを想像していたが、実際はかなり質素な至って普通なものだ。カードキーとかでも良さそうなものだが、まあ老人が使うものなら、こういうアナログタイプな方が心象が良いのかもしれない。長年の手垢のせいか少し鈍った銀色の鍵は、瀬野さんの手の中に綺麗に収まっている。
瀬野さんが、ドアノブに手をかける。厚い金属製の扉は重たいのか、さすがに少しよろけたところを、亜門が咄嗟に支える。失礼、と亜門に告げた口が、まるでかのアントワネット王妃の最期を思い起こさせた。
開いた扉の先は、六畳ほどの空間だ。奥の壁には大きな振り子時計、横の壁にはそれぞれ蝶など標本が所せましと飾られている。腰ほどの高さのガラス棚には、不思議な文様の食器やティーセットが並んでいる。部屋の中央より少し右側には逸れた場所には、人ひとり用の丸いカフェテーブルと椅子がある。だれが使っていたのかは火を見るより明らかだ。長年のそれか、鍵と同じく黒ずんでいる。
「ごちゃごちゃと煩雑に感じるでしょう……お恥ずかしい限りです」
瀬野さんが首を振りながら細々と言う。
前に立っている亜門が、珍しく驚いた様子で固まっているのが分かった。
「わたくしも最初は驚きました……あれの生前は、近づくことも許されませんでしたので……実を言うと、ここに来るのはたった三度目なのです」
「三度目……と言いますと?」
「あれが亡くなった時、絵画の運搬を指示した時、そして今です」
となると、私たちと同様、瀬野さんも、ここについては詳しくないことになる。だから私たちを雇ったんだと言えば、確かにその通りだ。亜門が考え込むように、顎に手をやった。しかし、すぐに気を取り直したのか、接客モードとでも言うべき彼に切り替わる。
「なるほど。旦那様は、よくここに来られていたのですか? お一人で?」
「ええ。召使一人たりとも共にせず、たった一人で……頻度にすれば、ここ数年は週に二、三度は必ず」
ぐるりと辺りを見渡し、瀬野さんはふうと上品に溜息を吐いた。
「正直、わたくしにはこの良さと言うべきものが、分かりませんのよ。地下は暗く、夏でも冷えている。こうしていると肌に刺さるようで……」
彼女は自身の両の腕で抱きしめるような仕草をする。確かに、ここに来てから、まるで空気は変わった。地下特有のそれらしいが……停滞した冷気に全身を取り囲まれている感じだ。なんだか精神病院にでも閉じ込められたみたいで、私も好かない。慣れたらまた違うのかもしれないが、ここにそう何度も通うのは物好きだなあとさえ思う。
階段の上には、瀬野さんのお付きの人が一人待機している。どうやら瀬野さんは、ここが本当に苦手なようで、上に戻るとのことだった。一応警戒していたが、どうせ盗まれるものもないからと、私たちはひとまず三人で取り残される。瀬野さんの鷹揚とした足音が上っていく中、沈黙を破ったのは亜門だった。
「中には入れたはいいが、分かりやすい手掛かりはありそうにないな。お前はどうだ」
亜門が話しかけたのは、もちろん彼の愛する相棒・ミシェルである。ミシェルは明後日の方を、興味深そうに凝視している。
「モルフォ蝶って、構造色だから色が劣化しないんだよね。あれ欲しいな、貰えないかな。君ちょっと聞いてみてよ」
「後でな」
こう言っては何だが、にわかにこの二人が心配になって来た。この二人は本当に、密室の謎を解けるのか――?
