第8話 (1)

 それから何日か後の夕方、カルタ作りも大分進んで、そろそろ夕飯の支度でもしようかと思っていると、急にゴトン、と閂が外される音がした。

「ごめんくださいませ、もし、稀流人神様のお社と存じます」

 ガタ、と戸を引いて入ってきたのは、藁で編んだ傘を被り、土埃に汚れた着物を纏った、中年の男だった。

「……えっと、……いらっしゃいませ、そうです、あの、今日はお泊まりになりますか?」

 ゾワッと背筋が粟立ち、一気に緊張した。旅人がやってきたのだ。

 どうしよう、何をしていいのか全然わかんない。

 とりあえず赤の紐を引っ張っておく。旅人の方の鳴子が、ガラガラと耳障りな重たい音を立てた。

「ええ、助かります。一晩だけ泊めていただきたい」

 傘を取ると、それは優しそうなおじさんだった。眉毛か八の字になっていて、長旅なのか随分痩せている。

 そうだ、ご飯を作らないと。あとお風呂も沸かさないといけない。

 拳を握って気合を入れ直す。やる事は沢山あった。これはお役目だ。緊張している場合では無いのだ、頑張らないとならない。

「丁度ご飯の支度をするところなんです。上がってゆっくりしててください。お風呂も沸かしますね!」

「では、ありがたく。失礼致します」

 男は丁寧に答えて。部屋にはあがらず、上框あがりがまちに腰掛けた。

「あ、あのお部屋にどうぞ!」

「いえ、この通り砂だらけですから、お社を汚す訳にはまいりません」

 そう言って、丁寧に遠慮してくれる。そんな事されたらこっちだって頑張りたくなってしまう。

「あっ、じゃあお風呂直ぐあっためますから、先に入ってください! ついでに服も洗っちゃいます! 明日までに乾けばいいですか?」

 男の答えも待たず、俺は行灯の傘を退けて火種を持ち、奥の戸を開けて、風呂釜の藁に火をつけた。最初は火事にならないかと思ってちょっと怖かったけど、流石に見慣れた。台所に積んであった薪をくべていく。幸い昼に啓秀が手入れをしてくれていたので、水も綺麗だ。

 火がついたのを見届けて、干していた厚紙を手早く片付けた。昼間外に出してくれたから殆ど乾いていた。台所の隅にでも置いておこう。

 見上げると、切り抜かれた夕焼けが少しだけ見える。

 湿気と臭い、あと一酸化炭素中毒を防ぐ為か、便所と風呂だけは戸を一枚隔てて外にある造りだ。壁に囲われてはいるが、ひさしの隙間から狭い空が見えるのだ。

 良く言えば露天風呂。悪く言うと、虫も入るし冬は寒そう。

 俺は冬までここに居るんだろうか。それとも帰れるか、外に出るかするのだろか。

 ……だめだ頭を切り替えないと。

 薪に火が移り、パチパチと音を立てて燃えている。

 幸い昼に啓秀が掃除して、風呂釜に綺麗な水を入れてくれていた。小さな風呂だ、直ぐに温まるだろう。水にすのこを浮かべておく。これが無いと風呂釜の底が熱くて入れないのだ。

 その間に夕飯の支度をするべく、俺は着物にキュッとたすきをかけた。啓秀に習ったのが、随分板についていた。


 旅人に風呂を勧め、入っている横で沸かした湯で着物や下着をサブサブ洗ってしまう。旅人はきょとんとしていたが、「良い神様にお会い出来ました」と言ってとても喜んでくれた。

 砂っぽさが大分抜けた着物と褌と足袋、その他全く名前の分からないものを、風呂に渡した縄に掛けて吊るす。幸い夏だ、まだ時間も早いし、天気が良ければ明日には乾いているだろう。もし乾かなくても歩いているうちに乾いてしまう筈だ。

