第4話 密室と鍵の夜行

 人間は昼行性の生き物だ、なんて意気揚々とのたまう人間が居る。彼らが言うには人間は昼に生活するように進化してきたから、朝起きて夜に寝るのが最も健康的で、摂理に適っているらしい。なるほど、現代における電気というものを全く度外視した素敵な理論だ。彼らに言わせれば夜型人間なんてのは、いいわけにしか聞こえないに違いない。

 だが実際、夜になってようやくエンジンがかかる人間は、居る。

 何を隠そう、目の前で鼻歌を歌っている。それも手には大きなペロペロキャンディを持って、時折それを口に運んでは、子供っぽく舌を伸ばしている。カラフルな渦巻き状のそれはどう見ても子供だましの駄菓子だが、しかしこの成人男性には全く関係が無いみたいだ。まるで魔法に魅入られたみたいに、彼はそのキャンディを酷く愛していた。基本的にものを溜めない性質の彼が、まるで越冬前のリスよろしく数十本もストックしているのを知っている。尤も、この屋敷に持ってきたのは知らなかったし、ましてやこれから現場の下見に行こうと言う時に、舐め始めるなんて予想外だ。心配性なくせに、時々馬鹿みたいに羽目を外す。いつまでも自分がついてやらないとダメな奴だ。まったく。

「ガキかよ……」

「ちょっと、キャンディを舐めているくらいで子ども扱いなんてひどいんじゃない? 糖分接種は大事でしょ。お昼にキャンディをたくさんくれた優しい君はどこに行っちゃったわけ?」

 「元気になってくれて良かった」と「調子に乗るな」の返事が、口の中で絡まって何も出てこない。代わりに、痺れるような舌先をもごもごとやっとのこと動かした。

 二人は例の密室に繋がる廊下を歩いていた。時間にして深夜二時の廊下は当然ながら暗く、向かう先が地下室なのも相まって、壁の灯りさえ消されている。

 例の部屋は実のところ、館の図書室の最奥にあるらしい。絵画などのコレクション保管のための部屋らしいから、納得ではある。図書室自体も、館から渡り廊下みたいなので、本棟からは数十メートル離れて、森の奥へ誘われる形に立地している。母屋に対する離れみたいなものだろうか。離れにしては、図書室に地下室とかなり豪華ではあるが。

 それにしても今この瞬間、二人がこうして夜の闇を歩いて行くのを、知っているのは神様か悪魔くらいなものだ。

 深夜とは言え、眩しい月の夜は夜目で充分だ。時折キャンディの気配を感じるくらいには、お互いのことも見えている。

 数十メートルは、何も無い殺風景な道を歩いた。まるで精神病棟を警邏しているみたいな情景は、お世辞にも美しいとは言えない。だが楽しい。ミシェルも同じか、きっとそれ以上に楽しんでいるだろう。

 探偵という仕事に就いてしみじみと感じるのは、大多数の人間が行く道から逸れることの愉悦だ。英雄願望に特別への志向、そんなものは誰だって根源として刻まれている。あまりにも凡俗でありふれた願いだ。

 いや、一人だけ思い当たる例外が居る。

 夜にだけ眩い月は棒付きキャンディが大好きだ。だが普通の人間は、こんな状況でそんなものを愛好しない。彼を普通の範疇に収めてはいけない。

「こういうの久しぶりだなぁ……なんだか修学旅行を思い出すよ」

 図書室の扉の前で立ち止まったミシェルは、キャンディを舐めながらそんなことを言いだした。

「これからピッキングして忍び込もうって時に、お前は何を悠長なことを」

「大したことじゃないでしょ、君にとっちゃ」

 ほら早く、とでも言わんばかりに、ミシェルは重厚な扉の、やけに凝ったドアノブを指し示した。厚い木の板に金属の飾り――恐らくは金の――扉は、これまた金色のフクロウの全身を立体的に模った取っ手がついている。両扉なので、小さく丸まるとしたフクロウが、仲良く二羽並んでいる。可愛らしいことだ。まるで今の自分たちみたいで。ドアノブの下にはキノコみたいな形の鍵穴もある。なるほど、よくあるオールドタイプだ。

 ピッキングの技術は、この業種についてから身に着けた。完全な独学だし、他人から賛美される類の技術力でもないが、何を隠そう、誰に見られるものでもない。成功も失敗も、ほとんど自分の中でだけ完結している。だったら何を恥ずかしがることがあろうか?

