第10話
村は少し高台にあり、背後に絶壁を有する。
ぐるりと村を囲み、威圧感を放つ石積みの壁は狼を寄せ付けぬためのものだ。上の方に竹槍のかえしがついていて、強靭な脚でも登れない様工夫がされている。
無論、他所から来る人間も寄せ付けない。流れ者に病を持ち込ませる事は、絶対に避けなければならない。
門戸を潜り物見櫓の見張りに声を掛けた。畑から皆戻れば、内から閂をかけて門を閉じる。夜には万が一にも狼が入らぬ様に、交代で寝ずの番が見張る。優希が来た日は俺が見張りで、明け方明るくなった河原に彼は忽然と現れた。
それが俺たちの始まりだ。
「閉めても良いか!」
「へぇ、宮司さまで最後です!」
胸に入れた札が、優希の存在を強く思い出させる。
村に一歩入ると、嗅ぎなれた紅花の香りがした。とは言え、半分ほどは夏前に刈ってしまうから、今あるのは種と油を取るのに残してある分だけだ。畑は外だが、紅花だけは軒先や家の近く。兎に角目につく所に植わっている。
弔いの分だけ、花は咲き誇る。
夕日に照らされ色を濃くしている花の横を通り、一番近くの家の前で足を停めた。
ここは六つの子と七つの子が住んでいる。戸を叩くと、壮年の夫が迎えてくれた。嫁は四十過ぎ、大禍を生き延び子を産んでくれた貴重な
「こりゃ宮司さん、珍しいですね、どうされました?」
目の上を紅く塗りつぶした夫が迎え入れてくれた。自分と同じく、病に罹患して生き延びた証である。
百姓の夜は早い。もう夕餉を済ませて、日が落ちる頃には眠ってしまう。まだ空は赤いが、尋ねるには少し遅い。
「遅くに済まない、ちょっと子供等と話をさせて貰えないだろうか」
「はあ……かまいませんが、どうぞ上がってください」
村長程では無いが、神職の権力は強い。余程断る理由が無ければ家に上げてくれる。
女房が「まぁ!」と声を上げ、軽く会釈をした。目は塗っていない。幸い、病にかからなかったのである。稀流人神にする話もあったが、夫が居るのと、いざと言う時病に耐えられないやもしれぬので保留となった。
子はこれ以上望めないし、村の貴重な人足だ、無駄死にはさせられない。
……じゃあ、優希なら良いのか?
胸の内は何時でも自問自答をしている。
「お湯をお持ちしますんで」
「構わなくて良い、ちょっと子供と遊びたいのだ」
はあ、と首をかしげられる。それはそうだろう。妙な時間に子供と遊びたがる神職は奇異に見えるに違いない。
「たろ、おそよ、宮司さんが呼んどるよ」
「なーにー?」
板の間に上がると、ぱたぱたと小さな足音を響かせて、太郎とおそよは俺の前にぺたんと座った。
「ぐーじさん!」
「あそぶの? おそよと?」
くるくると表情の変わる子供等は愛らしい。
まだまだ小さいが、もう少し大きくなったら野良仕事の手伝いもするだろう。そうなると、遊びと評して学ぶ時間も中々取れなくなる。
「玩具を持ってきた、……『かみさまのかるた』だ、稀流人神様が作ってくれたんだ」
「かみさまー!」
「かわのかみさま!」
両親も興味深く様子を見守っている。
「俺が札を読むから、絵を探して、「はい」って言って取るんだ……簡単だから、試しにやってみようか」
驚いたのは、子供等に混じって両親も遊び始めた事だ。
両親も字が読めない。しかし、読み札が分からなくても絵札をめくると字が書いてあるから、「これは『いぬ』だ」「これは『あめ』だ」と言いながら、興味深く楽しく触っていた。
俺は無くさないのを約束して、その家にかるたをしばらく置いてみる事にした。
そして翌日、優希の所に行く前にその家に寄ると、親はもう畑に出ていたが、村の小さな子供達が集まって、きゃあきゃあ言いながらかるたで遊んでいる。
読み札が読める訳では無いのだろうが、太郎とおそよが得意げに「いぬ! あめ!」と言って、子供達が「あめどれー?」なんて言いながら遊んでいる。少ない枚数だから、覚えるのも難しくないのかも知れない。
しばらく見ていると、今度は絵札を裏返して、読み札から同じものを探して重ねて遊び始めた。