「俺も着てる寝間着ですいませんけど、使ってください」

 洗いざらしの木綿で体を拭いていた旅人は、「かたじけのうこざいます」と言って、丁寧に頭を下げた。

 食事は根菜と山菜を煮たのと玄米のごはん、大根の葉っぱの味噌汁と、啓秀がもってきた大根の漬け物。大根ばっかりなそれを「ありがたい」といいながら、旅人は余程空腹だったのか、掻き込むように食べた。

 そこで初めて、性的なもてなしが頭を過ぎった。こんな信心深くて人の良さそうな人が、俺になにかさせる、なんて事あるだろうか?

 心配したのも束の間、旅人は食事を終えると、うつらうつらと船を漕ぎ始めた。

 慌てて隣室に布団を敷いてやると、あっという間に眠ってしまった。

 俺は隣の部屋から聞こえるイビキに心底ほっとしながら、食事を片付け、自分も部屋に布団を敷いた。

 隣の部屋に人が居るので眠れるかと不安になったが、幸い、思ったよりちゃんと眠れた。


 翌朝。俺は早めに起きて旅人におにぎりを三つ握って、沢山置いてあった竹の皮に包んで、漬物を添えて持たせた。路銀は求められなかった。

 人の良い旅人は始終丁寧にお礼をしてくれて、洗っておいた清潔な着物を着て、いざ出ていこうと戸を開けた。

「ひっ……」

 途端、悲鳴のような声を上げる。

「良いからさっさと行け!」

 何事かと思っていると、少し離れたところから啓秀の声がした。

「はっはい! では稀流人神様様、失礼致します!」

 バタバタと立ち去った旅人の背中を呆然と見送る。戸は開いたままだ。

 ふらふらと歩いて、久しぶりに外に出た。広い。土を踏み固めた様な道に出て土手を見下ろすと、あの河が朝日を浴びて煌めいている。

「それ以上動くな!」

 ぎくりとして横を見ると、傍に来ていたらしい啓秀が腕をつかんで、強引に社に引っ張り込んだ。

 それはもう、見たいとの無い様な怖い顔だった。


「ねえ、ごめんてば! だって、開いてるんだもん……ていうか啓秀がおっちゃんが閉める前に追っ払ったからだろ!?」

 啓秀はあからさまにイライラしていて、ついでに目の下に黒々と隈を作っている。目の上が赤いのと相まって余計に黒く見えた。眠らないまま、朝一番で来たのだろうか。

「あれに何かされたか」

「何って?」

「同衾をしたかと聞いているんだ!」

 そうか、出来なかったから怒ってるんだ。

 でも、旅人は直ぐに寝てしまったし、求められなかったらしなくていいと言われていた。

 さっきの戸が開いていた件と言い、今日の啓秀は理不尽極まりない。いつもの優しい啓秀は何処に行ってしまったんだろう。

 酷いだろ、俺だって昨日は頑張ったんだ。着物も下着も洗ったし、ちゃんとご飯も出した。今朝だってきちんと送り出した筈だ。

「だって……」

「答えられないのか!?」

 なんでそんなに怒ってるんだよ。

「だって、すぐ、寝ちゃったんだって、……っ」

 涙が出てきた。

 だって、自分なりに一生懸命、ちゃんとやったんだ。内心何かされたらどうしようって思いながら、怖いと思いながら、出来る限りの事はしたのだ。なのに何で、こんなに風怒られなきゃいけないんだ。

