第2話 謎の隔離空間にもぐりこんだようです
彼女の家は、スラム街の奥にひっそりと佇んでいた。外見は古びていて、壁にはいくつものひび割れが走り、ところどころ崩れかけている。ドアは木製で、あちこち剥げた塗装。周囲にはいくつもの廃屋が並び、どの家も同じように荒れ果てていたが、この家の辺りはまるで隔離されているかのようだ。
「ふーん、随分と変わった場所だね……」
ドアの前で少し立ち止まり、辺りを見回す。スラムの通りは薄暗く、どこか冷たい空気が漂っている。貧民や盗賊たちの暴動が始まるのかと思いきや、やけに外は静まっていた。昼間はあんなに賑やかだったのにね。
もしかして嵐の前の静けさなのかなと心の中で呟いたが、彼女が呼びかける合図と同時にその念頭も頭の片隅に引っ込んだ。
ジャスミンがドアを開ける音が、静寂を破るように響く。
「どうぞ、入って」
彼女の優雅な動きに導かれて、一歩踏み入れる。思ったよりも内装は随分と整然としていた。床には古びた木製の板が敷かれ、所々に手入れの痕跡が見える。家具はシンプルだが、どれも年代物で、その一つひとつが丁寧に使われている様子だ。大きな棚には本がぎっしりと並んでおり、埃ひとつない。まるでこの空間だけが時間の影響を受けてないかのように。
「どうしたの?」
ジャスミンが静かに笑いながら言った。
「君が何者なのか一応聞かないでおくよ。てっきりぼろ屋で一晩過ごすことになると思ったけど、衛生状態も悪くないみたいだ。」
「ここは避難所みたいなものよ。あまり人に見せたくないけど、あなたには特別にね」
避難所。なるほど、しかも僕を特別扱い。いわゆるVIP対応みたいなところか。なんか少し話が飛んだような。
彼女が重要なNPCであることには間違いないけど、残念なのはこの部屋の中は一風変わっているだけで何の変哲もない場所だった。空間のゆがみとかゲートにつながりそうな魔道具や装置は一切見つからない。だが手当たり次第調べてみる価値はある。
「ここでずっと暮らしてるのか?」
僕は部屋の隅にある一枚の写真に目を向けた。額縁に入れられたそれは、何かの記念写真のようだった。今いる彼女と同一人物なのだろうか。
「そうね。いろいろ事情があって……」
彼女の声は少し曇ったが、それ以上は何も言わなかった。僕もそれ以上詮索するつもりはない。
「じゃあ、僕はここで寝ることになるのかな?ベッド置いてないみたいだけど、君はどうしてるの?」
ジャスミンは微笑んだが、その瞳の奥には鋭い光を宿していた。まだ何かを考えている最中なのだろうか。とにかくこの避難所とやらは外界の影響を受けない異空間。いかにもそういう『設定』らしい。先ほど僕には特別に案内してあげると言った。だとすると彼女の住処は他の人々には見えないのだろう。仮にスラムで本当に暴動が起きたとしても、ここは安全圏である可能性が高い。一晩寝過ごすにはきっと悪くない拠点だ。
♦
彼女が寝ている間、部屋の中にある家具をくまなく調べてみたが、モノが丁寧に手入れされていることを除いて、特に目新しい発見はなかった。手入れが十分なのは彼女が几帳面な性格だからなのだろうか。
時計は0時を回っていたにもかかわらず、なぜか眠気というものを全く感じられない。どこか自分が生きていないような感覚があったが、心はやけに落ち着いていた。現実世界ではないのだから当然だ。
天井をぼんやりと見つめながら、今日の出来事を反芻していた。ジャスミンの古琴の演奏、日が暮れる前のけたたましい騒音、そして塔から響き渡る鐘の音。
僕は再び床から立ち上がると、そのまま窓の向こう側まで向かった。
ガタイのいい男が一人、その真正面にいるのは怯えた様子で縮こまりながら、周囲にいる輩の動きをキョロキョロと窺っている。
通りには他に人の気配がなく、今ここで金をせびられているところなのだろう。僕は腕力において自信がなく、ただ様子を傍観しているだけに過ぎなかった。この中でいちばん強そうな男が振り返り、こちらに視線を向けるかのように一瞥した途端、凍り付いて静止するように暴力が止む。
「……ん?」
一瞬だけ通り過ぎた青白い光、窓の水滴。雨が降り始めたのだろうか。
先ほど囲まれていた男は、幸いにも動ける状態であった。
特にイベント発生はなしか。
そう諦めて再び部屋の内装へと振り返った瞬間、突如黒い影が見えた。
「ニャーオ」
「うわわわっ!?」
驚いてたじろぎながら反射的に後ろへ引き下がると、ジャスミンが目を覚ました。
彼女はソファーにうつ伏せになりながら寝そべっていた。僕はさっきまで少し離れた場所で毛布を何重にも分厚く掛けて、その上で仰向けになっていたけどね。
「急に声を上げて、何があったの?」
こちらに目を合わせていた彼女が、視線を猫のほうへと向けた。
「あら、その子は私の部屋まで時々徘徊してくるのよ。驚くのも無理はないわ。」