 兎にも角にも、このオールドタイプの古びた鍵は、何の障害物にもなり得そうになかった。先に在るのは図書室だ。この鍵とて、形式と常識を形而下に貶めたものでしかない。

 懐から出したピッキングツールをガチャガチャと弄り回しながら、同時並行で口も動かす。

「お前があの婆さんに話してくれれば、こんなことせずに済むんだけどな」

「そんなこと言わないで」

 そんなことを言うミシェルは愉快そうに、扉に体を預けた。屈みこんでいる亜門を見下ろす様は、なんだか上から目線みたいで少し不遜にも見える。調子に乗っている。

「こっそり動くなら今夜だけ。了承を取るのは明日だって出来るんだから」

「もう今日だけどな」

 明かり代わりに使っている腕時計の羅針盤は、とっくに二時さえ過ぎている。

「つまらないことばかり言うんだねえ」

 ミシェルは揶揄うようにカラカラと笑う。静かにしろと注意しようかとも一瞬過るが、そんなことにミシェルが気づかないわけが無い。彼の笑い声が問題にならない程度には、ここには二人しかいないのだ。だから、そんなにも浮かれているんだろうか。だとしても、ちょっと……まあ、いいか、なんて言葉が胸中を占める。占めているうちに小気味よい音が鳴って、鍵は開く。やっぱり簡単だった。次いで、「おお」なんて短い歓声が振って来る。

「さすがは君だ。将来は鍵開け師になれる」

「そんなニッチな職業について堪るか」

「探偵にはなるのにね」

「なったのにな……」

 それは事実だ。そのくせ、皮肉に聞こえなくも無かった。

 気取った仕草でミシェルが両の扉を開けると、中は変わり映えもしない図書室だ。小学校と同じくらいの規模感はありそうで、二人と同じくらいの高さの本棚に遮られて、奥までは窺えない。少し迷路みたいだ。窓際の本棚は腰ほどの高さで、どれも月明かりに照らされて金色に染まっている。綺麗に掃除されているのか、埃一つない。

「あっ!」

 何かに気付いたのか、ミシェルが大きな声を上げた。彼は腕時計の明かりを前方に向ける。何かが明かりの中で動く。瞬間、心臓が止まりかける。

「見てみて、アロワナだよ。アクアリウムのある図書室かあ。すごいなあ」

「……すごいにはすごいかもな」

 死ぬほどビビらせられたのは自分の中でだけの秘密にすることにして、亜門は悠然と水槽を泳ぐ魚を睨みつける。てらてらと光を反射する鱗が、これほどに憎らしいこともあるまい。

「なんで図書室ごときにアクアリウムなんてあるんだ。玄関とかにやれよ」

「えー、いいじゃん。お魚見ながら本読めるの。最高でしょ。最近はカフェっぽい図書館とか増えてるらしいし」

「お前行かないだろ」

 夜型人間の悲しい性か、社会の運行に適応出来ないのが困ったことである。二十四時間営業のコンビニが減少している昨今、図書館など言わずもがな。

 せいぜい出来ることが、こうして月明かりをよすがに忍び込むくらいなものなのだ。

 コツコツと靴音が響く縦に長い部屋で、よく耳を澄ますと水槽の酸素装置の稼働する音も、ブーンと継続的に鳴っている。光に反射する泡がぶくぶくと上昇する。それを眠たい目でぼんやりと眺めていると、自分がどうしてこんなことをしているのか、一瞬我を忘れそうになる心地さえしていた。思い出させてくれるのは、その水槽をコツコツと長い手先でもって叩いているふざけた青年の美しい横顔だ。どこか女性的な蒼白い顔は、時々人間的なものを置いてけぼりにして、超越的な美を静かに佇ませている。

