錬金魔術師、市場(マーケット)に君臨す

@AlchemistofMarkets

第1話 錬は仮想空間に飛ばされたようです

「なんだ……仮想空間にでも飛ばされたのか?」


頭の中がもやもやと霞んでいる。最後に何をしていたのかも、なぜここにいるのかもはっきりとしない。ただ、目の前に広がる街並みだけが鮮明だ。


目の前には石畳の整然とした通り。左右に並ぶ建物はどれも綺麗に整備されていて、道行く人々は賑やかな会話を交わしながら歩いている。空には高くそびえる教会の塔が、青い空に刺さるように立っている。塔の頂からは、今まさに鐘の音が鳴り響いていた。


「教会か……?」


この場所に覚えはないが、いくつもの金色の鐘が、振り子のように規則的に交わる様子はどこか懐かしく感じた。


通りを歩く人々の服装は現代的でありながら、民族衣装のような独特なスタイルを持っていた。もしかして異世界?いや、なぜこのような空間に飛ばされているのか。それとも単純に記憶が抜け落ちていて、今は海外旅行の最中なのだろうか。頭の片隅に、ぽっかりと穴が空いたような感覚がある。


「そういえば……僕が誰なのか、という状況さえ消去されている。」


浮かぶ光景、そのどれもがぼんやりとしていて、以前の姿であったはずの自身を掴めない。


歩きながら無意識に手をポケットに入れる。そこで指先に触れたのは、一枚のコイン。見慣れたものだ。それが何であるか、どうして持っているのかはわかる。だが、あたかもセーブデータの一部が誰かによって意図的に抜き取られているかのような感覚がした。


「なぜ……?この一枚だけが手元に……?」


混乱する僕の脳裏に、さらに疑問が押し寄せる。しかし、突然脳に霧がかかったかのように、コインの残像が揺らぎ、一瞬溶けていくかのように思えた。


だが現実感のなさは嘘のように消え去り、元いた空間に引き戻されると同時に、騒がしい声が急に戻っていった。雑踏の中、足を止めて辺りを見渡す。人々は皆、無秩序に街中を行き交うように見えるが、おぼろげに行動パターンが浮き彫りになっていく。しかし何かに干渉され、先ほどの感覚は再び消え失せた。


僕は悟った。この仮想空間の中で、すでに脱出ゲームが始まっていることを。可視化されたパターンの動向を見抜き、それを頼りに出口へと向かうのだ。


「……行くしかないか」


ならば、動いてみるしかないだろう。僕は、ゆっくりと歩き出した。







整然とした街並みを抜け、何の気なしに歩いていると、ふと周囲の景色が変わっていることに気づいた。道の舗装は次第に荒れ、建物の壁にはひび割れが目立ち、通りを歩く人々も疎らだ。やがて、道の向こうに広がるスラム街が見えてきた。


「ここは……?」


錬は立ち止まり、周囲をじっくりと観察する。賑やかだった街とは対照的に、スラムは静かだ。しかし、その静けさの中に一つだけ、耳を引く音があった。


どこかで聞いたことのない楽器の音色が、静かに響いている。


「これは……古琴か?」


その音に引き寄せられるように錬は足を踏み入れ、古びた建物の前に立つ一人の女性を見つけた。彼女は、時代がかった楽器を膝に置き、細長い指で弦を繊細に撫でていた。


「……君は?」


思わず声をかけると、彼女がゆっくりと顔を上げた。彼女の名はジャスミン。白く垂れ落とした長髪、目に見える姿は儚げだが、その瞳にはどこか鋭い光が宿っている。スラムの住人にしては、彼女の雰囲気は何かが異質だ。周囲の環境に溶け込みながらも、彼女だけが異質な存在感を放っている。


「私はジャスミン。ここでこうして古琴を弾くのが日課なの」


錬は無言で彼女を観察する。彼女の背後には貧困に苦しむスラムの光景が広がり、子どもたちが廃墟の間でかすかに姿を見せる。だが、ジャスミンの立ち居振る舞いにはそれに相応しくない優雅さと、どこか冷静な知性が見え隠れしていた。


「ふーん……ここに似つかわしくないように見えるけど?」


「そうかもね。でも、ここにいる理由なんて誰も聞かない。必要もないことだから。そんなことより、あなたは誰なの?」


いきなり質問か。彼女はおそらく脱出ルートへと導く重要なキャラに違いない。あるいは罠だろうか。どう答えるべきか一瞬迷ったが、あえて答えを急ぐ必要もないと感じた。


「……今はまだ、わからない。いい演奏だったよ。どこか懐かしい感じがする。」


ジャスミンは微かに笑みを浮かべた。


「懐かしい?それは奇妙な感じね。まあ、また会うこともあるでしょう。」


彼女は軽く手を振り、再び古琴を弾き始めた。その瞬間、まさに先ほどの『揺らぎ』を彷彿するかのように、空間がグニャリと歪み出した。


この感覚……やはり間違いない!




