第7話
翌日の朝、俺は野菜を少しと、あとは優希に頼まれた物を持って社に向かった。
閂を抜くと、台所に居た優希がぱっと顔を上げ、眩い様な笑顔を見せる。
「啓秀、いらっしゃい!」
まだまだ若く健やかな男児だ。こんな所に閉じ込められているのは辛くてたまらないだろう。それでも閂をかけておかなくてはいけないということに、少なからず罪悪感があった。
どうにかできないものだろうか。
「質は良くないのだが……」
籠からだしたのは、冬のうちに
優希は目を輝かせた。初めて見る、子供のような無邪気な笑顔だった。
「わあ、墨擦るの初めてかも!」
……墨を使わないならば、一体今までどうやって字を書いて来たんだ?
「墨を擦らないのに字が書けるのか?」
優希は窓から射す光に墨をかざして、きらきらと光らせながら応える。
「俺らの使うのは、最初から墨汁になってんだ。つやつやして綺麗だね。これも村で作るの?」
使いかけの墨は大きくないが、まだ十分に使える。遊ぶくらいなら調度良いだろう。
「自分で作ったものだ……墨は、
俺はざらりとした紙をめくって見せた。紙は質が良くなくても金になる。
「紙まで作るんだ!? ほんと殆ど自給自足なんだね……どうやって作るの?」
「
口を半開きにして、ぽかんと聞いているのが大分間抜け面である。まあ、実際聞いても良く分からないのだろう。
「こうぞ……? ねえ、それ俺も作れる?」
少し面食らう。欲しいだけでは無いのか。
「……紙を作りたいのか?」
「うん!」
いつもは何処か寂しげな目が、好奇心に爛々と輝いている。
調度良い手慰みになるかも知れない。
「そうか……まあ今度材料も持ってきてみようか。大きいものはここでは扱えないから、簡単な小さい枠でも良ければ……」
「ほんと!? やったー!」
次の日から、優希は何か書き物をする傍ら、一から紙を作り始めた。
俺に習い材料を煮て、すり鉢ですり潰し、ざるを貼った型に流し込む。
俺からしたら冬場の手慰み。しかし優希は幼児の様に目を輝かせて、乾く前の紙を光に透かした。
「ねえこれ、いっぱい流し込めば厚紙にも出来るかな?」
「厚紙……厚さを出したいのか? まあ、乾く前に腐らない程度だったら……本当は冬が良いんだが……」
夏の水は痛みやすい。混ざりものが多いと直ぐに腐ってしまう。優希はむむむ、と唸り型から乾く前の紙を外した。竹製の目の細かい網が敷いてあるので、紙の形は崩れない。簡素な作り方だから質は良くないが、このまま乾かせば紙が出来上がる。
「外に干してやろうか?」
「良いの!?」
「雨が降らないと良いが……」
「じゃあ、居てくれる間だけ外に干して。後はお風呂場で干してみる!」
風呂場は屋根が抜けている。夏だし、どうにかして吊るしておけば乾くか。
村で作った紙も持ってきてあるのだが、どうもそれでは足りないのか、又は質が気に入らないのか。
「紙を作って、そこから何を作るんだ?」
「カルタだよ」
「かるた?」
「百人一首の簡単なやつみたいな」
「百人一蹴?」
いかにも知っているだろう? と言う様子で語るのだが、生憎と全く分からない。
お互い顔を見合わせて首を傾げる。
「こう、小さい厚紙に紙が貼ってあって……知らない? 江戸時代くらいにはあるのかと思ってた……」
「見たことが無いが……それこそお江戸に行けばあるんじゃないか?」
「ど、どうだろう」
優希は苦笑いしたが、それでも作業は続けるらしい。網が足りなくなるかもしれない。明日、村にあるだけ持ってこよう。どうせ夏場は使わない道具だ。
「まあ、やりたいようにやればいいが……何枚くらい作るんだ?」
「この大きさだと、……二枚取れそうだから……厚紙はとりあえず五十枚くらいあれば足りるかなあ……」
「五十枚!?」
途方もない数字だが、優希は至って真面目に数をこなす気らしく、また枠に網を敷いて、水を切るべく揺すっている。
「とりあえず二十枚くらいあれば遊べるかな……まあでも五十音は作りたいし……読み札考えないと……」
「遊ぶ? 玩具を作っているのか?」
優希は枠を繰りながら、酷く明るく言った。
「まだ内緒! 楽しみにしてて!」
どうやら余程楽しいものが出来るらしい。
「あ、……『あめんぼ』? 『雨』? ……雨の方が書きやすいかなあ……」
俺は時間をかけて必死に擦った墨にやっと筆を浸し、トランプくらいのサイズに収まるように、少し迷って簡単な家の絵を描く。屋根があって扉があればまあ家には見えるだろう。その上に、サッサッサッと細い線を描いたら、簡単だが立派に「雨」の絵だ。俺はもう一枚紙を出して、平仮名で大きく「あめ」と書いた。そして、「あ」だけを丸で囲う。
「カルタっぽいじゃん……!」
後はこれを、啓秀が持ってきてくれた障子糊で、厚紙を包む様に貼り付けるのである。厚紙に直に書いてもみたが、どうもまわりから剥がれそうで、強度が足りない感じがしたのだ。
沢山遊ぶなら丈夫な方が良い。
このくらい簡単な言葉だったら、小さい子でも遊べる。そうしたら文字を覚えるのに役立つかもしれない。
どうせ暇で仕方ないのだ。暇つぶしで誰かの役に立てるかも知れない。
「『い』はどうしようかな……『家』は雨の絵と被っちゃうしなあ……犬? 柴犬っぽいのなら描けるかな……楽しいなこれ」
もしかしたら誰も喜ばないかも知れないけれど、ちょっとでもやりがいを持って人の役に立てれば、この場所でも生きていける。そんな気がした。
「ちょっと溜まったら啓秀と遊んでみよう……でも読み札俺が読んでたら勝負できないか」
アオーン……
遠くで獣の遠吠えが聴こえて、一瞬でぞわりと背筋が凍った。
落ち着け。ここには入って来れない筈だ。この社は堅牢なのだと啓秀が言っていた。
ふう、とひとつ大きく息を吐いた。
今だって怖い事は考えてしまうし、家に帰れない現実に泣いたりもする。
でも、明日が良い日になると良い。明日が来るのが楽しみになったらいい。
「啓秀に会いたいな、早く明日になんないかな……」
無愛想だが優しい男が、たまにむっとしたり、びっくりするのを見るのが好きだ。
一人でふふっと笑って、また筆を取った。
ここへ来て二週間程、今日は初めて行商がやってきた。
朝起きてすぐ、カルタの読み札を考えていると、外でガタンと音がする。いつも啓秀が来るのはもう少し後の時間だ。
閂を抜く音に驚いて土間に降りると、扉を開いたのは見たことの無いおじさんである。内心ものすごくびっくりした。
おじさんは恭しく手を合わせて、丁寧に一礼する。
「新しい稀流人神様、どうぞよろしくお願いします」
「あ、はい! よろしくお願いします!」
声を聞いた所でやっと我に返った。慌てふためく俺に、行商のおじさんは「初々しいですねえ」と穏やかに笑ってくれる。
おじさんが荷物を手際良く社に運び込んでいると、ヒヒーンと、外から馬の声がした。
馬で来たんだ……!
