第四章 5話


 二者面談が行われる三日間は授業が午前で終わるため、部活のない生徒は午後から暇になる。面談も終わり、肩肘を張っていた体を伸ばして筋肉をほぐした。


「あれ、先輩も面談今日だったんですね?」


 その声は階段の上から聞こえてきた。

 絹のようなショートボブに女性らしい体躯。

 見ると、首を傾げている琥珀がいる。

「白波も今日だったんだな」

「はい。明日じゃないです。あ、昨日でもなかったです」

「最初の2文字で分かるわ」

 はいだけで分かるが詳しく説明してくれる。

「友達は?」

「今日は特に何も約束してませんよ」

「それもそっか。毎日遊んでいるわけないか」

 高校生の財布はそこまで太っていない。太っているのは服で見えない場所だけと蒼も言っていた。お腹の肉は強敵らしい。


「……」


 琥珀の表情は普段と変わらない。

 それを確認して絵馬は口を動かした。

「ならご飯行こうぜ。安価で」

「え、大丈夫ですけど、急ですね?」

「そのときの流れで決めた方がいいだろ。じゃあ決まり」

 ささやかな微笑みで絵馬は琥珀の前を行く。



 

 

「ここです」

 琥珀に案内されたのは駅にあるドーナツ店だった。改札を出て正面にあるが、平日のお昼には客足が少ない。

 何を食べたいかを問うたところ、琥珀が「いつも行っている所があって」と提案してくれたのだ。

「新作が出たんです!」

 普段よりテンションの高い琥珀に新鮮さを感じつつ、絵馬も店内へ入っていく。


 誰もいないので堂々とテーブル席に腰掛けて、お互いに食べたい品を購入した。

「いただきまーす」

 絵馬が戻るよりも先に、琥珀は宇治抹茶を練り込まれたドーナツを手に取って口へ運んでいく。琥珀のトレイには他にも四つのドーナツがあった。本当に好きらしい。


「お、それ美味しそう」

「なら、わけっこしましょうよ。私もよくするんです」

「いいね、しようぜ」


 紙ナプキンでうまく分け、お互いのトレイに戻す。琥珀は小さく開けた口の中に次々と運んでいた。二つを食べ終えたところで「あ」と手を止めた。

「私、男の人とここに来たの初めてです」

「でしょうね」

 そういえば、といった様子で言ってくるがまったく意外ではない。

「あれ、そもそも男の人と出かけたのも先輩だけかも?」

「それも、でしょうね」

「私って先輩しかいないんだ。悲しいですね」

 琥珀がマイペースに自嘲する。

 思わせぶりな女性が言いそうなセリフを恥じらいや策略もなく淡々と言ってのける高校生は日本中を探しても琥珀の他にそういないだろう。


 ただ絵馬には思わせぶられる期待感はなかった。それは琥珀という人物を知っているからではない。違うことを考えていた。


 言葉の髄から、ある疑問を芽生えていた。

「へえ、なら女子は?」

「女子ならいます。馬鹿にしないでください」

「ふぅん、誰と来たことあるんだ?」

「誰って先輩に言っても分からないと思いますけど?」

「良いから言ってみ。気になる」

「ええ、狙ったりしませんよねぇ?」

 疑いの意を込めた言葉。

 琥珀は過去に一緒にこの店へ来たことのある子が、絵馬に手を出されることを心配しているのだろう。


 今の琥珀の記憶ではそれは誰のことなのか。

 絵馬はそれが知りたい。


「狙わないからさ」

「ええっとですね。……あれ、ん?」

 質問に答えようとした琥珀の声が途中で行き詰まる。

 すぐに琥珀の顔に困惑が浮かんできた。

 なぜ、すぐ分かるはずの質問に答えることができないのか。それを真剣に悩んでいる。眉を寄せて困っている。


「あれ、誰でしたっけ?」

 なぜか向けられた疑問には、絵馬は静観を貫いた。琥珀は問いかけてきながらも自分の頭を働かせる。でも解は導かれてこない。

 本当に、琥珀は小豆を忘れている。

 記憶の中には小豆の代替案となる人物はいないようだった。


 ただ小豆を忘れているだけ。


「まあいいや。早く食べよう」

「え、はい」

 困惑に食欲が打ち勝ち、琥珀はドーナツに意識を戻した。それでも分かるはずの内容が分からないことに動揺があるらしく、落ち着かない様子だ。

 下を向くと滴り落ちる前髪が琥珀を隠す。

「今日はヘアピンしてないんだな?」

「え、ああ、そうですね。持ってきてはいますけど」

 そう言って、鞄からシルバーの髪留めを引っ張り出す。

「やっぱりまだ慣れなくて、おでこが見えていると恥ずかしいのもあるので」

「友達に影響されて付けたのか?」

「はい。絶対に目元を見せた方がいいよって言われて」