黒い猫は彼女に呼びかけるようにニャーと言うと、窓の外をめがけて飛び去っていった。
♦
窓から光が差し込む中、スラムの通りでは再び人の往来が増え始めた。アンティーク調の四角いテーブルの前で二人は向かい合う。彼女はジャガイモをふかしたものと白くて丸い塊にペーストをのせた何かを朝食として用意してくれたのだ。僕はスプーンで口に含みながら、その向かいでどこか神妙な表情を観察している。
「これって、豆?」
質問をした途端、彼女はふっと顔を上げて首をかしげた。「なにかしら?」
「……なんでもないよ。ただ珍しいなと思って。」
「そう、珍しく感じるなんて、確かにあなたは異郷の者で間違いないようね。」
「確かに、でもよくある異世界に出てきそうな風でもないし。」
「イ、セカイ……?」
突然、ジャスミンの声が詰まった。
「……?」
「イ、セカイってどこの地名なの?聞いたこともないのだけど……」
彼女の質問は唐突だった。
「異世界は地名というより、今僕たちがいる世界とはまた別の世界という意味だけど。でも仮想空間でもエネルギー反応とかバグとか、そういうのが起こっても不思議じゃないし。」
「カソウ、空間……?よくわからないけど、あなたの生まれ故郷のことかしら?」
僕は一瞬だけ間を置いて答える。
「つまり、今回はその仮想空間から逃げ出すためにここへ来たんだ。」
その言葉を聞いた途端、ジャスミンは興味津々な顔を浮かべた。
「じゃあ、あなたは逃亡者ということ?」
彼女はクスッと笑った。
「ずいぶん変わった人ね。もちろん協力してあげるわ。だったら、ここにもっと滞在してくれても構わないのに。少なくとも追われる心配はないのだから。」
「……わかった。」
♦
煉は出かける前にお小遣いを受け取り、スラムの通りを抜けて向かったのは、『鐘の塔』がある街の中心部であった。彼はまずこの街の構造について知っておく必要があると思ったのだ。
しかし、持ち前の方向音痴を発揮してしまい、碁盤上に張り巡らされた交差路で足が止まる。
地図もないため目的地である案内所が見つからず、路頭に迷うところであったが、彼はひとまず羽を休めようと街の中央の一角にあるカフェに入る。
彼はカフェのテーブル席に座り、ゆったりとした空間でメニューを眺めていた。しばらくして、店員さんを呼ぼうとした錬は、フッっと気取りながら手の中にあったコインを得意げにクルクルと回しながら、軽く手を挙げた。「すみません!」と言ったその瞬間、彼の目の前に現れたのは、想像していたよりもずっと若く、可愛らしい女の店員さんだった。見たところ、10代後半で初々しい雰囲気だ。
その瞬間、錬は少し驚いてしまい、コインを手元から滑らせて床に落としてしまった。「わぁ……あはは、すみません」と慌てて言いながら、顔がほんのり赤くなる。
「だ、大丈夫ですか?」
慌てて拾い上げようとする彼女。錬は気を引き締め、何でもないように話しかける。
「今のは見なかったことにしてほしいな。」
シリアスな表情を浮かべつつ、わざとらしくキザな調子で言ってのける。
「え……?どうしてですか?」と彼女は首をかしげ、少し困惑した表情を見せたが、すぐに優しく微笑んで続けた。「今のカッコよかったですよ。」
彼は内心気まずくなっていたのだが、何とか話題を切り替えようと適当に飲み物を注文し、しばらくして彼女が戻るまでの間、この世界での「攻略」について思いを巡らせ始めた。
(この世界の仕組みがよくわからない。まずは情報収集が必要だ)
(でも、いきなり変なこと聞いたら怪しまれるよな……)
注文した飲み物を待つ間も、彼の頭の中は現状の分析と次の行動で忙しかった。
「お待たせしました。アイスコーヒーです」
程なくして、再び彼女が現れる――
そして今日のプランを想像しつつ、カウンターに飲み干した飲み物を置くと、レジに向かって歩き出した。彼はポケットの中にある財布から取り出し、今度は慎重に渡す。「さて、今度はカッコよく……」と心の中で思いながら、コインを差し出した。
「あ、お会計お願いします」
「はい、100ゴールドですね」
彼女がレジに打ち込む。その瞬間、
「くしゅん!」
思わずくしゃみが出た煉。
「だ、大丈夫ですか?夏風邪はやっているみたいだから気をつけてくださいね」と可愛い声で優しく言葉をかけられる。錬は空笑いを浮かべながらシュッと左に振り向いて目をそらし、出口の方角へと向かっていった。
「ありがとう、たぶん大丈夫……だと思う。」と言いつつ、店内の空調が少し強いのかと思いながら店を出た。しかし、外に出た途端、その寒気は急に治まり、彼はなんとなく違和感を感じた。
(なんだ、今のは……?)
後味の悪い違和感を覚えながら、煉は来た道を引き返すのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます