第四章 4話


 家に帰る気にもなれず、呆けて携帯をいじっていると影が伸び始めていた。

 見回りの教員に帰宅を促されたのは時間にして五時半を過ぎた頃だった。その時間には一部の運動部も終わりつつあった。

「制服の着崩しは二八点の減点らしいぞ」

 一人で帰路にいる翠に言っておく。

 部活終わりだからか、いつもはしっかりと着こなしている制服を軽く崩して首にタオルをかけている。

「なんだよ、その判定基準は」

「後輩が言ってた」

「ああ、蒼が言っていた水泳部の子。それよか絵馬は部活もないのにこんな時間まで何してんの?」

 服の中に風を送りながら言ってくる。


「オレは学校が大好きだからな」

「思ってもないこと言うなよ。絵馬に一番似合わない言葉だろ」

「失礼な。君のために頑張ったよ、の方が似合わない」

「それもそうだ」

 けらけらと笑う翠と他愛もない会話をしながら帰っていく。絵馬は自転車通学だが、明日は徒歩でもいいので自転車は置いていくことにした。

 とにかく誰かと話したい気持ちがあった。

 




 時間はすぐに過ぎていき、十分ほど他愛のない会話で歩いていると、絵馬の中学と翠の中学の校区を分離する県道が近づいてくる。


「なあ、どうでもいいこと聞いてもいいか?」


 最後に、軽く世間話をするように切り出す。翠はいつもの冗談だと思ったのか気軽に笑った。

「絵馬との会話は大抵がどうでもいいことだけどな?」

「これを言ったら関係が変わるって内容を、翠はその人に言えるか?」

 もらった皮肉を無視すると翠は何も言わずに絵馬を見てきた。

 驚いたような表情は次第に、性格悪いな、という顔に変わる。


「翠のことじゃないぞ」

「なんだよ。じゃあ誰のこと?」

「誰でもいいだろ。単なる雑談」

「雑談か、ならしょうがねえな」


 絵馬が事細かに説明しないと察したのか、翠は「はぁーあ」と口から呆れた息を出す。急な疑問に対しても追求するつもりはないらしい。


「俺なら言わないよ」


 見えない道筋を視線でなぞり、翠は強く言い切る。

「そっか」

「なんだよ、その反応。俺の事じゃないんだろ?」

「ないけど、そっか、ってなった」

 だからなんだよ。

 そう言って、翠は子供のように笑う。


「……」


「どうした、急に止まって?」

 絵馬が止まると、翠も数歩だけ歩いてから振り返る。

「もしオレが千草さんと付き合ったら、翠はオレのこと嫌いになるか?」

「……」

「絶対にないけどな。もしもの話」

 訝しげな視線を向けられたので訂正する。

 翠も分かっているようで音もなく焦点を絵馬に合わせた。


「さあ。そのときにならないと分からない」

「ならないとは言わないんだな?」

「嫌いになるのはお門違いだろって今は思ってるよ。でも、本当にそのときにならないと分からないだろ?」

「そうか?」

「小さい頃にずっと好きだった飲み物が、今になって好きだった理由で嫌いになっているのと同じだな」

「昔は何が好きだったんだ?」

「コーラ。でも今は甘すぎるから好きじゃない」

「へー」

「おい、自分から聞いておいて興味なくすなよ」

「じゃあな。また今度」

「なんかモヤモヤする終わりだけど、またな」

 翠は背中を向けて自宅へ舵を切った。


 翠なら言わない。

 誰だってそうだ。関係が変わるようなことを言える勇気はない。

「……オレって平和だな」

 琥珀の人生を平和だと馬鹿にしたが、今になってそう思う。


 自分の中だけに抱え込まなければいけない悩み。それがないということは果たして自分にとっては良いことなのだろうか。

 もしこれから先、そんな悩みが出来たら絵馬は誰かに話すことになるのだろうか。

 見えない未来の自分に嫌気がさして、思考をため息に置き換える。


「盛大なため息だね」

 

 千草が駅方面から歩いてくることは、絵馬にも見えていた。

 肩からトートバックを垂らして、大学生であることを匂わせている。

「今、信号を渡ったら翠に追いつきますよ」

「絵馬が深刻そうな顔をしているから、今はこっち」

「わー、やさしいなー」

「前に私に聞いてきたこと、そんなに悩んでいるんだ?」

 さすがの察しの良さだ。千草はすべてを見透かしたように微笑んでいる。


「どちらを選んでも良い方向に進まない。逃避性プラシーボのことでしょ?」

「分かっていたんですか?」

「必然的にそこのジレンマに落ち着くんだよ。この現象は」


 その結論は理解ができた。

 今を変えたからといって、未来が塗装された綺麗な道になるとは限らない。現状から逃避しても、新しい道に試練があることだってある。


「男子を認識できていない子に、本当に何も悩みがないなら、周囲の誰かが彼女に影響を与えているんだろうね。たとえば、同性からの嫉妬。もしくは、その子のことを好きな子がいる……とかね」