太郎がそれを一組手に持ってとことこと外に出て行く。何をするのかと思ったら、枝を拾って、地面に見様見真似で字を描き始めた。
しかし、「あ」が難しいらしい。
「ぐうじさまーかけなぁい」
「よしよし、一緒に書こうな」
小さな手と一緒に枝を握り、地面に大きく「あめ」と書く。太郎の顔がぱっと明るくなった。
「かけたー!」
そうして、下手くそな字で「あめ」と沢山地面に書く。そんな事をしていたら、八人居た子供がみんな出てきて、各々が地面に字らしきものを書き始めた。
「いぬ!」
めちゃくちゃな「ぬ」を笑って、手を添えて一緒に書いてやる。
「汚したり、無くしたりしないでくれよ。稀流人神様の御下げ物だからな」
「はーい!」
これは、思ったよりずっと子供に馴染むかも知れない。字も案外早く書けてしまうのでは無いだろうか。
そうしたら、子供等の将来に役立つかもしれないし、昨日の様子だと親にも良い影響があるやもしれん。
そして、優希の功績として村長に示せる。
そうしたら、時間はかかっても、いつか村に迎え入れる事が叶うかも知れない。
かるた作りは楽しい。
俺は啓秀のチェックが入ったリストを見ながら、簡単なイラストを筆で描いていく。読み札は啓秀が先に作ってくれたので、後は絵札を描いて、厚紙に貼っていくだけ。「ゐ」「ゑ」あたりは使い方が全然わからなくて、啓秀は「
『酒』『
菖蒲と鋤が全然分からないと言ったら、翌日に実物を持ってきてくれた。やはり一人じゃ出来なかっただろう。
ちなみに一番悩んだ行は『らりるれろ』……考えれば考える程、思いつくのは外来語なのだ。
結果は、『
「さあ、どんどん描かないと!」
紙も足りるくらいにできたから、後はとにかく描くばかりだ。
出来たものから啓秀が村に持って帰る。
子供達に好評で、見様見真似で字を書いている子も居るらしい。実際遊んでいるのを見る事が出来ないのは残念だが、それでもやり甲斐があるというものだ。
全部描き終わってしまったら、今度は何をしよう……分からない、でも、今は出来ることをするだけだ。顔も知らない子供達のため、それを大切にしている啓秀のため、それから、どうしょうもなく不自由で、今にも失ってしまいそうな自分自身の心のために。
いつも通りの時間、微かな足音の後に、閂を抜く足音が聞こえる。
「おかえりなさい、啓秀!」
あ、間違えた。
ちょっと恥ずかしくなって俯く。啓秀の住まいは村の中だ、ここは仕事をしに来ているだけ。
いらっしゃい、と言い直す前に、透き通るような声が響いた。
「ただいま戻った」
見上げた彼は優しい目をしてきた。
俺は嬉しくなって、土間から上がった長身にそっと擦り寄ってみる。緩やかに頭を撫でられて、ぎゅっと抱きしめてくれた。
温かくて安心する。腕を回した背中は硬くて広い。
本当はこういう接触も良くないんだろう。もちろんこれ以上の事はしない。やがて何事も無かった様に離れて、お昼ご飯の支度をして、出来上がったカルタを見せて、一通り褒められて鼻を高くして。
そうして、夕方になる前に、啓秀はまた閂をかける。
その繰り返し。
俺はまた筆をとる。
早くカルタを完成させなければならない。
「子供等に字を教えているそうだな」
夕餉を終えて膳を片付けていると、義父が珍しく声を出した。普段は殆どお役目の事しか話さない、極めて無口な人である。どうやら村の誰かから聞いたらしい。
「教えるというか、稀流人神様が手慰みに作ってくださった玩具を子供にお下げしてくださったのです……絵合わせの様なもので、字が書いてありますから、自然に覚えたのだと。俺は最初少し読んでやっているだけです……まだ全ては揃っていない様ですが……」
「成程……」
じっと沈黙が続く。
親が死んで、引き取って貰ってからずっと一緒に暮らして居るが、どうにも何を考えているのか分からない人だ。じっと引き結ばれた口が、薄く開いた。
「……子供等には良く励めと。あと、稀流人神様にも良うくお礼を……だが、あまり入れ込むな。あれはあくまで御祭神、人で無きもの、器を得た常世の住人だ」