「確かに前髪を流したほうが表情は伝わりやすいかもな。あと芋っぽくなくなる」

「芋って思われていたんだ……」

「ちょっとだけな」

 項垂れる琥珀を笑っていると、店内に高校生のカップルが入店してくる。同じ高校ではないので二人は絵馬たちを気にかけることなく奥の席へ行ってしまった。


 それを見つめていた琥珀は、

「いいなぁ」

 と小さくつぶやく。

「そうか? くだらねえ」

 心の中では琥珀の感想に同調でしかない。

「高校生だなって感じがしていいじゃないですか。羨ましいです」

「そういえば、そういうところは女子っぽかったな」

「私、そういう話とは無縁だったので、だからその反動かもしれません」

 恋する乙女のように目尻を下げる。正確には恋に恋する乙女だが……。

「だからいいなぁって」

「周りの子とそういう会話するのか?」

「はい、みんなしっかり恋愛してきたみたいで。私は羨ましく思って、いつも聞いているだけですけどね」

 屈託のない笑みが、心の失念を埋めるように絵馬の中に踏み込んでくる。綺麗で、それでいて可愛らしい琥珀の笑顔が眩しく映し出される。


 琥珀は普通の女子高生だ。

 それを彼女の笑顔が教えてくれる。

「あ、でも変な話も聞きました」

「変な話って?」

「クラスの女子で、いろんな男子に色目を使っているって言われている子がいるんです。女子にはキツくあたって、男子には笑顔、みたいな」

「……へえ」

 誰かから聞いた話を琥珀はいつもと変わらない面持ちで教えてくれた。


「なんだか同じクラスの子と喧嘩してから流れたそうで。私はその人たちがピンときてないんですけど、そんな噂を立てられるのは可哀想ですよね」


 他人事のように、パクリと普段の要領でドーナツのかけらを咀嚼する。

「私は笑わないよりはすごく魅力的だと思いますけど」

「白波は、本当にその子のことを知らないのか?」

「知らないというか、どの人かはあまりピンときていなくて……」

「知ってるよ。白波は」


 気がつけば、絵馬は真摯に問いかけていた。

 プラセボ効果が発生して今の琥珀の『小豆を忘れる』という情報が小豆に伝わる前に、小豆を思い出してもらわないといけない。


「なあ思い出せよ」

「え?」

「衛藤の、」


 絵馬が名前を出したときだった。


「ダメですよ」

「……え」


 そんな声に制止を余儀なくされる。

「ダメですよ、美空さん」

 声の主である小豆は平然と琥珀の隣に座った。

 絵馬の洩らした一文字に琥珀は首を傾げる。


「どうしたんですか、先輩?」

「……っ、本当に分かってないのか?」

「へ、何がです?」

「琥珀は分かってないですよ。私のことは見えていない」


 小豆は楽しそうに言い切る。その顔を保ったまま、絵馬に顔を向き直した。

「だから琥珀の前で私に話しかけていると、危ない人に思われますよ」

「……」

「あ、確かにフレンチクルーラー頼んでなかったです。買ってきます!」

 追加で注文へ行く琥珀を温かく見守って、小豆は背もたれに体を預けた。


「のほほんとしていて自分に正直で。ほんとに良い子ですよねぇ」

「なあ、どうして」

「私、言いましたよ。気にしなくて良いって」


 店内の明るい装飾に毒されて、小豆の声が明るく聞こえてくる。

 本当は怒っているのだろう。

 でもそれを表面に出していない。


「なんで、ここにいるんだ?」

「美空さんと琥珀を夢で見ました。もしかしたらって思って来ましたけど、正解でしたね」

「そうかよ。便利な機能だな、オレに譲ってくれー」

 投げやりに言って緊張を解くと小豆のやわらかな双眸が優しく緩む。

「琥珀は可愛いですよね」

「そうかよ。今はどうでもいい」

「周りが何をしていようが自分だけの空間を持っていて」

 絵馬の態度には目もくれず、琥珀だけに視線を当てている。まともに取り合っても話をしてくれる様子はなかったので、絵馬も「ちょっと危なげないけどな」と言っておいた。


「でも今はちゃんとしてる。私は嬉しいです」


 絵馬の背後で琥珀が注文を終えたのか、小豆は立ち上がる。

「私は大丈夫ですよ。本当に」

「……」

「だから美空さんは何もしないでくださいね」


 出口へ行く前にちらりと瞬間的に捉えられた琥珀の姿は、小豆の瞳にはどのように映っていたのだろうか。

 小豆の納得する形に。

 絵馬はそう考え続けてきた。

 なら、これでもいい。

 そう、これが小豆の望む世界だ。

 琥珀が小豆を忘れ、それぞれがお互いに新しい関係を構築する。


「……はあ」


 額を手で抑え、絵馬の顔に影が塗られる。

 これまで通りを望むのは絵馬の自己満足だ。

 でも、やっぱり違う。


————私のこと、捨てないでね


 その言葉だけは見逃せない。

「……」

 絵馬は背後に視線をやる。

 でもそこに小豆の姿はなかった。


「……捨てたのは衛藤だろうが」


 じわじわと込み上げてくる怒りの切れ端は声になる。

「先輩?」

 戻ってきた琥珀が眉を顰めていた。

 琥珀を睨み据え、絵馬は反射で話す。


「なあ、思い出せよ。衛藤のこと!」

「え、どうしたんですか?」


 真っ直ぐに見つめられ、温度差を肌に感じる。それでも絵馬は続けるしかなかった。


「ずっと一緒にいて、仲が良かったやつがいるだろ」

「え?」

「バイトをしたいって、ファミレスのウエイトレスになりたいって白波は衛藤に相談したんだよ。同じ中学で、同じバレー部で一緒にやってきたんだろ?」

「それは……。え、でも」

「あるだろ、あいつと過ごした時間が……!」

「ええっと、どうしたんですか?」

「……っ」

 琥珀を正そうとするが圧倒的に説得させる材料がない。


 琥珀の中にある小豆との思い出を絵馬はそこまで深く知っていない。絵馬が知っているのは小豆から琥珀への感情。


 だから琥珀のことも知ったつもりでいた。

 でも結果はこれだ。

 もう打つ手がない。

 何か、何かないだろうか。


 そう思った時だった。


「……あれ」


 琥珀に明らかな動揺があった。

 絵馬を外すように泳いでいく視線はどこかに集中した。ゆっくりと琥珀の腕が伸びて、トレイに乗ったドーナツを掴む。


「あれ、これ、どうして頼んだんだろ……?」


 それは先ほど注文したフレンチクルーラー。


「私、そんなに好きじゃないんですけど」


「……」

 言っている意味が分からず、絵馬は何も反応するつもりはなかった。

 抜けているいつもの琥珀の行動だと片付けようとした。


「いつも頼んでいるけど、私はそんなに食べなくて……」


 それでも琥珀には重い疑問だったらしく、あれ、あれっと琥珀が口元を塞ぐ。


「なんで、私、ここに来たことがあるんだろ?」


 ピースが埋まっていく感覚があった。

 消えていた息が吹き返す。

 何が起きているかはよく分からない。


 それでも逃すわけにはいかない。

「衛藤と、来たことがあるんだよ」

 これに乗らないわけにはいかない。

 絵馬が説得しなくとも琥珀には小豆の破片が残っている。

 絵馬の言葉よりも記憶に響くことがある。


「え、とう?」

「仲が良かったんだよ。衛藤と白波は」

「仲が、よかった……?」


 わからないという琥珀の顔。


「衛藤だよ。衛藤小豆。白波と友達でずっと一緒だっただろ」

「……小豆。あれ、どうして小豆のこと?」


 ようやく琥珀から小豆の名前が出た。


 小豆を記憶から解離していた琥珀は、何かの情報から小豆を思い出した。人の思い出はデータのように完全に消去できるものじゃない。脳で、そして細胞が必ず覚えている。


 絵馬と知り合った数週間とは違う、小豆との年単位もの思い出が琥珀の体にしまわれている。ドーナツ一つが思い出になるほど、強くこびりついている。


「そうだ。これも、これも小豆がくれたんだ……」

 震える声で、琥珀がヘアピンを掴む。


「家に行ったときに、誕生日って……」


 静かに声が枯れていく。


「どうして忘れていたんだろ……。あれ、」


 小さな雫が綺麗な肌を伝っていく。

 それは嬉し涙でも悲し涙でもない。

 自身の感情を必死に探すための涙だった。

 呼吸を乱して口元を覆う。


「かんない。あれ、なんで……、なんでっ、小豆が浮かばないんだろ」


 小豆という存在を思い出しているが、姿が浮かんでいない。男子が認識できなかったように、小豆を認識できていない。


「わかるのに、わかるのにっ……。小豆が、小豆がわかんないっ!」

「……」

「……んで、なんでっ!」


 琥珀は、小豆を失認している。

 それでも小豆のことは思い出した。


「行こうぜ」

 琥珀の手を絵馬は掴んだ。

「……え」

「それが分かれば十分。やっぱり白波と衛藤は一緒が似合うって」

 琥珀の手を引いて、絵馬たちは身一つで店を飛び出した。

 どこへ向かうのか。

 それはきっと、思い出が教えてくれる。

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