第6話

『母さん! ただいま!』

 アパートのドアを開けると、びっくりした顔の母が出てきて、そうしてぱっと笑顔になって、俺に両手を伸ばした。

『優希、今までどこ行ってたの? 心配したんだよ?』

『ごめん、もう大丈夫だよ、母さん、俺ずっと帰りたくて、あのね、ねえ、なんで』

 俺も手を伸ばすのに、届かない。冷たい水の中を進むみたいだ。身体が鉛みたい。

『優希、優希、優希』

『帰りたい、母さん、俺は帰りたいんだよ』

 母の姿が霞んで見えなくなる。

 伸ばした手は、白い袖を掴んだ。

 男が振り向く。

『……』


 目が覚めた。狭い窓から差し込む朝日が、顔にあたって眩しい。

 俺はゴシゴシと目を擦り、濡れた頬を袖で拭った。

 ここへ軟禁されて何度目かの、母の夢だった。最後に他の人間も出てきた気がするが、どうもはっきり思い出せない。ただ、母の笑顔ばかりが記憶に鮮やかだ。

 今日も夢みたいな現実が静かに始まった。

 静寂を彩る様に、鳥のさえずりが聞こえる。

 俺はその鳥を見た事が無い。きっとこの先も見れないだろう。

  

 朝はなんとなく明るくなった頃に起きて、寝巻きにも普段着にもなっている着物を軽く整えて、前日の残りで朝ごはんを少し食べ、やっぱり手持ち無沙汰なので、洗濯や掃除なんかをして過ごす。