 もし今この時の出来事を、「人生が狂った」とでも形容するなら、その根源の一端に、あの顔が含まれているのかもしれない。

 思わず零れた苦笑を隠しもせず、亜門は彼に近づいて行く。幸い、月明かりの角度的に、今の表情は見られずに済んでいる。

「魚も刺激のない日々を送るとうつ病になるらしいぞ。お前の顔を見れば、ちょっとはいい気分転換だろうな」

「水槽の内側か外側か、観るか観られるかなんてのは、主観に委ねられているのかもしれないね」

 予想の斜め上の返答だが、気にしないことにしておく。水槽の魚と睨めっこに興じるのも優雅だが、生憎と今は優雅さより大事なものがある。めちゃくちゃ眠たいという問題だ。それに明日もある。

「さっさと見て帰ろう」

「ナルコレプシーみたいにばったり倒れられちゃっても困るからねえ」

 ミシェルは「運ぶの大変そうだから」なんて、なんてことは無く続ける。なるほど、一応抱えてくれる腹積もりではあるらしい。重いものなんて召使にでも持たせていそうな涼しい顔の麗人なのに、律儀なことだ。

 窓際の通路を選んで、図書館最奥まで二人してぺたぺたと歩いて行く。指紋一つない窓ガラスの外、境界の向こう側にぽっかりと浮かんでいる丸々太った弓張月。

 なんとなく思い出したのは、山頂の小さなカルデラの存在と、湖畔の別荘のことだ。なんでも、その昔、とある研究員がこの山のカルデラを調査すべく、その調査拠点を湖のすぐ脇に建てたらしい。今は研究施設としては放棄されているが、代わりにこの家の人間が引き取って、管理しているとのことだ。冬場は専用の管理者を雇って、そこで一冬を過ごさせるそうだが、どういう生活になるんだろうか。

 より窓側の方をミシェルが歩いている。月光を浴びる彼が、いつにも増して退廃的に存在している。冷たく優しく、ふと口を開く。

「昔……どうして月の光には音が無いんだろうって、思ったんだ……」

「音?」

「そう……だって、なんだか不思議だった……」

 その不思議に思う感覚こそ、亜門には不思議だ。月を見て音が無いなんて、考えたことも無い。ミシェルは、何かを想うように月を見通している。

「だけど、ある時……初めてベートーヴェンの『月光・第一楽章』を聞いた時、思ったんだ……『ああ、やっぱり、あったじゃないか』って」

「……なるほど」

 個人所有の図書室なんてのは、すぐに奥まで辿り着く。そもそも個人でこれだけの書物を有している方が、電子書籍派の亜門としては驚愕だ。

 端の壁にはインテリアとしてか、絵画が四枚、飾られている。白髪の老人の横顔もあれば、佳人の艶やかなドレス姿、渓流の風景画、狂いそうな夜空の月もある。金持ちというのは、どうしてせっかくの金を、こんなよく分からない絵画なぞにつぎ込んでしまうのだろうか。

