第12話
村に松明の明かりが見える。脱走はとうに発覚している。むしろ竹の檻を無理矢理へし折ってもバレなかったのだから大したものだ。
俺の傷だらけの手を取って、彼は不安げに着いてきた。行く宛などなく、食糧も何も無い死の道だ。しかし彼も分かっているのか、文句も言わずに着いてくる。
遠吠えが聞こえた。村人は夜は追えないはずだ。
遠くの山に、獣の目が光るのが見えた気がした。
「ねえ」
息を切らして振り返る。社の外に出た彼は、もう神様でもなんでも無い少年だ。余程恐ろしいだろうに、気丈に俺の手を引いた。
「河上の方に行こうよ」
「なぜ?」
「……怖いから。それに、俺あっちに行きたい」
そう言って上流を指差す。
笑った顔は落ち着いていて、むしろこの星明かりを背にした彼は、金の髪も相まって、本当の神様の様に見えた。
俺は川上の方へ、走るのを辞めてゆっくりと歩き出す。
手を繋いでいると、お互いの体温が交わって、まるでひとつになるような気がした。
無力感が、肺を焼きながら吐息になる。
もう、何にしても死を免れない。そういう道を選んでしまったのだ。最後に、二人だけの時間が欲しかった。
彼を殺す事も、生かすことも出来ない俺の、懺悔を聞いて欲しかった。
「……優希を、追い出すか、売るか、殺すか選べって言われたんだ」
自分より余程幼い少年は、少しの間だけ俯いて、しかし落ち着いた声の調子で応える。
「……新しい人が見つかったんだ?」
「ああ、隣の村の娘を貰うから、俺は娘と交換で、そっちに行けって事らしい……もう、馬鹿馬鹿しくなって逃げてきた」
星々が瞬いている。木々に囲まれた道は徐々に険しく、細くなってゆく。
「誰かを嬲りものしないと残らん様な村なんて、無くなってしまえば良いんだ……どんなに大人が正しいって言っても、俺はそんなのは嫌だ」
この細道は山菜採りなんかに行くのに踏み固められたものだ。河の上流に人里など無く、山を越えるには暗すぎる。
最早道も殆ど途切れ、獣道に足を突っ込んでいる。河も崖の遥か下に流れ、星の映らぬ急流の黒さは、まるで闇そのものが沈む様な禍々しさだ。
「そっか、俺もだけど、啓秀も売られちゃうとこだったんだ」
交換と言うとほんの少し聞こえは良いが、要はそういう事だ。
悲しかった。父も母も友も皆死んで、育ての親も俺を売ると言う。そうしてこの哀れな少年も、売るか殺すかお前が選べとのたまう。
俺は全部を否定して、この子を道連れにして、この世から逃げおおせようとしている。
「もっとこっち来て」
言われて少し寄ると、優希は俺を抱きしめた。思い切り力を込めて。まるで有りし日の父と母のように。
「すまない」
「啓秀も大変だったんだ、俺、最初きつく当たってごめんな」
「すまない」
久しく出なかった涙が溢れ、熱い水が、優希の頬をも濡らした。自分が見つけて、村の掟に縛り付け、身体を穢し、最後は道連れにしてしまった。
「……すまない……ッ……」
優希はよしよしと、赤子にする様に背を撫でる。
このまま時が経って、夜が明けて朝が来て、そうして二人で明るい道を歩いて行けたら良いと、心から思った。
でも、無理なのだ。わかってるんだ。
俺は傷だらけで、血の匂いは確実に、夜を支配する獣を導いている。
……アオーン……
オオカミの声は近い。きっともう直ぐ来てしまう。俺は現代に残した母さんの顔を思い出して、ごめんなさいと胸の中で呟いた。
お守りとして持っていた啓秀のかるたを懐からだして、ぎゅっと握った。何があっても二人離れず、一緒に居れたらいいなと思う。
眼下には真っ暗な崖、その下には殆ど見えないが、黒い河がごうごうと流れている。
啓秀だって分かっているだろう。食い殺されずに済むのは上流しかない。下流に飛び込めるような崖は無さそうだった。
本当は、自分で自分の命を絶つなんて絶対いけない事だ。でも、啓秀と一緒に生きたまま動物に食べられるのは、流石に怖いんだ。
「啓秀、俺の事見つけてくれてありがとう」
「うん……」
回された腕に力が籠る。きっともうすぐ最後だ。
「怖い事もいっぱいあったけど、啓秀がずっと俺の事気にしてくれてて、心強かった」
グズ、と鼻を啜る音がする。不謹慎だが可愛いなと思った。啓秀も、懐からかるたを取り出す。これがあれば、心はずっと一緒だ。死んでからも一緒に居られるだろうか。
目を凝らす。道無き道は真っ暗で、俺は殆ど足元も見えない。しかし啓秀は俺よりも夜目が効くらしく、涙を拭う傍ら、手を引かれてここまで歩いてきた。
しかしなんだろう。
道は無いし殆ど何も見えないのに、何故か既視感のようなものがある。
――分かった、水の音だ。
崖に反響する、ごうごうという水の音。視界が殆ど無い中で、その音に懐かしさを感じた。
足を止める。
ここで良いだろう。道らしい道はもう無いし、きっともう進めない。
真っ暗闇のほんの少し向こうで、ガサガサと獣の気配がした。
俺は啓秀と一緒に、崖から身を投げるんだと思っていた。
だってそうだろう。そうしたら、水に沈むその時まで、一緒に居られるんだ。
「俺は啓秀の真面目で不器用で、静かだけど優しいとこが、本当に大好きだったよ」
啓秀は俺に口付けて、俺はその必死さと愛おしさを享受して抱き合った。啓秀の涙がしょっぱくて、そうして。
山がざわめく。獣の足跡は気がつけば最早数えられないくらい。闇の中から一頭、茶色の大きな獣が飛び出した。
木々の合間から差す星明かりが、そこだけを残酷な程に真っ直ぐ照らしている。いや、命の危機を脳が覚えて、自分の感覚が鋭くなっているのかも知れない。
ニホンオオカミだ。
柴犬に似ているが、大きさは優に五倍はあるか。少し距離があるのに、研ぎ澄まされた筋肉が躍動するのが分かる。そして、歯をむき出しにして、一歩踏み出す。
次の瞬間、全身の筋肉を使い、俺達の命を狩るべく飛びかかった。
一緒に死のう。
そう思ったのに。
「え……?」
トンっと軽い拍子で、啓秀は俺だけを崖に突き飛ばした。見上げるその腕に狼が食いつくのが見え、視界から消えた。
どうして。
どうして、一人だけで行ってしまうの。
河に落ちたと思ったのに、視界は気が付けば真っ暗になっていた。
続
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