養父の言葉は重い。止められはしていないが、鋭い棘も篭っている。
「良うく良うく、肝に命じておくように。あれは稀流人神、社にいる間は、決して人の子では無い」
乾いた喉で、俺は絞り出すように言った。
「承知、致しました……」
何も、してやれないのだろうか。
あの子の優しさや、純粋な好意まで、俺達は搾取しているのだろうか。
俺は白の単衣を脱いで畳み、井戸に鶴瓶を落とし、霊水を汲み上げる。稀流人神の社も神域であるが、河におらせる水神を祀るこの神社とて神域である。一息に頭から被ると、刺すように冷たい水が穢れを払い、流してゆくのが分かる。それでも、胸の内に燻る許されない想いまでは流してくれない。
二度三度と繰り返す。体の芯まで冷え切るようだ。頭が冴え、雑念が砂のように滑り落ちてゆく。
一つ残った心の声を聴く。
優希に何か、僅かでも良い、出来ることをしてやりたい。与えられた役目ではなく、俺の心で。
俺は木綿で身体を拭き上げ、着ていた単衣ではなく、白衣に袴をきっちりと身につけた。
これより先は神の一雫を借りて、一心に想いを込めなければならない。
鶴瓶に水を汲み、升に掬って自室へと歩いた。夜の廊下に明かりなど無く、満月を頼りに足元を確かめる。
日取りは確かだ。
硯箱は文机に用意してある。筆は新しい物を下ろす。
「かしこみかしこみ、申し上げます、…………」
古墨の漆黒が濡れて、行灯に照らされ綺羅めく。
描くは、「けいしゅう」が書かれた二枚のかるた。
ゆっくりと祝詞を唱える。養父に聴こえるかもしれないが、神と語らう最中に入って来れば触りがある。それこそ邪魔はされまい。
かるたを裏返し、祝詞を唱えながら護符を描く。
二つで一つになる様に。
優希の護りとなる様に。
最後に指を濡らすと、蓋物から紅を取り、護符の境目を跨いで、小さく丸を描いた。
どうか二人、離れ離れにならない様に。
あれから行商は一度来たが、旅人は来ていない。
勘定をしてもらいながら、「売り物が無いのにお金が払えるのが不思議」と聞いてみると、夏の入りには紅花塊……口紅の元らしい、と、秋には紅花の油を卸されるらしい。
啓秀も目の上を塗っている。村の名産という感じか。
何せ、啓秀以外でほとんど唯一、情報を得られる人だ。
「あまり旅人が来ない」というのも聞いてみた。
行商のおじさんによれば、暫く閉じていたお社だったから、前の宿場でも「あそこは泊まれない」と言う話になっているらしい。自分も開いていると話をしたから何れ広まるとは思うが、そもそも場所が中途半端だから、隣村まで歩き通してしまう者も多いだろうという事だった。
だったら、極たまに来る旅人をもてなして、後は商人の勘定をして、ゆっくりと過ごしていれば良いという事だろうか。
「意外と平気なのかもな……」
名残惜しく筆をとる。
隣に置いた読み札は、啓秀の美しい筆跡が踊っている。
もうすぐ終わってしまう。自己満足だったかも知れないが、二人で力を合わせてやる作業は楽しかった。なんだかとても、終わるのが寂しい。
足音。いつもの時間。閂を抜く音。いつも通りの毎日。
「おかえり、啓秀」
「……ああ、ただいま戻った、優希」
「もう終わるよ、今日でおしまいだ」
いつも通りのご飯を一緒に食べて、二人で、進む筆を見つめていた。俺が絵を描いて、墨が乾いたのを見計らって、啓秀が糊を刷毛で塗り、厚紙にぺたりと貼る。そして、裏に小さく字を書いた。
「できたね」
「ああ……終わったな。養父が、稀流人神様に良うくお礼をと……」
肩と肩がこつんとぶつかって、俺達はそのまま、少し目線を合わせた。薄い唇が目に入る。キスがしたいなと思ったけど、そういうのもダメなんだろうか。
「口を、……」
そんな事を考えていたら、啓秀の方が「口」と声に出す。吐息混じりの、静かで掠れた声だ。
「……吸っても良いか……」
「……?」
そっか、昔って口付けじゃなくて口吸いって言うんだっけ?
