第9話
起きたら、啓秀はもう居なかった。
だけど、ドロドロだった身体は綺麗に拭かれて、一応寝巻きを着て、布団をかけられていた。
もう夕方らしい。随分眠っていたみたいだ。
「いたっ……」
尻が痛い。もしかしたら少し裂けているかもしれない。それくらい、啓秀の存在感は腹の中に残っている。
この辺まで入ってた……
腹をさすって、少し赤面して、そうして、少し泣いた。
多分彼はお役目を全うしたから、もう抱いてはくれないだろう。それがたまらなく寂しかった。
何で寂しいと思うんだろうか。またこんな痛い思いをしたいと思っているんだろうか。
違うか。多分俺は、啓秀の事が好きなのだ。あの艶やかに紅を引いた眼差しに、優しくて低い声に、苦しい程の熱が宿るのをまた見たいのだ。
どうせ誰かにやられるなら、最初くらい啓秀の手で暴いて貰えたらと思ったんだ。
だってそうじゃないと、惨めじゃないか。
行く宛てもなく幽閉されるまま、初めてが知らない男の慰みものになるなんて、あんまりにも惨めじゃないか。
翌日、罪悪感を引き摺りながら、俺は社へと出向いた。あの後起こさずに置いてきてしまったのは、一体どんな言い訳をしたらいいのか、分からなかったからに他ならない。
酷い扱いをしてしまった。あんなものはお役目でも指導でもない。ただ、自分の
いくら優希に請われたからと言って、許されるものでは無い。
重たい心のまま、のろのろと閂を抜く。三尺もある重たい閂は、優希をここに監禁する為だけの道具。
「……いらっしゃい、啓秀」
「ああ……」
努めてであろう、優希は少し息を飲んでから、いつも通りに微笑んだ。
射し込む太陽に金の髪が透けて、後光が射す様に尊く、また狂おしい程に愛おしく思った。
抱き締めたい衝動に駆られたが、そんな事は許されない。
優希は稀流人神、俺はそれを祀る宮司だ。
本来、その身体は旅人に供され、村を守る為のもの。病を持ち込まない為にも、宮司と役目以外で交わる事は許されないのだ。
優希はほんの少しだけ俯いて、笑顔で立ち上がろうとする。途端、微かに眉根を寄せて、身体を硬直させた。
慌てて草履を脱いで駆け寄る。支えた身体は微かに震えていた。
「……っ……」
「すまない、……痛むか?」
「いや、大丈夫……あ、あのね! ちょっと見てもらいたいものがあって!」
無理をして笑うのが痛々しい。そっと押し返されて、身体を離す。
優希はそろりと歩いて、箪笥の上に置いてあったものを下ろした。やはり痛むのか、座る時に眉根を寄せる。
「か行までできたんだ……」
それは、厚紙に紙を貼った札だった。ざっと見、絵が描いてあるものと、平仮名で言葉が書いてあるもの……しかし所々見た事のない字がある。時代で違ってしまうのだろうか。
「……上手いものだな、浮世絵の弟子かなにかだったのか?」
行商が絵を持ってくる事もある。美人画なんかはやはり村でも欲しがる者がいて、余裕があれば買う事もあった。
「そんなんじゃないけど……これおもちゃなんだ。ちょっとやってみるから一緒にやって」
優希は絵の札をバラバラに床に並べる。墨で書かれた絵は水で濃淡が付けられており、驚く程奥行きがある様に見えた。
「見事なもんだ……売れるんじゃないか、これは」
「そんなんじゃないってば、えっと、俺がこっちの札を読むから、……今日は一人だから、俺が五秒数えるまでに絵を探して取って。半分以上啓秀が取れたら勝ち。半分取れなかったら俺の勝ちね」
成程わからん。
しかし、優希はふへ、と笑い、笑顔で札を読み始めた。昨晩の名残はなるべく見せたく無いらしい。それでいいのだろうか。
「いぬ」
「いぬ……!?」
「いーち、にーい……」
慌てて探す。おろおろしている間にあっという間に五数えられてしまった。
「ご! 正解はこれでした」
「むう……」
ぴっと指差したそれは確かに犬だ。耳が尖って足が四本、尻尾は丸まっている。狼かと思ったが、言われてみれば猟師が連れている様な犬である。はぐれた狼の子供を育てたのを、ずっと掛け合わせたやつだ。
「次行くよ……えと」
「干支……」