「首筋に麻酔針とか刺さってませんか?」

「逃避性プラシーボを発症している子の友達と出掛けている時点で何かあるって察するよ」

 思えば、商業施設で小豆といるときに千草から声をかけられた。

 男子が認識できていない琥珀の友人と答えたが、あの時から勘づいていたのだろうか。だとしたらすごい推測力だ。


「絵馬は何を悩んでいるの?」

「今は少し状況が変わったんです」

 小豆の気持ちもバレているようだったので絵馬はすべてを伝えた。

 何があったか、何が起こっているかを。


「今が衛藤さんが納得した道なんだろうね」

 千草は多様性を尊重して軽い結論を出した。

「絵馬は嫌なの?」

「嫌っていうか、オレは納得できないんです」

「その子は納得しているのに?」

「……」


 言いたいことは千草も分かっているはずだ。

 それでも絵馬の言葉で知りたいらしい。

「トロッコの経路を変えて複数人は助けた。でも今の状況は分岐させた人が新しい経路に一人の犠牲者がいるってことを知らないだけに思えるんです」

「犠牲になった一人っていうのは、この場合だと白波琥珀って子の記憶?」

 縦に首を下ろす。

「絵馬はどうしたいの?」

「白波に記憶が残っているうえで、衛藤を納得させたい」

「自分勝手な理想論だね」

「どうすればいいと思いますか?」

 理想論だ。それでも絵馬はそれが一番の解決だと思っている。


「私の考えは前に言ったよ。何をしてもうまくいかないなんてありえない」


 寄り添う心もなく、千草は淡々と言う。


「でも、このままはよくないかもね」


「え?」

 突き放されると思ったが真剣な顔で付け足す。


「衛藤小豆が白波琥珀に男子を見えなくさせたように、白波さんに『自分のことを忘れて欲しい』って感情が衛藤さんから白波さんに移ったんだよ」

 思考を重ねて千草は言う。

「見えていなくても体の実体はある。だから当然、二人の細胞も存在するよね」

「そうなりますね」

「なら、やっぱりこのままだとよくないよ」

「だから何がですか?」

 どうにも焦ったい。

 千草らしくない言い回しだった。


「今の白波さんの状況が衛藤さんの細胞に波として送り返された時、衛藤さんは自分のことを忘れてしまうかもしれない」

「……」

「私を忘れて欲しい。その波が白波さんから衛藤さんに返されたら……」


 衝撃的な仮説だった。

 だが絵馬に募った驚きは少なかった。

 小豆がクラスメイトと揉めたとき、琥珀に代わって男子と話している、と女子生徒から言われていた。でもそのあとに、最近は無視しているけど、そう続けられていた。

 そして二人でサッカー部の練習を見ていたとき、小豆は男子生徒から笑われていた。でも、そのことに小豆は気がついていなかった。


 もしそれが琥珀と同様に無視ではなく、小豆が認識できていなかったのだとしたら……。

 絵馬は小豆が男子と話しているところを一度しか見ていない。絵馬が琥珀と知り合う前に、琥珀が落としたプリントを廊下で男子生徒から受け取ったときが最後だ。

 その後に琥珀の細胞から『男子を認識できない』という波が返されていたのなら、小豆が男子を無視するようになった辻褄も合う。

 同じように、今の状況を琥珀から波として返されたら……。

「自分の記憶がなくなる……」

 眉を顰める。

「まだ白波さんの細胞が振動して波が作っていないだけでね」

「でも細胞の振動はずっとしているんじゃ?」

「プラセボ効果はいつ起こるか分からないよ」

 仮説を立てて、千草は絵馬に情報をくれる。


 プラセボ効果が消えても、一度情報が共有されたらその情報は脳に入る。メッセージの送信を取り消しても、取り消す前に相手がメッセージを見ていたなら取り消したことにはならない。プラセボ効果とは取り消す前のメッセージと同じだ。一度起こってしまえば、脳には残り続ける。


「衛藤さんが見ている夢っていうのは、その前兆かもね」

「前兆?」

「本能は動物が学習せずに先天的に持っている危険回避の衝動。だから本能が夢で未来の姿を教えているのかも」


 このままでいい、その考えはないのだと千草は教えてくれた。

「私は、絵馬がしたいようにすれば良いと思うよ。たとえそれが自己満足でも、絵馬が生きているのは絵馬が主人公の世界なんだから」

「……」

「それで救われる誰かだっているはずだよ」

 最後に絵馬に発破をかけるように、千草は付け足した。

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