「あら……まだ聞き入ってたの?」


ジャスミンが手を止めた途端、再び元の空間に戻った。


「先ほどの鐘の音、あなたにも聞こえてたわよね?」


「せっかくの旅なのだし、この街の象徴である『鐘の塔』くらい、一度間近で見たほうがいいわよ。きっと新しい景色が見えてくるはずだわ。」


なるほど、やはり彼女は次向かうべき地点を教えてくれる。僕はその指示に従い、新しい景色とやらを確認すればいいのだ。しかしあまりにも出来すぎた流れで、本当に教会へ向かって良いのか少したじろいだ。







「ゲートはまだか……」


そう呟きながら街を歩き出した彼のそばに、ジャスミンが静かに歩み寄った。再び古琴を抱えているが、演奏はしていない。彼女の表情は柔らかいが、内に秘めた何かがその奥底で渦巻いているようだった。


「さっきの教会、どうだった?」


彼女はまるで何事もなかったかのように軽く尋ねる。


「……まあ、予想通りというか。少しだけ違和感を感じたが、特に何もなかったようだ」


錬は淡々と答えつつも、彼女の質問が意図的なものかどうかを探るように視線を向けた。


「ふふ、そう。ならよかったわ。ところで……」


ジャスミンは一瞬、足を止めて錬を見つめた。その瞳は、まるで彼の心の中を見透かすように鋭い。


「あなた、今夜どこに泊まるの?」


その質問に、錬は一瞬戸惑った。このNPCはいったい何の意図のつもりだろうと。考えるふりをしながら平然と答える。


「……実はまだ何も決まってないんだ。近くにある宿でも適当に探すか、あるいは路上で寝ても構わないけど、ここのスラムはなるべく避けておこうかな。」


錬は作り笑いを浮かべつつ、彼女がどう反応するのか観察する。彼女は少しの間、黙ったまま彼を見つめていたが、やがて柔らかな笑みを浮かべた。


「なら、私の家に来ればいいわ」


「……僕が?」


突然の申し出に、錬は少し意表を突かれた。今度は彼女の家?教会に連れて行った後、今度は自宅に招こうとする。これが本当にゲートにつながる正しいルートなのか、彼女の動機がいまだ不明瞭なまま、次の行動に誘導される感覚が彼を少し不安にさせた。


「こういう場合って断ったほうがいいのかな?素直に頷いて、お言葉に甘えるというのもなんだし……」


彼女は少しだけため息をつき、少しも驚いた様子を見せずに口を開く。


「あなたって意外と素直じゃないのね。それともスラムにいる私に警戒して、何らかの罠だと勘ぐったのかしら?」


「疑り深いことはいいことよ。見慣れない場所でしょうから。事情は何となく察しているわ。あなたが観客として私の演奏を聞いてた頃から、この世界の人間ではないこと、そしてここに何か影響を与えようとしているってこと、感じ取ったの」


「……影響?」


「ええ。あなたがただの迷い人ではないこと、少なくとも旅人ではなさそうね。」


その言葉を聞いた瞬間、錬の中にある種の予感が形を成していく。


「それで、僕を家に招くのは……その影響を確かめるためなんだ?」


「まあ、それもあるかもしれないわ。けれど、そんなに疑わなくてもいいのよ。あなたに危害を加えるつもりはないの。むしろ、あなたがこれからどう動くのか見守りたいだけ」


ジャスミンはあくまで柔らかく、自然に笑った。その言葉は、嘘ではないように聞こえるが、完全に信じるにはまだ早い。だが、彼女の言う「影響」という言葉は錬がこの仮想空間に干渉し、脆弱性を見つけてゲートをこじ開けることを暗にほのめかしてるのだろうか?彼は自身の異質な思考回路に少々疑念を抱いていたが。


「……わかった。案内してくれるのかな?」


錬はジャスミンの誘いを受け入れることにした。ついにこの目で確認するときが来たのだ。


心の隅でワクワクと期待を膨らませながら、次のシチュエーションを脳内でシミュレートし始めていた。


「もちろんよ。案外気が早いのね。」


ジャスミンは優雅に振り返り、スラムの奥へと錬を導いていく。その背中を見つめながら、錬は自分が踏み込もうとしている未知の領域に対して、冷静なまなざしを保ったまま足を進めた。

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