十二支か。これは簡単だ。鼠と兎と蛇に矢の様な印が付いている。
「これだ!」
「それだ! よくわかったね? 十二匹は描けないから」
優希は嬉しそうだ。次々にと札を読む。
「うさぎ」
「これ」
「とる時は『はい!』のがそれっぽいからもう一回」
「はい」
言い直してうさぎを取り直すと、ふふっと笑うのが聞こえる。そんなに変なことはしていないはずだ。
「あめ」
「飴……え、無くないか!?」
「さーん、しーい……」
「ああもう……!」
「五! 正解はこれ」
それは、思ったのとは違う「あめ」だった。小さな家に降り注ぐ雨粒。成程、「雨」だ。
その後も「かき」「き」「おめん」と続く。時間に限りがある中、絵札の読みを考えながら探すのが面白い。取れた札が手元に積まれ、取れなかった札が畳に残った。
「こうやって、読み札を読んで、絵札をさがすの。二人以上で取るなら五秒数えなくてよくて、いっぱい取った人が勝ち。……最後、『けいしゅう』」
「俺か……!?」
慌てて探すと、着物に袴を履いた男の絵があった。他は一通り終わっているし、多分これだ。
「はい!」
「あ、わかりやすすぎた?」
「……俺が入っているのはおかしくないか?」
「えー、ダメかなあ……小さい子が分かるものって他何がある? けん玉とか?」
「なんだそれは」
優希の言う言葉は、たまに全く分からないものがある。けんだまなんてものは聞いたことが無い。
こくりと首を傾げて、金色の髪がさらりと光る。
目元が赤くなっている。昨日組み敷いた面影は確かにあるのに、酷く穏やかな眼差しだった。細い指を顎に当てて、少し笑う。
「わかんないのはだめだなあ……けん玉ってこの時代だと無いのかな? 思いつく単語五十音で書いてくからさ、啓秀分かるかどうか先にチェックしてよ」
「五十音ってなんだ」
ちぇっく、というのも分からない。しかし一々聞いていたら話が進まない。流れからして「見てくれ」くらいの意味だろう。
「えと、いろはにほへと? まあなんでも良いんだけど……あっちょっとそれの裏見て!」
言われるがままに自分の描かれた札をひっくり返すと、たぶんだが、小さく「けいしゅう」と書いてある。
得意げに語る目は生き生きとしている。昨日無理をさせたのに、こんなに元気なのは初めて見る気さえした。……いや、筆や硯を持ってきた時以来か。
優希は与えられた役目以外の「何か」を探していて、それに触れると光輝く様に見える。
「絵札を見せながら、読み札を探すゲーム……遊びもできるんだ」
「成程……」
ほうと息を吐く。逆にも使えるということか。
「これで、小さい子が平仮名覚えられるんじゃないかと思って」
思わず面食らって、手に持った札とはにかんだ優希の顔を見比べる。成程、これなら遊びながら字を覚えられるかも知れない。
『百姓に学は要らん』
というのが村の暗黙の了解で、村で文字を書けるのは神事の関係のものと村長の家系の男だけだ。村の子供には学びの機会が無いし、大人もどうしても野良仕事に追われてしまう。
子供らに文字を学ばせたいと思っても、中々ままならないのだ。
「平仮名が読めれば、ふりがなをふって漢字も読める。そうしたら出来る事の幅も拡がるんじゃないかと思って……ほら、行商さんの伝票読んだりもできるじゃん? 他にも……この時代の事はわかんないけど、出来ることが増えるって楽しいから」
俺は呆然と目の前の少年を見た。優希はやはり神様なのでは無いだろうか。
ずっと思っていたのだ。子供達にもっと知識を得る機会が、歴史や世の中を知る機会があっても良いのでは無いかと。そうしたら閉鎖的な村の中から、将来外に出る者だって居るかもしれない。
自分だって、旅に出た事なんて無い。
でも、物見櫓から旅人を見ると思うのだ。外にはきっと、危険を犯してまで出る理由があるのだと。
そんな事を口にした事は、今まで無い筈だ。まるで心を読まれたか、神の懐に抱かれた様な気持ちをおぼえる。
この子は、本当に何なんだろう。
「どうしてだ? ……理不尽に囚われている身で、どうしてそこまで村の事を考えてくれるんだ……?」