 暇だ。ぼうっと過ごすしかない時間は、スマホばっかりいじってた自分には結構苦痛である。

 そしてたぶん昼前くらいになると、ガタンと閂が抜かれる。

「いらっしゃい、啓秀」

 扉を開けた啓秀は野菜を持ってきたり、手ぶらだったりする。そして風呂を掃除したり水を汲んでくれたりと、色々世話を焼いてくれる。

 何にしても、毎日顔を出してくれるつもりらしい。優しいなと思うが、恐らく監視の意味もあるのだろう。


「まだ探してはいるんだが、詳細が分かる話はあれ以上出てこないな……後は単に居なくなったとか、何処からか迷い人が現れて住み着いたとか、噂話の名残りしか無い」

「そっか……ありがとね」

 昼ごはんを啓秀と食べるのも、日課になりつつある。持ってくる野菜はいつも同じ様なものだが、贅沢は言えない。

「夏なのに大根が取れるんだなあ……」

「冬はもっと大きい。夏はこんなもんだな」

 小ぶりだが、形は立派に大根だ。

 現代の日本だと、真夏はあまり出回らないし、あっても結構値段が高い。やはり冬野菜のイメージがある。

「今から二百年も経つとね、地球温暖化で気温が凄く上がって、夏なんか外に居るだけで倒れそうになんだよ」

 啓秀は玄米を咀嚼しながら首を傾げた。

「……ちきゅう音檀家?」

「えっと、何て言うか……とにかく外がすげえ暑いの。下手すると死んじゃうくらい」

「そうなのか……なんでそれで生きてられるんだ」

 純粋な目で聞かれると少し困る。そして、質問が真っ直ぐ過ぎて、逆に答えにくい。

「……なんでだろう……皆工夫してるからかなあ……あと慣れてるから? でも気を付けないとヤバいって言うか」

「やばい?」

 オウム返しに聞くのがなんだか可愛く見えて、自然と笑えた。

 一人でこんな所に閉じ込められていたら、正直気が狂いそうだ。昼だけでも話相手になってくれるのは嬉しい。

「やばいは……やばいってなんだろ、『とんでもない』みたいな意味かなあたぶん……美味しい時とかもやばいって言うしなあ……」

 他愛ない会話にほんの少しの癒しを感じる。

 あっという間に食事は終わってしまった。

 そうすると、啓秀も帰ってしまう。

 まだ来ては居ないが、来客と鉢合わせするとあまり良くないからだろう。

 風呂の手入れもなんかも、今日は必要無さそうだ。

「もう帰るの?」

 そう訊ねると、啓秀は少し眉根を寄せて、立膝でずずっと俺に近寄った。どうしたのかと思っていると、顔をじっと覗き込まれる。

「……優希、俺が来る前に泣いたのか?」

「え? ……や、泣いてないよ」

「目が赤くなってる……」

 至近距離で覗き込まれると、ちょっとドキドキした。何せ現代だって通用する、すっきりとした顔立ちの美形だ。意味深な色を入れた切れ長の眼光が、俺の目を射抜いている。

「泣いたのか」 

「……泣いたって程じゃ無いよ、夢見が悪かったんだ」

「どんな夢だ」

 言って良いものだろうか。

 俺の目を覗き込む黒い目は優しい。

「……家にね、帰る夢」 

「……そうか」

「うわ!」

 言うが早いか、啓秀は俺をひょいと横抱きにした。

 そのまま立ち上がって、畳の上でくるんと回る。

「ちょ、こわ! うわぁ!」

「まだまだ」

「やだ早いって! あはははは!」

 コーヒーカップみたいにぐるぐる回る視界にわあわあ騒いで、啓秀の首にしがみついて大笑いして、そのうち啓秀も目が回ってしまったのか、ドタンと尻もちを着いた。

「目が回った……」

「いや自分で回ったからじゃん! あー笑った……」

 ふう、と溜息を吐いてから、啓秀は俺の頭をゆっくり撫でる。

 幼い頃に父親がこういう遊びをしてくれたのを思い出して、少し泣きそうになった。

「……何かして欲しい事は無いか?」

「して欲しい事?」

「外には出してやれないが……」

 見上げた啓秀はちょっと辛そうな顔だ。ああ、心配してくれているのか。

 ……要望だけ出してみても良いだろうか。

「暇だから、何か暇つぶしになるもんがあれば欲しいな」


 翌日。啓秀は野菜や玄米の他に何やら色々持ってきた。

「遊ぶものを持ってきた」

 大真面目に言われて、ちょっと反応に困る。

「……お、おう……?」

 竹とんぼ、でんでん太鼓、羽子板。いずれも使い込まれた古いものだ。

 これはあれだ、たぶん小さい子のおもちゃじゃないだろうか。

 ……いや、落ち着け、せっかくのご好意という奴である。とりあえず触ってみないとダメだ。

 竹とんぼを手に取ってみる。どこかで見た事はあるけど飛ばした事は無い。

 両手をすり合わせるとクルクルと羽が回った。

 えいっと離してみるけど、全然飛ばずにぽとりと落ちる。

「下手だな」

「や、やった事ないんだよ! 啓秀がやって見せてよ!」

「分かった」

「人の事下手とか言って全然飛ばなかったら格好悪いからな!?」

「……見ていろ」

 あれ? ちょっとムッとした顔したかな?

 大きな手が合わさって、竹とんぼの軸を ギュンと擦った。

 ビュンッ……ゴッ!

 そして、物凄い勢いで飛び、天井に刺さった。

「…………ふふっ」

 天井は木製の板で出来ている。どんな勢いで飛ばしたら刺さるんだ?

 啓秀はじっと上を見上げて、気まずそうに指を指しながら言った。

「……刺さった…………」

「あはははは! 落ちてこない、待って、刺さってる、ダメだこれめっちゃ面白い……!」

 ツボに入ってしまって、笑いが止まらない。

 俺は啓秀がおたおたと竹とんぼを引き抜こうとするのを見て、一人で笑い転げていた。笑いの沸点が低いと思うが、何せ普段刺激が無いのだ。勘弁して欲しい。

 ちなみに、あんまり綺麗に刺さったせいか、竹とんぼは無事らしい。啓秀が確かめるようにクルクル回すと、控えめにフワッと飛んで手に戻った。

「あー笑った……多分羽子板も無理じゃない? ここ天井低いし。あとこれは、俺のイメージだと赤ちゃんのおもちゃかなあ」

 年季の入った小さな太鼓を振ると、トコトコと小さな音が鳴る。俺たちの時代だと赤ちゃんのガラガラとかの用途なんじゃないかな。

 気持ちは嬉しいが、ちょっと暇つぶしにはならない。

「……まあ、子供の玩具だ」

「天井低いしちょっと遊べないかな……気持ちは嬉しいよ、ありがとう」

 眉根を寄せて押し黙るが、心なしかしゅんとしている。大型犬みたいで、なんだか健気で可愛いと思ってしまった。

「……じゃあ、どんなものが欲しい?」

 ちょっと考える。何かお願いするにしても、この時代でも入るものだ。

「うーん、そうだなあ……紙と鉛筆……鉛筆は無いか、筆とかかなあ?」

「字が書けるのか?」

 目を丸くしてびっくりされると、自分の方がびっくりしてしまう。

 そうか、この時代だと書けない人も結構居るのかな。

「普通に書けるよ。あんまり難しいのは書けないけど。ていうか読み書きできないと、荷受しても伝票と付き合わせ出来ないだろ? あんまり達筆だと読めないかもだけど」

「いや、馴染みの商人だし、荷物が届いてから見方を簡単に教えるつもりだったんだ……どれくらい読み書き出来る?」

 感嘆されるとなんだか照れくさい。俺だって学校では賢い方じゃ無いし、勉強で褒められる事なんて早々無かった。

「ど、どれくらいって、普通くらい……俺の時代だと、とりあえず殆どの人は書ける感じだから」

「そうか、凄いな……親から習えるのか?」

「学校……えっと、寺子屋? ていうのかな、それの大きいやつみたいな勉強する所があって、皆で勉強するんだ、……義務教育って言うのがあって、十五歳までは勉強しなきゃいけない事になってるから……わ、わかるかな……?」

 啓秀はほぅと溜息を吐いて、酷くしみじみと言った。

「良い時代から来たんだな……」

 たぶんだが、啓秀の住んでいる村では、書けない人の方が多いという事か。

「えっと、啓秀、村って小さい子居るの?」

「小さい子は居るな……」

 俺はおもちゃを籠に詰め直した。竹とんぼも籠に戻す。壊れなくて良かった。

「おもちゃは持って帰って小さい子に遊んでもらって」


 今日も時間が酷くゆっくり過ぎていく。

 啓秀が帰ると、夜が来るのは恐ろしい。

 誰かが閂を抜いたら、俺はどうしたら良いんだろう。風呂の沸かし方は覚えたが、いざ来た時にどうしていいか分からない。

 行灯の明かりだけを頼りに、布団を手繰り寄せる。

 遠くに獣の吠える声が聞こえた。ここまで来るのだろうか。入ってきたりしないだろうか。

 本当は、夜はずっと、とても怖い。

 でも、今はここにしか居場所が無いのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る