見たいと思ったが、生憎外には出られない。
とりあえず今は、やるべき事をやらないと。
「それでは、お願い致します」
「はい、読ませていただきます」
「あらまあ、字が読めるのですね」
やはり少しびっくりされてしまった。
渡された注文書もやはり達筆だが、一つ一つ説明してくれるので困る事は無かった。物凄い量が来るのかと思ったがそうでも無い。きっと馬に積めるだけ持ってくるのだろう。
荷物と覚書を何とか付き合わせた所で、すっかり意識の外だった青い紐を慌てて引いた。カラカラカラッと軽い音がしたのを確認して、啓秀から預かっていた次の注文書を渡す。
おじさんはさっと目を通して、手元にあったからと言って、次の注文の一部を積荷から出してくれた。
「これも合わせて勘定致しますね」
「お願いします」
ソロバンを慣れた手つきで弾きながら、おじさんはゆったりと言った。
「綺麗な
「いや、色を抜いているだけで本当は普通の黒髪なんですよ?」
「まあそうなのですか? てっきり海を越えてきた方か、血が混ざっているのかと」
「何もないんです。ただの人です」
「いいえ、あなたは稀流人神様です」
思いの外キッパリ言われて、思わずギクッとしてしまった。
「あなたは神様です」
「……はい」
気圧される様に頷くと、おじさんは一度丁寧に頭を下げて、またソロバンに目を向けた。
そうして支払いを済ませて何とか送り出すと、外から閂がかけられたのが分かる。
「ありがとうございました! お気をつけて!」
戸が閉まっていて聞こえたか不安に思ったのも束の間、外から、
「ありがとうこざいます、また参ります」
と返事が返ってきてほっとした。
どうやら、初仕事を終えたのだ。
一人きりの密室がなんとなく居心地良く思えた。やはり知らない人と喋るのは緊張する。
……まして「泊まる」と言われたら、正直かなり戸惑うかも知れない。
考えていたら、随分時間が経ってしまった様だ。
また、ガタガタと閂が外れる音がする。
「失礼する。荷を改めに来た」
「いらっしゃい、啓秀」
見知った顔にほっとして、俺は土間に積まれたものと、渡された覚書き、あと残った釣り銭を並べた。
中身は薬や種、雑穀、あとは少しの織物など。生活必需品ということだろうか。
「しかし高くついたな……」
啓秀は最後に置かれた包みだけ、隣の部屋の隅に置く。
「え? 値切るとかした方が良いの?」
「いや、やらなくていい。単に今年も不作で高いんだ。村の蓄えではやっていけないから、商人が来てくれるだけで随分ありがたい」
「そうなんだ……」
啓秀の話を聞くに、その背後にある「村」は随分状況が悪そうだ。なのに俺はここにいる間、食べるものが途絶えることも無い。
何だかとても申し訳ない様な気がした。せめて農作業の手伝いなどあれば良いのに。
父が死んでからは母子家庭で、学校に行きながら家事をするのが当たり前だった。
今はカルタなんかも作っているけど、所詮子供の玩具である。農作物の様に食べられる訳では無い。
ああ、母は元気だろうか。考えても仕方ないのに、どうしたって頭から離れ無い。
「ねえ、紙作る以外に俺にもできる内職とかないのかな? 縫い物……は、あんまり得意じゃ無いけど……なんだろう、わかんないけど……」
啓秀は驚いた顔をして、
「いや、貴方はここに居らっしゃるだけで十分村の者を守ってくださってるんですよ」
と言った。
びっくりしすぎてまた敬語になっているのを笑って、啓秀がバツの悪そうな顔をする。
「優希が、ここに居るのが何より助かるんだ、まずはそれを自覚してくれ」
「無理っぽいかも」
「ああもう……!」
「あはは!」
そうしてしばらく、他愛ない話をした。寂しさに萎れる心に、啓秀の低い声が優しく響いて心地よかった。
啓秀は暗くなる前に荷物を大八車に積んで、また閂を掛けて帰って行った。
そうすると、また暇だ。
お客さんが沢山来れば暇はしないのかもしれないが、やはり夜のもてなしとなると恐ろしかった。
続
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