「でもまあ、色々と突っ込みどころはあるよね」
何気ない言い方だった。だがそれが、亜門の瞳をきらりと輝かせたように見えた。
「そうか? 例えば?」
ミシェルが先ほどの亜門みたく、顎に手をやって考えるように部屋を移動し始める。壁の標本やガラス棚の食器などをしげしげと眺める彼が、果たして何を考えているのだろうか。
「うーん、なんか、歪だよね」
「歪? 理路整然としているように見えるが」
私も亜門のそれに賛成だった。並んでいる収集品はどれも、出版社から刊行された図鑑みたく、綺麗に並んでいる。虫にも食器にも詳しくない私でさえ、圧巻の二文字が頭に浮かぶほどに。
「や、並び方の問題じゃないんだよね。いや、並び方なのかな。分かんないけど……意図が見えない」
ミシェルが何を言いたいのか、さっぱり分からない。困った私は亜門に顔をやるも、彼もまた困惑以外の何物でもない面持ちで、ミシェルをじっと見つめていた。彼の言葉を待っている。
「こんなにせっせと集めた代物にしては……愛情を感じないんだよなぁ。君の言う通り、並べ方は綺麗なんだけど、でもそれって、ただ几帳面な性格なだけだよね。愛情と整理整頓の上手さは比例しないよ」
「それは、そうだろうが……」
亜門が考えるように、言葉を詰まらせる。代わりに、私には聞きたいことがあった。
「でもそれは愛情の有無の理由じゃなくないですか? どうして愛情が無いなんて思うんです?」
「え? 分かんないけど」
「……分かんない?」
「分かんない。でも、無い感じするじゃん。君もそう思うでしょ?」
分からないという割に、ミシェルはどうも、自信ありげだ。彼の中で、愛情の不実在は確定しているらしい。
それにしても、愛情が無い、か。どれだけ周囲の景色、部屋の中を舐めるように見回しても、故人の愛情があったかどうかなんて、とても汲み取れない。
「愛情が無い、愛情が無い、これだけ綺麗に並んでいるのに、愛情が無い――」
亜門の方は俯いた状態で、愛情が無いBOTと化していた。ミシェルの言ったことを真剣に考慮しているようだ。ミシェルはあくまでもふわっとした様子で愛情が無いと述べたのだが、亜門はその意味を重箱の隅をつつくように吟味しているらしい。
「愛情が無い割に理路整然としている……歪……そうか。お前の言いたいことがなんとなく分かって来たぞ」
「え、亜門さんまで!」
ミシェルが満足げに亜門を見つめる。
「流石は君だね」
「まだ論理だってはいないが……少なくとも、お前の言いたいことは理解してきた。要するに、この場所の意図が見えないってことだ。愛情が無い割に綺麗に陳列されている状況こそ、歪だ」
「え、えっ、ちょっと待ってくださいよ!」
まだ分かっていない私が悪いんだろうか。だが置いてけぼりにされるのは、助手として非常に不愉快だ。
「その愛情がどうこうっていうの、まだ論理が掴めていないんですけど。なんか、あの、証拠とか、なんかないんですか⁇」
「あーっ! お前はうるさいな! ちょっと黙ってろ!」
「え、でも――」
「証拠なんて後からついてくる!」
今度こそ、本気で意味が分からなかった。
だが私の肩を、そっと叩くものが居た。振りかえると、ミシェルがあの月のような微笑みで佇んでいる。
今は待てばよいと、そういうことだろうか。
「考えてもみろ。お前はこんな地下室に週に何回も、それもそんな生活を数年も続けるか?」
「それは……確かに嫌ですが……でも、自分が収集した代物ならば、眺めて悦に浸りたいというのも、あり得る話ではないですか? 要するに収集癖のあるご老人だったのでしょう」
「確かに収集癖はあっただろうな。だが収集癖があったとして、ここにコレクションするのは、悪趣味が過ぎる」
「え? いや、ここはコレクションルームなんですよね。コレクションルームにコレクションして何が悪趣味なんです」
その疑問には、亜門ではなくミシェルが答えた。
「僕と亜門が言いたいのは――『そもそもの話、本館から少し離れた図書室の奥の地下室にコレクションルームがあるのはおかしいんじゃないか』ってことなんだ。更に言うなら『そんなところに何度も通うのもおかしい』」
「ここに来るまで、そこそこ遠かったろ? 七十超えた爺さんが、わざわざ通うか? 自室の近くにコレクションルームを作れば良かっただけだろ。そのことに数年間も気づかなかったとも思えない」
「でも……あ、地下室の方が盗まれる心配が無いとか……」
「確かに二重のロックは厳重かもな。だが週に何度も開けてるんじゃ、その厳重性も宝の持ち腐れだと思わないか。金庫も鍵も、開けずに隠しておくのが一番安全なんだぜ。本館から離れた場所じゃあ、万が一に泥棒が入った場合に気付けない可能性が高い」
「コレクションルームがここでなければならない理由があるはずなんだ」
「ま、一応まだ納得できないお前のために、死に場所さえ地下室じゃなきゃ嫌な地下室大好き人間だった可能性は否定できないと言っておこう。地下室愛好家なら、今までの違和感も全部解消される」
嫌味っぽい亜門のそれはさておき、ついでに言うと地下室愛好家の可能性も横に置いて、私はその先の真実に思いを馳せる。
コレクションルームがここでなければいけない理由。
あるいは、ここが本当にコレクションルームなのか。何かを取り繕うために、コレクションルームを装っている可能性について。
「この沢山の標本も、食器も、それに今は無い絵画も……何かを覆い隠すためのものなのかもしれない」
「その背景に、密室と犬の答えがあれば万々歳だよなあ」
亜門のボヤキに、ミシェルが「そうだね」と笑いかける。
それを見て思うのは、果たして私は、この空間に馴染めるのだろうか?