 そして、その四枚をちょうど二枚ずつに隔てているのが、例の部屋の扉だ。

 これこそが、密室への入り口である。

「意外と地味だね」

 ミシェルが拍子抜けしたように言う。実際、その扉は周囲の壁と同じ材質の木製であり、図書室入り口と違って、全く何の彩りも無いのだ。尤も、亜門は何一つ驚かなかった。

「聞いたんだが、生前のじいさんはこの中に貴重な絵画を保管してたんだと。万が一にでも存在が外にバレないように」

「貴重な絵画……」

 そう呟きながら、ミシェルがすーっと、扉に指を這わせる。

「生前って、今はここには無いわけ?」

「ああ、何しろ本当に密室なのか担保されていないからな」

「……やっぱり、目的はそれだったのか」

 がっかりしたような声色だ。気持ちは、分からないでもない。

「婆さんにとって問題なのは、ここが本当に安全なのかどうかだ。犬一匹通れる隙間も無いほどに」

「絵画は今どこに?」

 冷静な質問だ。とはいえ、ミシェルの興味は絵画そのものではないのだろう。

「少なくとも窃盗の恐れが無い場所に、だそうだ。それ以上は聞いてない」

「僕たちに言うことではないか……」

「だが、ゆくゆくはここに戻したいそうだ。爺さんの生前からの意向で、ここで管理するようにと」

 ミシェルは、ふーんと気のない声を出して、しげしげと扉を再度確認する。上から下へ、下から上へ。特に変わった仕掛けも無ければ、模様すらない。

 だが、コンコンと中指の関節でノックしてみた時、発生する音が少し奇妙だ。

「ぱっと見は木製だけど……」

「裏は鉄筋コンクリートってところだろうな」

「みたいだね……貴重な絵画か」

 亜門と違い、ミシェルの方はそこそこ絵画や音楽など芸術に覚えがある。ならば、何か心当たりでもあるだろうか。扉の周りの意味ありげな絵画は、まるでホラーゲームの仕掛けか何かみたいに見えなくもない。

「何か分かったことはあるか?」

「えー、全然?」

 そう言いつつも、ミシェルは楽し気に扉をつま先で蹴った。

 その昔、あらゆる天才は共通して憂鬱質であると本で読んだ。それに情緒不安定だとも。それは天才という人間が皆、常人では感じ得ないものを敏感に感じ取るからで、彼らは文字通り、異なる世界を生きている。

 だとするなら、こうして一緒に居ても、一緒の居るつもり以外の何物でもないのかもしれない。別にいいけど。

 図書室の入り口の方はともかくとして、コレクションルームの方はピッキングできそうにない。没個性なドアノブに質素な鍵穴は、むしろ難解な雰囲気を漂わせている。退屈な授業の始まりみたく、眠気がしつこく襲ってくる。

 それはミシェルの方も同じなのかもしれない。彼は石ころを蹴る小学生みたいに、あてもなく周囲を歩き出した。近くにある本棚にそっと腰を曲げて、何がそこにあるのか光を当てて確かめる。

「わー、ワーグナーの解説書だ。近年稀に見る伝記なんだよねこれ」

「ワーグナーって……音楽家だっけか」

「そうだよ。オペラを作った人だ。歌劇王とも言われてるね。オペラは日本語で歌劇だから」

「はあ」

 ぬるい生返事が口から零れる。オペラは見たことがないし、かと言って興味も無い。

「これ持ち帰ってもいいかな」

「いいわけないだろ。窃盗だ」

「不法侵入はするのに窃盗はダメなんだ」

「バレなきゃ不法侵入じゃない。その本はバレるかもしれないだろ。物理的な痕跡を残すな」

「まあ新刊だしなあ……」

 ミシェルは残念そうに本を戻すと、今度は絵画を眺め始めた。本を読まれるよりは、そちらの方が手掛かりになる可能性が高い。

 ミシェルはつかつかと歩みを進めた先で、月の絵画の前で止まった。

「青みがかった夜空、境界線の向こうは……果たしてこれは夜明けか、日暮れか……」

 ミシェルは振り返ると、「どっちだと思う?」と尋ねて来た。正直考えるのも億劫だ。

「眠いままで朝を迎えたくはないな」

「あは、絶望だよね」

 ちょっと皮肉っぽい。ミシェルは興味深そうに絵画にずーっと顔を近づけた。塗りたくられた絵の具の筆遣い一本一本を確かめるように、その瞳はゆっくりとスライドしていく。口元は微笑んでいる。

「この青色はフェルメール・ブルーかな。美しいね」

「フェルメール……」

「あ、フェルメールは――」

「さすがにそれは分かる。真珠の耳飾りの奴だろ。その青がどうかしたのか」

「フェルメール・ブルーって言う名の色なんだよ。同じ青と言ってもかなり種類がある。フェルメール・ブルーはウルトラマリンっていう顔料から作られていて、そのウルトラマリンはラピスラズリを砕いて出来る顔料なんだ。ラピスラズリって分かる?」