優希はきょとんとして、やがて優しく目を細めた。まるで仏の様な笑顔だと思った。
「啓秀がさ、村の子に文字を教えてあげたそうだったから。何か俺に出来る事、あるといいなって」
ああ、どうして、この子はこんな所に囚われているのだろう。
俺が囚えたのだ。
そうだ。
頭の中に雷鳴が轟いた様な気がした。
俺が、この優しい子を、ここから出さなくては。
「……俺の名前の札はやめよう、俺が居なくなったら使えないじゃないか」
「あっ、そうか。今は大丈夫でもずっと先まで使えた方が良いよね。『け』は思い付いたらまた作ろうかな……」
「あと、読み札と絵札の裏書きは俺が書いた方が良いやも知れん。多分、この字の感じだと、半分くらいは伝わらん」
「えっ今とそんなに違うの!? ……あっ、凄い時間使っちゃった! お昼ご飯食べようよ」
言われてみれば、遊びに夢中になって随分時間を使ってしまった。暗くなる前に帰らなくてはならないから、そこまで長居は出来ないのだ。今日あたり罪悪感から来るのに躊躇したせいで、ただでさえあまり時間が無い。
立ち上がろうとした優希が、ビクッと身体を震わせ、よろめくのを咄嗟に支える。
「すまない、痛むのか……」
「だ、大丈夫……」
細い身体だ。ここに来た時よりいっそう細くなってしまった気がする。顔色だって良くない。当たり前だ、陽の光に当たらず、ろくに身体も動かせないのだから。
胸が傷んで、思わず強く抱き締めた。
「うわ、……あ、あの、大丈夫だから本当に」
「優希」
「な、何?」
「これ、出来ている分だけで良いから貸してくれないか……子供らに遊ばせてみたい。今読めない所を少し書き直すが……」
読み札の読めない所は潰して、とりあえず横に書いてしまう事にする。長く使うなら、上から紙を貼って書き直すなりすれば良いだろう。
腕の中の優希がもぞもぞと動いて、顔を上げる。少し薄い色の瞳が活き活きと輝いていた。
「良いよ!」
夕方、啓秀が帰ってから、俺は紙を一枚使って、残りの文字をリストアップする事にした。
あ行とか行を飛ばして、最後は「わをん」これを消しこんで行けばカルタが完成する。
……と思いきや、啓秀的には「ゐ」や「ゑ」も要るらしい。成程わからない。字もどうやら伝わらないし、本格的に合作になりそうだ。たかだか二百年くらいで、そんなに字が違うとは思わなかった。
行商の注文書はミミズののたうった様な字だなと思いつつ何となくは読めるのだが、書けるかとなると、どうやらそう簡単では無いらしいのだ。
「『さ』……『鮭』? 鮭居るのかな……ていうか描けるかな……『酒』はありそう……」
余白に読み札の単語を書き込んでいく。
とりあえずリストアップして、啓秀に相談しよう。この時代で伝わらないものを省いて、思い付かないものも聞いてみる事にする。
「ふふ、『竹とんぼ』『はごいた』『でんでん太鼓』……濁点は後回しだな」
おもちゃを持ってきて、使えなかった時の憮然とした顔を思い出して、なんだか楽しい。
「『ふき』……『い』は『稲』とかでも良かったかもなあ。後は何があるかな……『にぎり飯』『山菜』『鍋』」
部屋を見回してみる。この社にあるものだったら大丈夫だろう。
「『社』『風呂』『薪』……『縄』……」
鳴子に繋がる縄を見る。赤いのと青いの。今日も使わなくて良さそうだ。旅人を泊めた日、目の下にクマを作って、朝一番で来てくれたなあ。
「『母』……描けないか。『花』……」
帰りたいはずなのに、啓秀とずっと一緒に居たいと思う自分が居る。
しかし、この身体は検疫のためのものだから、啓秀はもう触れてはくれない。今日だって抱きしめてはくれたが、性的な事はもうしないのだろう。
「『涙』……」
嬉しかったり悲しかったり、帰りたかったり、ここに居たかったり。なんだか心はバラバラで、零れ落ちる涙の意味は自分でもよく分からない。
啓秀に会いたいな。
明日もきっと来てくれる。
遠くで、狼の遠吠えが聞こえた。
続
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