第3話

 山間の日没は早い。

 夕闇が近付いてくる。

 目覚めた俺はもそもそと服を着て、酷い気分で赤く染まり始めた空を見ていた。

 空と言ってもそれは通風口らしい小さな小窓で、ご丁寧に格子まで付いている。脱出できるような代物では無い。閉じ込められているのだ。

 朝目覚めてから、ずっと変な事が起こっている。

 河で目覚めて、身体は濡れてなくて、化粧をした変な男が迎えに来て、閉じ込められて、セクハラされて。一体俺に何が起きているんだろう。

 それに、今の季節は夏のはずだが、こんなに締め切られた空間なのに、一日中妙に快適というか、気温が上がらなかった。

 昨日の照りつけるような暑さから考えると、絶対におかしい。

 やっぱり自分は崖から落ちて死んで、ここは死後の世界なんだろうか。

 しかしそれにしては感覚がリアルというか、死んだと言うにはあまりに身体が普通だ。

 そして、啓秀と名乗った男は掴み所が無いものの、死人という感じはしない。

「あれは三途の川なのかな……」

 聞きかじった単語だが、死んだら人は川を渡って、あの世に行く様な話を聞いた気がする。

 しかし迎えも無いし、橋もなく、船も無い。

「父さんが迎えに来てくれたら良いのに」

 一昨年亡くなった父は、ここに来たのだろうか。

 家には母が待っている筈だ。父が亡くなっても気丈に振舞っていた母は、自分が死んだと聞いたら、どうなってしまうのだろう。

「家に帰りたい……」

 どうしようもなく寂しくて、母の顔が見たくて、それなのに腹は減る。

 なんだかおかしいのだ。この身体は生きてるみたいに重い。いや、生きようとして内蔵が動いている。

「やっぱり俺死んでないんじゃないのか……?」

 だって、さっきだって触られて勃起してついでに射精までした。閉じ込められてはいるが、身体は持て余す程に元気なのだ。

 段々腹が立ってきた。一体どうしてこんな目に遭ってるんだ?

 怒りが込み上げる。土間に裸足で飛び降りて、力任せに扉をガタガタ引くがやはり開かない。

 ならばと足を振りかぶる。こんなボロ小屋ぶっ壊してでも外に出てやる。

 母の待つ家に帰るのだ。俺は生きている。

 ガンッ

 扉に蹴りを入れる。直後、カラカラカラカラッとどこか別の壁で大きな音がした。

 ぎくりとして部屋を見回す。

 中から見て異常は無い。崩れたと言うよりは小さな木の板がぶつかり合う様な音だ。

 音は止んだが、なんだか気持ち悪い。

 怒りがしゅんとしぼんで、心細さばかりが残った。仕方なくまた布団に潜り込み、啓秀が来るのを待った。


 十数分経っただろうか、夕闇の中、明かりはどうするのかと考えていた所で、ガタンと閂が抜かれる音がした。

 戸が開くと、息を切らした啓秀が、また大きな籠を持って入ってきた。

 走ってきたのか、足袋が土に汚れている。

 もそもそと布団から出てみる。

「何をしているんですか!」

 開口一番激しく怒鳴られた。理不尽極まりない。何でこんな目に遭ってるんだ。

「何って……別に何もしてないだろ、何怒ってんだよ」

「鳴子が鳴っていました! 社の中では大人しくしてください!」

 どうやら暴れると音でバレるらしい。

 しかし俺はここに居たくている訳では無いし、何より母の待つ家に帰らなければならない。舌打ちを一つして、どかっと胡座をかく。

「あんた、座れよ」

 啓秀は空気が変わったのを感じ取ったのか、朱入りの目をキリキリと細めて、足袋を脱ぎ、土間から上がって俺の前に正座をした。

「俺はここから出て家に帰る。もう世話はしなくていいからとっととここから出せ!」

 力任せにそう言うと、切れ長の黒い瞳が更に怒りを孕む。

「なりません! あなたは、……稀流人神様はここに居てくださらないとならないのです!」

「俺は稀流人神なんかじゃない! 鳥海優希! ただの高校生だ! テキトーなことばっか言ってんじゃねえよクソが!」

 怒鳴り合って確信した。こいつも別に俺を神様だなんて思っちゃ居ない。

 俺はたぶん、ここに居ると都合が良い「何か」なのだ。

 本当の名前で呼ぶと都合が悪くて、神様みたいに祀り上げて体裁を取り繕っている。そんなとこだろう。

 どうせ本当の事を言わないなら、こいつと話す必要なんて無い。

「退けよ、とにかく俺は出ていくから!」

 畳に手をついて立ち上がろうとする腕を、素早く伸びてきた手が鷲掴む。思いの外強くて、痛みに顔を顰めた。

「なりません……っ! 大体今から何処に行くのですか!? もう夜だ、山を越えるなら狼の餌食になるだけです!」

「狼……?」

 ニホンオオカミはとっくに絶滅してる。

 嫌な予感がする。胃から何かがせり上ってくるみたいな。

「ちょっと待って、嘘だろ、今何年?」

 頭がクラクラしてきた。本当に、長い夢であって欲しい。

「文政七年です」

「何それ……まって、幕府……幕府は今どこにある?」

 記憶の中の符号と一致させなければならない。日本史だって得意だった訳じゃない。それでも何とか、確かめなくては。

「幕府はお江戸にございます」

 江戸時代。

 俺は死んだんじゃない、崖を落ちた拍子に、二百年も転がり落ちてしまったんだ。

「……はあ!? そんなのってあるかよ、俺は平成生まれだぞ! 幕府なんて百年以上前に終わってんだよ!」

 俺は唖然としている啓秀に掴みかかった。誰かに当たらないと、誰かに縋らないと気が狂いそうだった。

「家に母さんが一人で居るんだ、帰んなきゃいけないんだ……! 父さんは一昨年死んじまったんだよ! 母さんが一人になっちゃうんだよ!」

 仕事をして疲れて帰ってくる母に、夕飯を用意してやらないとならないのだ。

 父は透析に通いながら専業主夫をしてくれていたが、一昨年脳梗塞で死んでしまった。棺桶に縋り付いて泣き崩れる母に寄り添い、その後は二人で身を寄せあって、必死に生活した。

 看護師の仕事を終えて疲れて帰ってきた母が、晩御飯を見て笑ってくれる。

 それだけで良いのに、それだけで幸せに暮らしていたのに、なんで俺はこんなとこに居るんだ。

「……鳥海様」

 太い腕が回され、俺は抱きしめられていた。

 混乱して取り乱して、気がつけば苦しいくらいに息をして、ついでに目からは涙が止まらなかった。

 情けない。かっこわるい。でも、どうしていいか分からない。

「……家に帰りたい……俺、どうしたらいいの」

 いたわる様に背中をさすられて、呼吸が少しゆっくりになって、身体の力が抜けてゆく。

「……神隠しの伝承はこの地に古くから伝わっています。消える者も居れば帰ってくる者も中には居ます。……そして、忽然と現れる者も居るのです。最も、いずれにせよ滅多にある事ではありません」

 背の高い身体は父親を思い出させて、俺はいつの間にか膝に横抱きにされて、まるで揺りかごであやされるみたいにその話を聞いていた。

 怒って泣いて、疲れてしまったのか力が入らない。

 されるがままになっているが、先程の怒声とは打って変わって、不器用な優しさが伝わってくる為か不快感は無い。

「……私が調べられる範囲でお調べします……ですから、鳥海様はここに居てください。少なくとも外よりは安全です……」

「……外は危ないの?」

 寂しそうに微笑んだ顔が見下ろして、踏み込んではいけない話だったのかと不安になってしまう。ここへ来てから不安になるばかりだが、この男は一応、手を差し伸べてくれるらしい。