「青い宝石だろ。宝石を砕いて作る絵具か……さぞかし高価なんだろう」

 言うなれば、これは宝石を纏った絵画だ。しかしこれはコレクションルームに入れるには値しないらしい。高い絵の具を使ったところで、高い絵画にはならないか。ゴッホは弟だったか兄だったかに金を工面してもらって絵を描いていたと、以前ミシェルから聞いた。

「この絵画が何か気になるのか?」

「え? 綺麗だなって思って。僕これ好き」

「……ああ、そう……」

 一目見た時から好きそうな絵だなとは思っていた。だが今気にして欲しいのは、好みの問題ではない。

 ある程度は自由にさせておこうと算段していたが、この様子では自分がリードしたほうがいいかもしれない。亜門は襟元を正すと、ミシェルの肩に腕を回した。自分より少し低いくらいの体温の首から、ゆっくりとした心音が伝播する。

「なあ、俺が気になってるのは、『不可逆性』についてだ。何が不可逆なのか。覆水盆に返らずって、わざわざ言われてるぐらいだから、不可逆って言うのは、それだけで重要性を持つ」

「そうかなあ」

 ミシェルは、至って呑気だ。

「この世界の大抵は不可逆に感じるよ。ああ、でも時間の不可逆性について、現代物理学ではまだ説明出来てないって前に見たな。あれってまだ変わってないのかな……」

「それは知らん」

 すぐに脱線するミシェルを嗜めるように、亜門はぴしゃりと言ってのけた。

「熱エントロピーの話は今するな。あんまり長居してもあれだ。さっさと当たりをつけるか、諦めて明日に回すかにしよう」

「そろそろ君の眠気ゲージも赤色に点滅してそうだしね……」

 ミシェルはクスクス笑うと、亜門の腕を外して、もう一度扉に歩み寄った。その背中に、亜門は言葉を投げかける。

「あの後、お前の言っていた暗号について調べた。オンライン取引で一般的に使われる方法らしいな。RSAとか……」

「その話は別に重要じゃないって言ったじゃないか」

「そうなんだが、一応だ」

 亜門の頭には、不可逆性が差す具体的事象が何一つとして思い浮かんでいなかった。ならば気になり続けるのも仕方あるまい。

 亜門は、自分で調べた内容をざっと思い返し始めた。昔から暗号というのは戦争における情報伝達等で用いられていた。暗号の仕組みをアルゴリズム、そして暗号が解かれるために必要なんて言葉・キーワードを鍵とするらしい。有名なのは世界大戦でドイツが用いていたエニグマがあるが、それは高名な数学者によって解明された。尤も、その数学者は色々あって後に自殺してしまったそうだが。

 ミシェルが言っていた公開鍵暗号というのは、クレジットカード等、絶対に外部に漏れてはいけない類のデータを暗号化する際に用いられる方法らしい。莫大な桁数の素因数分解を効率的に行う理論がまだ解明されていない現代数学においては、公開鍵暗号を突破するのは量子コンピューターをおいて他にない。しかし実用的な量子コンピューターこそ、未だ発展途上にある。

「……俺が思うに、公開鍵暗号の最大の利点は、『たとえ鍵を奪われても、秘密は保持される』ということにある」

「そうだろうね。だから、鍵そのものは重要じゃない」

「……本当に、そうなのか?」

 昼間にミシェルが言っていたことが、未だ亜門には引っかかっていた。

「鍵が重要じゃないなんてことあるか? 鍵を使ってこの部屋は開錠するのに。むしろ鍵だけが大事じゃないか」

 実際、この部屋の鍵は今、管理者であり依頼主の老婆が、後生大事に抱えている。だからこそ、こうして部屋の前で立ち往生させられている。鍵さえあれば開けられるのに。

「……そう思うのが、目的なのかも」

 今までのおふざけが嘘みたいに、ミシェルは真面目に言った。

「鍵が……鍵と思う時点で、既に術中にはまっている……みたいな」

「俺がこう考えること自体が、誰かしらの思惑だってことか?」

 もしそうだとするなら、この部屋の主は亡くなった元家主のお爺さんだから、彼がそう思わせたかったということになる。

 一体、何のために?

