◯ふたりの話 森下雅代

 和服姿の老婦人――森下雅代と名乗った彼女は、さくらの父方の祖母だという。そして、さくらのいう「すごい人」とは彼女のことだった。

 

「はい、どうぞ。……ただのミネラルウォーターしかのうて、ごめんなさいね」

「いえ、ありがとうございます」


 山中の一軒家、田舎の祖母の家そのものといった家の和室に通され、関西訛りの彼女からペットボトルを受け取った颯太は、不躾と思いつつ蓋を取るとそれを一気に飲み干した。

 口の中には、未だに先ほどの泥の味が残っている気がしていた。


「さぁて、と」

 

 雅代はさくらにも同じものを渡して二人の向かいに座ると、しわくちゃの顔をくしゃりと歪ませるように微笑んだ。


「よう来たねぇ、二人とも。……あんなのを引っ付けてきたのんには、びっくりしたけども。大事のうてよかった」

「あれ……何なんでしょうか」

「さて――ねぇ」


 口を拭った颯太に尋ねられ、雅代は首を傾げて鷹揚に答える。


「二人は、栄永のショッピングモールのことで来たんでしょう。そこから着いてきたもんやとは思うけど」


 颯太は目を丸くして――隣に座るさくらを見る。彼女も驚き顔で首を振った。雅代は狐につままれたようなふたりの顔を見て、ころころと朗らかに笑う。


「なんや、それくらいのこともわからん人間に頼ろ思てたんか。颯太くんはともかく、さくらはあたしの生業のことはようわかってるやろうに」


 そこまで言って、雅代はふと真剣な顔を作る。

 

「ショッピングセンターのあるあたり――栄永町の中心。あの場所は忌み地です。それこそもうずっと昔から、酷く穢れてもうてどうしよもない。……人の手には負えへんところやね」


 雅代はほう、とため息をついて、切れ長の目を窓の外へ向ける。そうして、憎々しげに吐き捨てた。


「昔から荒れた土地やったけど――犬坂いぬざかが屋敷を建てた後からは、特に酷なった」

「いぬ……ざか?」

「そう。……五十年ほど前かいね。犬坂いう名前の一族があそこに目をつけて住み着いた。土地を買うて、自分らの屋敷を建てたんよ。なんでわざわざ、あんな穢れの溜池みたいな場所を気に入ったんかはわからへんけども、まぁ、碌な理由とちゃいますやろ」


 雅代はそこまで言うと、不快そうに大きくため息をつく。


「――あたしが覚えてる限りでは、当主とその嫁。子どもが三人と、姑。あとは犬がぎょうさん住んどった。ばうばう大きい声で吠えてたわ、ひっきりなしにね。何の商売をしてたもんかわからんけども羽振りは良うて、造りはたいそう立派なお屋敷でしたよ。――せやけど……」

「……けど?」  

「……屋敷を建てて一年もせんうちに、当主が家族を皆殺しにした後、自殺した」


 その言葉に、颯太は息を呑んだ。隣のさくらも、緊張に体を強張らせている気配がする。


「全員を、鉈で肉片になるまでめった切りにしてた。発見されたときにはね、犬がその肉を食ろうてたらしいです。家族を殺めた後で、当主は井戸に飛び込んだ。家族はかわいそうなこってすが、当主は自業自得やわ」


 颯太は想像する。――してしまう。穢れの災禍に自ら飛び込み、心中した奇妙な一族。

 その現場となった呪われた屋敷。乱心した当主に殺められた、罪なき妻や子どもたち。

 バラバラになった人の肉を食らう獣たち。

 

 犬の鳴き声が、ばうわうと辺りにこだましている気がする。幻聴だ。


「………………え?」


 ――――いや、違う。


 颯太は振り返る。庭と室内を繋ぐ障子越しに、人影が見えた。


「わん、わん」


 ――人影は手をだらりと降ろし、庭に立っている。そこから声がする。大人の、男の声だ。


「わん、わん……くぅーん」

 

 男は笑いを含んだ声で、犬の鳴き真似を続ける。

 ――と、突然、大きくその両腕を振り上げた。


 ガン


「ひッ……!」

 

 障子の向こうにあるガラス戸が、男のてのひらを叩きつけられ不快な音を立てた。さくらが後退り、短く悲鳴をあげる。


「わん、わん、ふは、ふへへ、ふはぁあははははは」

  

 男は、ガラス戸を揺らしながら、大声で笑い続ける。


「あはははははははははははははははぁ」


 ぎしぎしと、男が押す力でガラス戸が軋む音がする。

 ――このままでは、中に入られる。


「……渡会くん!?」

 

 そう考えた颯太は、唖然とするさくらと雅代を守ろうと彼女たちと障子の間に割って入った。身体が、勝手に動いていた。

 視線は男の影を睨みつけていた。が、頭の冷静な部分では自嘲していた。何をやっているのか、自分は。勝てる見込みもないのに。そのとき


「――やかましい!」 


 ――雅代が、庭へ向かって一喝した。 


 小さな老婆から発されたとは思えない声量だった。


 たちまちにぴたりと声は止み、障子越しの影も掻き消えて部屋の中に静寂が戻ってくる。

 

「しつこいねぇ……。こんなところまで入り込むか。……あたしの結界も衰えたもんだ」

「いま、いまの、なに? おばあちゃん」

「犬坂の者やろね。……往生際の悪い」


 ふう、と雅代は息をつき、真っ青になって震えるさくらの肩を抱き、落ち着かせる。しかしその額にはうっすらと汗が滲んでいた。


「……さて、本題をはじめようかね」

「……本題?」   

「ええ。凉香ちゃんは無事ですよ。――いまのところは、やけどね」

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