 グスッと鼻を啜る。

「寝ただと……?」

「おっちゃん、夕方に風呂入ってご飯食べたらすぐ寝ちゃったから……」

 啓秀は暫く黙っていたが、やがて重い溜息をついた。

 やはり失望されたのだ。俺の目からは、何だかもう涙が溢れて止まらなかった。

 怖かったのに、がんばったのに、どうして認めてくれないんだ。がんばったなって言ってくれないんだ。

 立てた膝に顔を埋めて、俺は情けなくも声を殺して泣いた。

「……すまん、違うんだ、俺が悪かった」

「……なに?」

「どうしたら良いんだ俺は……」

 顔を上げると、啓秀は正座をして俯いている。

「……俺、おっちゃんとちゃんと出来なかったから怒られたんじゃないの……?」

 目が合う。それはとても悔しそうな、それでいて悲しそうな顔だった。

「俺が変に気を揉んだのが悪いんだ、お前は何も……」

「ねえ、」

 啓秀は息を飲んで、黙って俺の言葉の先を待っている。

 昨日、寝入る前に、布団の中で思ったことがあった。

「俺、昨日不安で怖かった。初めてだし、何にもわかんないし、何かしろって言われたらどうしようって。……ねえ、啓秀……」

 涙で少し声が枯れている。

 好きとか嫌いとか、そんなのは分からない。でも、ここにいて一番安心できるのは、間違い無く目の前の男なのだ。

「俺に、ちゃんと教えて。そうしたら俺、知らない人でもがんばるから」

 ああ、言ってしまった。

 その時の彼の顔は、悲しさとか悔しさとか哀れみとか、そういうものが混ざった苦しいものだった。

 多分、俺はこれから誰に抱かれても、この顔を思い出すのだ。


 教えて。そう言った子供を、俺たちは神に仕立て上げ、恩恵という名の搾取で嬲る。

 ずっと分かっていた。この子は神様では無いし、夜這いで生まれるのが当たり前の村の子でも無い。

「俺に似てねぇなあ、一体誰の種なんだかなあ」

 なんてのは良くある笑い話で、正直俺の子だって、村の子供の中に居るかもしれない。

 年頃になったら妙齢の女に筆下ろしされるのが当たり前の所で育つ自分たちとは、相容れぬ存在なのだ。

 それを知りながら、村の戒律に巻き込んで、無垢な心を傷つけている。

 戸を閉めて細い体を抱え上げて、敷きっぱなしだった布団にそっと横たえる。

 箪笥の上に、作りかけの札が積まれているのが見えた。


 白い滑らかな肌はどこまで辿っても傷一つ無く、口を吸えば息をも吐けずに喉を鳴らし、翻弄の波に飲まれるまま、全身はしっとりと汗ばんで、そうして、怖いと言って涙を零した。 

 口に含んだ布海苔ふのりはこの間の行商に頼んだものだ。

 あれば置いていってくれという走り書きは見落とされること無く、それを目にしたこの子は、これが何に使うものが想像もつかなかった事だろう。

「くち、入れてるの、なに……?」

 溶けた様な目で見ないでくれ。下半身に熱が溜まる。

 こうやって使うんだと見せつけるように、俺はそのまま彼の立ち上がった、まだ子供じみた物を口に含んだ。

 どろりとぬめる口腔の感触に悲鳴の様な喘ぎが聞こえたが、まだまだ序の口だ。こんなものでは無い。

 どろりと溶けたのは、性交に使う潤滑剤である。口の中で唾と混ぜて溶いて、そのぬめりを借りて押し込むのだ。竿から尻まで伝うそれは、差し込む朝日でぬらぬらと光っている。

 そうしてそこに指先を含ませると、とうとう彼は少女の様に泣き出した。

「こわい……」

「そうだな、……ごめんな」

「ひっ、……」

 怪我をしない様に。そう思うが、いくら気をつかっても自分の一物を入れたら痛みは免れない。

 勇気の瞼が震えている。苦しげに、微かに吐息を吐くのが聴こえる。

 痛みを耐えているのか、それでも僅かでも快楽を拾っているのか。

 縋るように、背中に指が絡む。汗で滑る。目の前が行灯よりも更に赤い。俺も酷く興奮していた。

 傷つけるな、傷つけるな。

 自分自身に言って聞かせる。一体何処まで持つだろうか。 


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