何となく答えるのが恥ずかしくて、返事の代わりに、薄い唇にそっとキスをした。鋭利で冷たそうなのに、触れるとほんのりと温かく感じた。自分から言い出したくせに、なぜかギクッと肩を跳ねさせた。
そして次の瞬間、畳に押し倒されていた。
唇をゆるりと舌が辿る。あ、と声を上げようとして、舌が唇に差し込まれた。
「ん……ッ……!……」
ゆるりと舌先を撫でたかと思うと、性急に奥まで差し込まれ、上顎をざらりとなぞる。脳天を犯される様な心地がして怖い。反射的に腰が跳ねるのさえ押さえ付けて、深く深く、舌を絡められる。
「まっ……くるし、……っ……!」
何とか言うと、その隙を突いてきつく舌を吸われた。痺れるくらいに強くてくらくらする。硬いものが脚に当たり、重たい存在感を示している。
でも、キスだけだ。
長い口付けは、銀糸を引いて離れていった。
俺は真っ赤であろう顔を隠したくて、唾液に濡れた口をそっと拭う。
恐る恐る見上げると、欲情を含んだ目に見下ろされていて、なんとも居た堪れない気持ちになる。瞼の紅もいっそう濃く紅くなっている様な気がする。
「……すまない、無理をさせた……」
「……大丈夫」
お互い分かっているのだ、これ以上先に行ってしまったらいけない。
それに、役目を跨いで触れられたら、いざ旅人を相手にした時に、心が壊れてしまいそうなのだ。
好きな人は最初だけにしといた方がいい。
そうやって割り切れないと、この先きっと、ここで生きていけない。
啓秀は目を逸らして、俺と同じ様に口元を拭った。赤くなった目元が綺麗だったが、触れてはいけないと自分に言い聞かせる。
じっと見ていると、懐から何かを取り出した。
二枚の、かるた。
「あ、『け』……作るの、忘れてた……ね……」
「……これを、持っていてくれ」
一枚だけ渡される。絵札の方だ。着物に袴を履いた髪の短い男が簡単に描いてある札。裏返すと、小さく書いた「けいしゅう」の文字と共に、文様とも絵ともつかない、不思議な図案が描いてあった。上の真ん中に、赤い半円も小さく描いてある。
「……護符にしてある。持っていてくれるだけで良い、俺も持っている」
見ると、啓秀の持っている読み札の裏にも、同じ様な図案が描いてある……が、少し違う。半円の赤丸は下にあった。
「あ、もしかして繋がるように描いてある……?」
試しに縦に並べて合わせてみると、線がぴたりと繋がり、半円は丸になった。
「そうだ」
「お揃いって事?」
あれだろうか、お揃いで指輪するとか、そういうのだろうか……深いキスの名残もあって、なんだか気恥しい。自分の札をきゅっと握る。
啓秀がゆったりと俺の頭を撫でた。少しかき上げて、僅かに差す光に金髪を透かす。
「綺麗だな」
「……ありがとう」
口元は笑っていたがほんの少し目が潤んでいた。それを気が付かないフリをして、俺はかるたを握りしめる。
「……二つで一つのものだ、……心が離れないように、持っていてくれ」
少し震えた声のそれは、悲痛な告白だった。
俺は鼻の奥がツンとするのを堪えて頷く。
身体は離れても心は繋がっている。そう言ってくれただけで嬉しい。
「わかった。持ってる。ずっと、持ってるから」
続
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます