最終話

 それから半日程して、ずっと会いたかった人が病室に飛び込んできた。

「母さんっ……!」

 慌てて起きようとして、目眩でくらりとする。行かなきゃ、と思った所で、温かい腕が俺を力強く抱きしめた。

「優希、バカ、もう、死ぬ程心配したんだから……!」

 ぎゅうっと力が込められる。鼻の奥がツンとして、気が付いたら俺はボロボロ泣いていた。

 啓秀と二人で死んでもいいと思ったのに、帰ってみれぱ、俺の居場所はやっぱりここだった。

 佐伯は佐伯で真っ赤な目で、母さんにごめんなさいごめんなさいと頭を下げている。突き落とされた訳じゃないってのは、先生にも佐伯にもちゃんと言ってあるはずなんだけど。

 とりあえず、俺は母が居るのが、また会えたのが嬉しくて、人目も憚らずわあわあ泣いた。俺の中では一ヶ月くらい会えなかったし、生涯もう二度と会えないと思っていたのだ。酷く恋しくて、ずっと縋り付いて泣いていた。

 そのまま暫く子供みたいに泣いていたのだが、ふと病室の扉が開いて、誰か入ってきたのがわかる。病院の人だろうか、母の胸に顔を埋めているのでよく分からない。

 涙で滲んだ視界に映る佐伯の肩に、男の人がぽんと手を置く。

「……父さん……」

「鳥海さん、この度は大変申し訳ございませんでした……」

 佐伯のお父さんだ。俺はびしょびしょになった母の胸から顔を上げて、目を擦る。まだ少ししゃくりあげているが、何とか落ち着いて、話し始めた。

「佐伯さん、ごめんなさい、ッ、ヒロアキくんは、何もしてないんです、俺が勝手に落ちたんです」

 母さんも一緒に続ける。

「本当にバカな子で……ヒロアキくんもとても怖かったでしょう? ごめんなさい、大変なご迷惑をおかけして……修学旅行を台無しにしてしまいました、本当にすみません」

「いえ、うちの子がイタズラに誘って道を逸れたと本人から聞いています。一体何とお詫びをしたら良いか……」

「本当にごめんなさい、俺のせいで優希くんに大怪我をさせてしまいました……!」

 佐伯と大人が全力で謝り合う状況に、俺は戸惑った。そもそも俺は佐伯に落とされていないし、かと言って佐伯と全く無関係な話でも無い。

「せめて治療費はこちらで全額負担させて下さい……!」

「いえ、もう目が覚めましたし、学校の保険から下りますからこちらも負担がある訳では無いので……」

「ならば交通費と、せめてお気持ちだけでも……!」

 ど、どうしよう……

 何とか空気を変えたくて、俺はおずおずと声を出した。

「あの……修学旅行はどうなったんですか?」

 ハッとした様に佐伯のお父さんが振り返り、一度ゆっくり息を整えてから、俺に目線を合わせて話してくれる。

「鳥海くんとヒロアキが途中離脱したけれど、皆は予定通りのルートで回っている筈だよ。先生が君が目覚めたのも連絡してくださったそうだから、心配は要らない」

「ヒロアキくんの誤解もちゃんと解いてくださったかしら……優希、あんたちゃんと友達に『自分で落ちた』って言うのよ?」

「本当に申し訳無い、大変痛み入ります」

 そうだ、俺は大丈夫だけど、佐伯がクラスメイトに誤解される様な事があったら良くない。何せ来年受験だし、ちゃんと綺麗に学校生活に戻れる様にしないといけない。

 ……あと、もうひとつ気掛かりな事があった。

「……母さん、俺すぐに退院出来る?」

 母は看護師だ。お医者さんとはまだ話していないが、先生から連絡は行っているし、状況は大体把握している筈である。

「CTは異常ないし脳震盪と打撲だから、目が覚めてものすごい頭痛がするとかじゃなけば、ちょっと様子見て退院自体はすぐ出来ると思うよ。……でも今日は病院にお泊まりじゃないかな」

「佐伯と二人で修学旅行の続きしたいんだけど、無理かなあ」

 佐伯が息を飲み、お父さんが少しほっとしたのが見えた。やはり何もしないと言うのは心情として苦しいのだろう。

「では、明日退院出来たら車で優希くんの行きたい所を回るというのはいかがでしょうか。レンタカーは私が手配しますし、鳥海さんの宿もこちらで用意させていただきます。せめてこのくらいの事はさせて下さい」

「いえ、私は一応病院のロビーで控えていようと思っているので、お宿は必要ありません……でも、ヒロアキくんが一緒に過ごして下さるならとてもありがたいです。この子も心残りになってしまいますし……」

 母もほっとしたようだ。良い落とし所なんじゃないだろうか。目が覚めた後は佐伯と一緒に遊んでいたと言えば、クラスメイトから佐伯が悪く思われる事も無いだろう。

「佐伯、明日俺と修学旅行してくれる?」

 聞いてみると、佐伯は眉をぎゅっと寄せて、涙を耐えている様だ。

 ……佐伯はどこまで佐伯で、何処まで啓秀なんだろう。

「本当に良いの……? ありがとう……」

 小さな声で、苦しそうに返事をする。啓秀が、「ここから出るぞ」と言った時の声に似ている様な気がした。


 その後は母と佐伯のお父さんで先生に報告し、お医者さんにも相談の上で、明日朝の退院後はレンタカーで観光をすることになった。

 佐伯のお父さんと佐伯、母さん、俺の四人だ。

 大人達はちょっと気まずいかも知れないが、そこは申し訳ない。

 でも、どうしても佐伯と行きたい所があるのだ。

 佐伯達は近くのホテルで一泊すると言って病室を出ていった。名残惜しく振り返る切れ長の目に、軽く手を振る。

「明日ね?」

「……うん」

 

 行きたかったのは、あのナイトウォークラリーをした河だった。

 一昨日来た時は夕方で薄暗かったが、午前中のそこは爽やかな空気の明るい河だった。

 地元の人が柴犬を散歩させているのが見える。狼はあの何倍も大きかったのを思い出して、ちょっとゾワッとした。

 佐伯と一緒に、看板の文字を辿る。

稀流人神社跡まれひとがみやしろあと

 一ヶ月くらい過ごした場所のはずなのに、外に出なかったせいか全然ピンと来ない。

「地形とか、昔と結構変わってるの?」

 聞いてみると、佐伯はキョロキョロと周囲を伺った。

 二人で話したいからと言って、母さん達は少し離れた所に居てもらっている。姿は見えていると思うが、声は聞こえないだろう。

 佐伯は眉をしかめ、遠くに見える擁壁を指さした。

「あの辺に村があった。……見ろ、紅花が沢山残ってる」

 擁壁の真下の辺り、遠くに鮮やかなオレンジ色の花が沢山咲いているのが見える。この辺りにも種が飛んでいるのか、ぽつりぽつりと咲いている。真っ直ぐな茎のてっぺんに、ポンと丸い、オレンジ色の花がついてるやつだ。

「紅花ってオレンジ色なんだね。化粧が赤だったから赤いのかと思ってた」

 佐伯が触れた瞼はもう赤く無い。しかし、さっと指を滑らせる仕草は、化粧をしているのを想像させる。

「花を水に晒して、干したり色々して、最後に赤い色だけを取り出すんだ……化粧紅はほんの少ししか取れない……でも病に耐性がある人間が付ける習わしになってた。かかって生き残ったのが少なかったし、いざと言う時に耐性のある人間が直ぐに分かるように……あとは、死んでいったものを忘れない意味もあった」

「そっか……凄く大切なものだったんだ」

 貴重な化粧紅は高く売れると行商は言っていた。それでも全てを手放さず自分達で使ったのは、流行病の抗体持ちかを判別するのと、日々の生活の中で弔いをする意味もあったのか。

「後ろ……今は整備されてるけど切り立った崖で、あれを背中にして狼避けで囲ってた。向こうの奥には畑があって……」

「ここまで歩くと二十分くらい?」

「足場がもっと悪かったから、もうちょっとかかったな……」

「そうなんだ……」

 聞きながら、俺は佐伯の顔ばっかりじろじろ見てしまう。

 鋭利で精悍な啓秀の顔とも違うし、一昨日までの、男前だがイタズラっぽい表情だった佐伯とも違う。何とも言えない、重苦しい影のある顔だ。

 二百年前の事を語る口調に、迷いや戸惑いはは無い。

 今は一体なんだろう。

「ねえ、俺が落ちたとこに行ってみよう?」

「えっ……」

「一緒に見たいものがあるんだ、危ない事はしないから」

 俺は母さんの所に戻り、ナイトウォークラリーの時に腕時計を落としたと嘘をついた。母さんが中学に入る時に買ってくれたやつだ。

 案の定取りに行くのは危ないと言われたので、「崖には近寄らない事」を条件に連れて行ってもらう事にした。ちなみに腕時計はちゃんとポケットの中にある。


 俺と佐伯は、道から逸れた林の中をゆっくり歩く。

 母さんと佐伯の父さんが俺たちの事を心配そうに見ながら、すぐ側の歩道を歩いてくれている。

「お社からそんなに離れたとこじゃ無かったよね? 道も直ぐ途切れちゃった感じするし」

「この道は元々他所と繋がってなかったんだ、俺らが居なくなった後に河を越えられる様にちゃんと整備したんだろうな」

 なるほど、明るい時に見ると、遠くに大きな橋が見える。多分あれを渡った先に本来の宿泊先があったのだろう。

 佐伯が歩みを止めた。

 一昨日、啓秀と歩いた場所。この辺まで来たらもう道なんて無かったから、大体同じ場所なんだろう。木漏れ日が照らす顔は暗い目をしている。

「この辺で死んだと思う」

 そうか、俺にとっては「戻って来れた場所」だけど、啓秀にとっては「死んだ場所」か。

「ごめんな」

 裾を少し引っ張って謝ると、悲しそうに微笑んで、そっと頭を撫でられた。親から見たら仲の良い友達に見えるだろうか。

 記憶の中では、彼は俺と深い所で繋がっていたのだ。身体も心も。今の佐伯はどう思っているんだろう。

 俺は手を離してキョロキョロと辺りを見回す。 

「……あった」

 それは木のうろだ。

 ほんの数メートル先は崖で、母さんの「あんまり奥行かないで!」という声に手を振って応える。

 中に、札が入っている。

 慎重に取り出すと、それは年月で字も絵も滲みボロボロになってはいたが、確かに「けいしゅう」の絵札だった。

 二人で向き合い、そっと持つ。紙は殆ど剥がれそうだが、筆で書いた着物に袴の短髪の男の絵と、裏側の不思議な図形は輪郭を残していた。何とか雨風を凌げたのだろう、半円の赤もすっかり色褪せていたが、染みのように僅かな輪郭がある。

 多分これが、俺を引き寄せたもの。啓秀が与えてくれた切実な愛の証。

 耳に、静かで切ない声が蘇った。

『心が離れないように、持っていてくれ』

「……啓秀、これ、どうしたい?」

 そう呼んで、佐伯はぐっと涙を拭った。きつく擦った目元が真っ赤になっていた。

 ああ、瞼を赤く塗った啓秀みたい。

「……もう一枚と、一緒にしてやりたい」

 力強い、決意を込めた、今まで聞いたことが無い声だった。

 そうか、佐伯か啓秀か、どっちとかでは無いんだ。二人の魂が溶けて混ざり合い、新しい一人の人間として、目の前に立っているんだ。

「良いよ」

 俺はカルタを離す。俺の一言で、佐伯は手元に残ったカルタを躊躇無く崖に向かって投げた。

 軽くて投げても飛ばなそうな代物なのに、それは水切りで投げた石みたいにヒュンと飛んで、吸い込まれるみたいに崖下に落ちていった。

 ずっと一緒に居られるように願いがかけられたお守り。それが全て水に溶けた時、俺達はそれでも一緒に居られるだろうか。 

「……帰ろう、優希」

 そう言って、晴れやかに笑った佐伯の目はまだ赤い。

 きっと大丈夫だ。

 俺は笑顔を返して頷くと、親から死角になる木の影で、一瞬だけ頬にキスをした。

 びっくりしている顔を笑って、母さんに向かい、「あったー!」と呼びかける。

 見付けたのは、優しい記憶と、大好きな人だ。 

  

 そして、悲しい思い出はここに置いていこう。これでいいのだ。何せ、二百年も前のことだ。 

 これから色んな事を二人でして、そうしてもっと、彼の事を好きになるんだ。

 二百年も前から約束していた。

 未来を二人で生きていこう。決して離れない様に。

 

 

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