――そもそも、どうしてミシェルはこの完成された盤面に私を?
いや、その疑問は今関係ないし、必要ならあとで聞けばいい。ミシェルの微笑みは時に頭の算段も計画も感情も氷解させてしまうことがあるけれど、きっと今度こそ聞いてやる。この事件が終わったら!
それにしても、私には閃いたことがある。たった今の、亜門の言葉から。
「背景と言えば、この標本やガラス棚をどかせば何かあるのかもしれませんね。文字通り、背景に!」
「ああ、うん。僕もそう思う」
一世一代の閃きを、ミシェルは呆気無く流した。この人、たまにこういうところある。亜門じゃあるまいに。
「亜門、部屋のものを動かしていいか、許可を貰おう」
「そうだな」
「あ、それと鍵も借りてきて」
「鍵、か……分かった」
亜門がパタパタと階段を上っていく。本当に、どっちが探偵なのか分かったものではない。それに、鍵が必要ってどういうことだろうか?
「はぁ……真面目にやりすぎちゃった。疲れたぁ……」
独り事だろうか。ミシェルが呟き、近くにあったたった一つの椅子に腰かける。もちろんそれは亡くなったおじいさんが座っていたであろうそれで、なんと言うか……すごいな。
話によれば、おじいさんと、ついでに犬が死んでいたのはこの場所だ。変死とかではないそうだから、あまり気にしないようにしてきたけれど。
「ミシェルさん、現場でそういうのは避けたほうがいいんじゃありません? ほら、もしかしたらおじいさんの幽霊が見てるかも……」
「君は幽霊を信じてるんだねえ」
「と言うよりは、居ない証拠がないので信じざるを得ないというか……もしかしたらって」
「うーん、まあそうだよねぇ……」
ミシェルが扉の方を一瞥して、目を細める。遅れて、二人分の足音が聞こえ始める。ミシェルは酷く億劫そうに立ち上がり、私の横に並ぶ。死んだ人間のことは気にしないのに、亜門や召使に見られるのはまずいと思ったらしかった。
「ミシェルさんは幽霊、信じてないんですね。ちょっと意外」
「信じてそうだと思ったんだ」
「不思議オーラすごいですから」
「よく言われるよ」
亜門たちが戻って来るまで、もう少し時間がある。私は出来るだけ、ミシェルと二人で話していたい。
「花蓮ちゃんの話では、この家には代々幽霊が憑りついているそうですが……ミシェルさんは、どう思います?」
もしかしたら、おじいさんの死因にも関係があるかもしれないことだ。
ミシェルは、うなじのあたりの髪を指に巻きつけながら、答えた。
「さあ、分かんないけど……だけど、心があったとして、それが不可逆性を覆すだろうか……とは、思うね……」
「……それはどういう……」
「人は……人に限らないけど、不可逆なものだろう」
ミシェルは目を瞑っていた。少し俯いた前髪が、揺らぎもせずに垂れている。
ただ、その瞼の裏側で何が流れているのか――震えている。
「ミシェルさん?」
彼は答えない。
ただ少し、小さく収まった頭を左右に振った。なんでもないと。
部屋のすぐ外で人が来ている。亜門と召使だ。
「コレクションだが、これから運び出す手筈になった」
「ここから出すなんて、よろしいんです?」
「奥様の意向でございます」
三十代くらいの女性の召使だ。彼女は淡々と答えると、部屋の中を見渡す。真面目そうな面持ちが、少し呆れたように歪んだのは気のせいだろうか。
結論から言ってしまおう。
特に変わったものは見つからなかった。
すっかりがらんどうになった六畳間を見渡す。人が人生という長い時を使って集めた代物でさえ、今を生きている者にとって価値があるとは限らない。夫のフィギアを妻が勝手に捨てるなんて悲劇は聞いたことがあるが、死んでいるなら尚更だ。今もこうして、時の流れを淡々と振り子時計が伝えている。