「それも含めて、今日は沢山お話しなくてはならないのです。……まずは食事に致しましょう」


 夕食は大根とふきを薄味で煮たのと、玄米のご飯と漬物だった。正直物足りないが、贅沢を言える環境では無いのかもしれない。

 啓秀は俺が食べ終わるのを待って、ゆっくりと話し始めた。

「まず、外……特に夜は危険です。この辺りは狼が出ますし、野党や食い詰めた追い剥ぎが居ないとも限らない。私も今晩はもう出られないので、ここに泊まります。良いですね?」

 頷くと、啓秀は赤く塗った瞼を少し伏せて、一度丁寧に手を付き、俺に頭を下げた。

「何、急に……?」

「ここにいる間は、不本意でしょうが鳥海様に……」

「優希でいいよ」

 これくらいワガママ言っても良いだろう。今の所世話人は啓秀だけの様だし、堅苦しくて息が詰まる。困った顔をしているが知った事か。

 俺は神様じゃない。ただの高校生だ。

「優希様は……」

「様もやめて。敬語も気持ち悪いからやめて」

 啓秀が額に手を当て、変な汗をかいている。それがなんだか面白い。やっと普通の人間と話をしている気分になってきた。

「ふふっ」

 俺が笑うと、一瞬黒い目を見開いて、困った様に笑った。

「優希、は……優希には、稀流人神様のお役目をやっていただく、……いや、やってもらう……? やってください……? は、違うか……」

 大人の男が本気で困っている。面白い。

「やっぱりアレだね、これは『稀流人神様』っていう役割ってことだね? 具体的に何したらいいの?」

 コホン、と一度咳払いをして、啓秀は話し始めた。

「まずはこの社で生活する事です。今日はお供えをお持ちしましたが、明日にはまとめて食材をお持ちします……失礼ですが、台所は使えますか?」

「カマドとかの使い方は教えて貰わなきゃだけど、料理は一応できるよ……言い方堅いな?」

 社の奥は台所で、薪をくべて使う様な竈門かまどがある。鉄鍋や箸なんかも揃っているから、食材があれば、ある程度のものは作れそうだ。

「成程、結構です……ああ、言い難いですね。料理が、できれば大丈夫だ。こんな感じですか?」

「OK、できてるできてる」

「はあ……村の子等にはもっとさらりと話せるのですが……」

 ちょっと話しただけで随分疲れている様だが、まだまだ話は終わらない。コホンと一つ咳をして続ける。

「……稀流人神の役目は、行商が来たら荷受けして、鳴子を使って村から人を呼ぶ事。あと、ここに居て客人をもてなすこと。……言ってみればそれだけだ」

「もてなす……? 何? 歌って踊るとか?」

 いや、と首を振る。

「……旅人が立ち寄った際に宿を貸して、食事を作ってもてなす。路銀が無いと言われたら『これしか無い』と言って少額渡しても結構……あとは……」

 啓秀は酷く言いにくそうに、少し声を抑えて言った。

「本来、求められれば同衾をせねらばならない」

「どうきん?」

 全く聞いた事の無い単語だ。

 頭に疑問符を浮かべていると、益々言いにくそうにしている。

「……飯盛女の様なものだ」

「ご飯作ればいいって事?」

 ひとつ深く息をついて、啓秀は続けた。

「……要するに……子作りだ」

「こづくり……子作り!? え、エッチしろってこと?」

「言っている意味が分からんが……本来は子作りをするんだ。そもそも稀流人神は本来婚前の女子おなごが適任なんだ」

 全然分からなくなってきた。

 稀流人神様という仕組みは一体何のためにあるんだろう。

「お、おれ出来ないよ、童貞だし、知らない女の人に頼まれたら子作りしろってこと?」

「違う、いや、別にしてもいいが本来そうじゃない」

 意を決した様に、啓秀は強い口調で言った。

「この辺りに女の一人旅なんて滅多にいない。女が居ても夫婦めおとか、人買に買われたかだ……旅の男たちに、求められれば奉仕するんだ……で、俺はその指南役。優希は女役だ」

 女役。

 頭が真っ白になるとは、まさにこの事だ。


 

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