「もう三時過ぎか。僕もさすがに眠くなってきたな」

 不意に、ミシェルが言って、欠伸を漏らす。そのせいか、亜門もまた欠伸をした。眠い頭で考えたところで、きっと何も分からない。今日の亜門は朝から出会ったばかりの知らない女と話したと思ったら、車の運転をし、それから資産家の老婆と金や調査の契約を取り決めるなど、それなりに盛りだくさんの一日だった。一日が四十時間くらいに伸びて、疲れていないわけが無い。

「あーあ、なんか急にすっごい疲れちゃったよ。おんぶして」

「無理に決まってるだろ。歳と性別と体格を考えろよ……」

「えーっ、やだやだやだやだ。もうまる三日くらい寝てないんだよ? 優しくして」

「鯖読みすぎだ。というか、そんな軟弱なこと言ってるから、駅までマッチョマンに連行されそうになるんだ。もう少し――」

「その話は僕トラウマだからやめて!」

 ミシェルが本気で嫌そうに叫ぶ。数週間前のことだ。公共交通機関を利用するのは普段なら避けるが、事情があって仕方なく駅に居たら、一人になった一瞬のうちに、ミシェルが妙なマッチョマンに絡まれていた。髭を蓄えた強面のマッチョマンはミシェルよりも断然低身長だったが、そんなことはお構いなしに猛アタックをかましていた。ミシェルが必死に自分は男だと説明するも、マッチョマンはむしろお得だとか何とか訳の分からない理論展開をし、帰ってきた亜門によって引き離されるまで執拗に粘着した。ミシェルはもちろんだろうが、亜門とて割とトラウマにはなりそうだった。

 何はともあれさすがにおんぶは断念し、二人は部屋までの帰路につく。

 しかし、図書室を出る直前――だった。ミシェルが、不意に体を捻って、振り向く。その顔には、驚愕が張り付いていた。

「どうした?」

 亜門が尋ねる。ミシェルは、目が白黒する酷い動揺を、僅かに圧し留めて答える。

「……や、気のせいだと思う」

「何がだよ」

「……誰かに、観られていた気がした」

「おいおい……マジかよ」

「いや、でも、大丈夫。たとえ見られていたとして、多分、害はない」

 そうであってくれなければ困る。こんなに眠いのだ。追加で何か起こるのはご勘弁願いたい。

 今度こそ図書室に別れを告げ、束の間の別離とする。あと数時間ほどだが、またここに帰って来るのが既に億劫だ。

 しかし、考えると妙だ。

 高さ二メートルの本棚が並んだ図書室は、確かに見通しが悪い。それに一見して――耳だが――静かな空間も、その実は酸素装置が常に鳴っていた。それに二人の大人はお喋りだった――誰かが潜むには絶好の場所だったかもしれない――だが人が居たならミシェルがきっと気づけたはずだ。

 そもそも、ミシェルがどうして、先ほどのタイミングで急に人が居る気がしたのか、それが問題だ。

 まさか、あのタイミングで急に人が現れた――?

 だとしたら、どうやって……。

 窓は空いていなかったはず。それに図書室と付随するコレクションルームは、袋小路の空間だ。言うなれば、出入口以外に侵入を許さないはずの密室……。

 いや実際、居るはずのない犬の存在こそ、自分たち探偵を、この場所に呼び寄せたのだ。

 だとしたら、犬の出現と同じ理論理屈が働いたと考えるべきか。

 今さっき……自分たちが図書室を離れるタイミングで……。

 考えたところで分かりそうもないが、考えるのをやめられなかった。昼間のミシェルを笑えないなんて苦笑が、亜門の口からは絶えず漏れていった。

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