「標本の奥の壁にも何も見当たらないですね……種も仕掛けも見つからないとなると、いよいよ犬がどこから迷い込み、鍵が閉められて密室となったのか分かりません」
「犬がというか、犬の死骸が、だけどな」
「生き物は全て、死んだら物になってしまう……自ら歩いて来たとは考えられないね」
ここに至るまで、部屋の仕掛けにばかり注視してきたが、そう言えば犬の死もよく分かっていない。部屋の方は色々な意味でどん詰まりになってしまったから、ここは犬の方を少し考えてみようか。
「いえ……それでも、自分で歩いて来たのかもしれませんよ。そう、死んでしまう前に!」
何となくだが自らのポジションが分かってきた私は、意気揚々とそう言ってやった。なるほど、論破される前提の意見と言うのも、なかなか大事なことである。
答えたのは亜門の方だった。
「おまえの目は節穴か、さもなければ問題は海馬の方なのか知らないが、俺の作った資料の内容、もう忘れてるみたいだな」
「あ」
そういえば、車の中で彼お手製の資料を読んだのだった。確かそれによれば、犬はこの家で飼われていたペット――ではなく、なんと野良犬で、しかも死んだのはおじいさんが亡くなるよりもさらに前の可能性が高いとのことだった。何しろ犬は、死んでから結構な時間が経ったのか、やや腐乱さえしていたと言う。腐った犬の死体……考えたくもないものだ。
「――犬の話なんてどうでもいい」
強く言ったのは、何を隠そうミシェルだった。少し怒ってもいるように。
分からない。彼の考えていることが。
動物に対する価値観はもちろん人それぞれだし、強い愛情からペットを飼う人もいれば、酷い話が虐待する連中だっている。生活や環境のために、狩猟をする人だっている。とやかく言うつもりは無い。私は別に動物が好きでも嫌いでもないから、そういうのは今のミシェルみたく、どっちだっていいことだ。
だが、どうでもいいと言葉にしてしまうのは、些か配慮に欠けている。そして、ミシェルを配慮の無い人だとは思わない。むしろ、細やかなところに目が行くのが、彼の美徳だと思う。
ミシェルは考え込むように、瞳を閉じた。今目の前にある世界すら置いてけぼりにするみたいに、彼は思考の海に沈んでいる。
「……犬は、大した問題じゃない。言うなれば、僕たち全ての人間の思考を誘導するための装置。燻製ニシンであり、デコイであり、ミスディレクションだ。本質はもっと別の場所にある。犬のことは考えるべきじゃないし、考えてはいけない」
彼がどうしてそう思うのか、それを疑問に思うのは何より容易いことだ。今までも何度かその疑問には襲われてきた。その度に、それを流してきた。
それは今回も同じみたいだ。ミシェルの意見に賛同するように、亜門は頷く。
「お前が言うならそうなんだろう……犬のことは一先ず置いておく。考えるべき時が来たら教えてくれ」
「うん……」
亜門の声を聞いてか、ミシェルからはすっかり、先ほどの毒気とも言うべき何かが抜け落ちたようだった。しかし、何だったのだろう……。
「犬は関係ないとするなら、やっぱり部屋の仕掛けについて考えるしかないな」
「うん。それでね、実はちょっと案があるんだけど……」
ミシェルは色白のほっそりとした手を仰向けに広げて、亜門に見せる。何かを欲しがるように。
「鍵、貸してくれないかな」
「鍵か。いいぞ」
快く貸し出された鍵が、ミシェルの手の中に移動する。亜門が持っている時は細く頼りなく見えたそれも、ミシェルの手では武骨に見える。
「ずっと考えていたんだ。鍵はそんなに重要ではないはずだけど……正しくはそうじゃない――鍵単体では意味が無いってことだと思う」
「鍵単体?」
「何かと組み合わせて始めて意味と価値を持つ。不可逆的に」
「不可逆……!」
亜門がまた歓喜に充ちた表情をするのを見て、あの時のそれは気のせいじゃなかったのだと分かった。それは、二人だけの秘密を共有する少年たちのように。
「何と組み合わせるのかは分かっていなかった。けど今は、ほとんど全てのものがここからは消えている。無くならなかったのは一つだけ」
ミシェルの目の先には、ただ一つの部屋のものがあった。
「あの振り子時計――」
強く、惑星の引力に体を持っていかれるように、ミシェルはすーっと歩いて行った。
振り子時計はカチカチと鳴っている。古く長く時間を刻み続けたそれは、ただぽつねんと佇む――何かを待っているように。
「僕の考えたシナリオでは、おじいさんは二重の鍵を開けてこの場所に辿り着く。だけど、その中で、あるはずのないモノを見たんだ。それこそ、心臓が止まるほどに驚いただろう――犬の死骸だ」
「じいさんがこの部屋に現れた時、既に犬が死んでいた? 鍵のかかった室内で?」
「そう……犬は、おじいさんが来たのとは別の場所から現れた。その死が何なのかはさておき――少なくとも、犬の出現方法は今に分かる」
三シェルは振子時計をペタペタと触り始めた。彼より低い背丈の時計は木製で重厚ながらも、どうしてか小さい子どもが触診されているようにも見える。長身ドクターと時計がクリニックの診察室で相対しているような。
不意に、ミシェルの体がぴたりと硬直する。
何かを見つけたのは明白だ。
「ああ、南京錠、だったのか……」
彼は小さく呟いた。完全な独りオーラを発している。一人暮らしだとどうしても独り言が増えるが、まさしくそんな感じの、気の抜けた物言いだ。
だが亜門は、その一言を聞き洩らしはしなかった。さながら、適切なアシストでもするみたいに。
「南京錠? そんなものがあるのか?」
その疑問によって、たった一人の世界に浸っていたミシェルは、人里に帰って来る。亜門を捉えた瞳は、理知的に瞬く。
「ああ、いや、南京錠って言うのは例えだよ。物の例え……公開鍵の話は覚えてると思うけど、実はそれと根本的に同じプロセスを用いた暗号法があって……物理南京錠がどうとか、確かそんな名前だった」
「プログラムの一種か。だがそれが、その時計とどうしたって言うんだよ」
「言うなれば、この振り子時計は南京錠なんだ。鍵は鍵だけじゃ何の意味もない。差し込んで開ける対象が居なければね……」
ミシェルの言葉が虚空へと消えた頃合いに、カチリ、と小気味よい音が鳴った。
何かが開錠したのは、明らかだ。
「僕としたことがすっかり失念してた……その南京錠トリックにおけるミソは、隠すのは鍵ではなく南京錠の方だということにある。鍵は誰しもが持つほどありふれているが、対して南京錠の方はたった一つしかなく、それも正規アクセスしか許されない銀行で厳重に守られている。そしてこの場における銀行こそ、このコレクションルームのことだ。このコレクションルームは、南京錠たる振り子時計を守り、そして然るべきときにだけ鍵を使うためにあった」
――どこからか、カラカラと音がする。これは……歯車? 一体どこから……。
「大概の人物は二重のロックによって、鍵の役目は終わったと考える。本当はその先こそが本懐なのに」
ミシェルは振り返った。ゆっくりと、堂々と、さながら、夜空の月がたたぽっかりと浮かんで輝くように。
カラカラとした音は、足元から聴こえている。
古びた机があった場所……木材と木材の切れ間だと思っていた部分が、軋み、埃を立てながら、横に動いていた。
「犬は全く別の場所から移動してきたんだ。そこから」
ミシェルが示した場所、皆が呆然と凝視するところ。
更なる地下への入り口が、あった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます