第二章 4話(2)
運ばれてきたメニューを平らげた頃にはすっかり日は沈んだようだった。
時刻は帰宅ラッシュに突入したのか駅に向かう人数が増え、その中には他校の制服も確認できる。すでに部活終わりの生徒が帰り始める時間になっていたらしい。
「美空さんは好きな人とかいますか?」
同じように外を見ていた小豆がこともなげに聞いてくる。
話す話題が思いつかないのか、今日はやけに恋愛関係の質問が多いように思えた。
「どうした急に」
「いえ、普通に思っただけです」
「まさかオレのこと好きになっちゃったり? テレる」
「……」
「好きな人はいません」
「ならタイプとかは?」
「さあ。好きになった人がタイプなのかも」
「意外と普通なんですね」
本当は身長一六五センチ前後の美人で、可愛くて、優しくて、口が固くて、どんなことにもにこやかに反応する黒髪ロングで、目元に可愛らしいほくろを装備していて、男子よりも同性の人気が強い、絵馬の生活も養ってくれる国民的な芸能人が良いが、小豆が無邪気に笑っていたので言わないでおく。
小豆の理想も聞き返そうかとしたが、小豆の好みには対して興味もないのでやめておいた。
「これまで好きな人がいたことはあるんですか?」
「そりゃあるだろ」
「へえ意外です。どんな人でした?」
「どんな人って、別に奇抜な人でもないぞ。どんなことにもお礼が言えて、しっかりするところはしっかりする明るい人」
「そういうのすごく良いですね。美空さんも、ちゃんと学生してたんだ?」
「そういう衛藤はちゃんと学生してたのか?」
ちらりと視線を向けられる。
そして小さく笑った。
「あの、」
「うん?」
「好きって、なんですかね」
「……大丈夫か?」
意味も分からず脊髄反射で返すと小豆は大きくため息を吐いた。
「はあーあ、聞いた私がバカでした」
「どうして急に恥ずかしいことを聞いてきたわけ?」
「なんとなくですよ。なんとなく聞いてみたかっただけです」
本当にただの雑談だったらしく早々に話題を終わらせる。そのまま財布を取り出すと、小豆は音もなく立ち上がった。
会計を済ませると、外に出ていく。
「いくらだった?」
その問いに小豆は首を横に振る。
「いいですよ。私が連れて来たので」
「後輩に奢られるって嫌なんだけど?」
「じゃあ次に奢ってくださいよ。そしたら実質割り勘じゃないですか」
「ふーん、なら今回はありがたく奢ってもらおうかな」
そう言うと小豆は嬉しそうに先を行く。
残された絵馬は静かに、
「次……か」
と繰り返す。
伝えるつもりのなかった言葉は、ありがたいことに小豆には伝わらなかったらしい。
ゆっくりと段差を下がっていくとポケットの中でスマホが揺れた。小豆にも聞こえたらしく、不思議そうに振り返る。
「ご家族ですか?」
「いや、それはないと思うけど」
確認すると珍しいことに琥珀からだった。追加だけして何もしていなかったメッセージ画面に一つのスタンプが送られてくる。
『はじめまして』
スタンプ内のクマがそう言っていた。なぜこのタイミングなのかは分からないので、とりあえず無視してポケットにリリースしておく。
「悪い、待たせて」
「いえ全然だいじょうぶですよ。誰からだったんですか?」
小豆は駐輪場にある幅狭い段差に片足で耐久していた。女子高生は何を考えているのかよく分からないの二連発だ。
「白波から急にスタンプが来た。はじめましてだってさ」
「そう……なんですねー」
「女子高生っていきなりスタンプ送る習慣でもあるのか?」
「いえ、琥珀だけですね。悩みに悩んで今送ったとかじゃないですか?」
「あーね。ぽいかも」
自転車を押してファミレスの敷地外に出るが、小豆はその場から動かない。
「衛藤? 行かないのか?」
「あ、はい」
「ほら鞄」
「……」
要求しても小豆は鞄の持ち手を握りしめたまま動かない。
その仕草を怪訝に感じていると少しの沈黙が流れた。数秒……、いや一秒も経っていなかったかもしれない。これが長い沈黙と感じたのは、小豆に次の動きが見えなかったからだろう。
「ちなみにですけどー、どういう経緯で交換したんですか?」
動かないと思っていた口が我関せずといった様子で動く。自分は興味ないけど。そんなニュアンスを含んでいそうな言い方だった。
その言葉の髄に違和感を感じた。
それは会話の節々に感じていた疑問でもあった。
「……お前さ」
わずかな逡巡を乗り越え、そう切り出す。
遠目に見える歩行者信号が赤になる。風の音は弱くなっていき、呼吸の音も聞こえてくるほど繊細な時間になっていた。やがて歩行者信号が青になると同じ方向に向かう車も同時に動き出す。
「白波となんかあったのか?」
気がつけば、もらった質問を吹っ飛ばしていた。横で大きなトラックが音を鳴らして消えていく。それでも大きな音を立てて右から左に駆けていく騒音に負けることもなく、言葉はしっかりと届いているようだった。
小豆は虚空を見切ると口だけを動かす。
「なんか。と言うと?」
「なんかはなんか」
「かなり抽象的ですね?」
「あいつのことを露骨に気にかけているのが気になっただけ。ちょっと過保護すぎるし」
「……っ」
小豆の顔が歪む。
それでも絵馬は続けた。
「こうやってオレを連れ出したのも、もしかして何か他の理由があるのか?」
「どうして、そう思うんですか?」
「理由なく初対面の男子と関わろうとするタイプには見えない。それに一人は恥ずかしいって言っていたけど、一人にしても平気そうだったしな」
「だからあの時、私を一人にしたんだ。策士ですね」
好戦的に小豆の口端が上がる。
「でもそうですね。美空さんの考えは合ってますよ。それに、なんか、もありますよ」
「……は?」
変に取り繕うこともせず小豆は結論から言った。まさか正直に応えてくれるとは思っていなかったので、たじろぎが露見してしまう。
「美空さん、琥珀が男子と話さなくなったのは、変な現象が起きて、それは悩みが原因だって言っていたじゃないですか」
「ああ、言った」
逃避性プラシーボのことを絵馬は小豆に話した。小豆は体の前で組んでいた指先を静かに解く。
「それも、私が原因だと思いますよ」
顔を上げて小豆は淡白にそう言った。
「原因って?」
「これまでと同じように接してくれるって約束してくれるなら言います」
「犯罪じゃなければそうするよ」
「私、琥珀が好きなんです」
言い淀む気配もなく、そう言ってくる。
「友達としてじゃなくて、恋愛的な意味で」
「……」
「だから私は、琥珀に美空さんとも話してほしくないです」
「清々しいまでに正直だな」
「だって正直に生きている方が楽じゃないですか?」
立ち尽くしていると、小豆が明るい面持ちで帰路に戻っていった。遅れて小豆の背中を追いかける。
「美空さんはあまり驚かないんですね」
「いや、驚いたけど……」
もちろん、驚きはあった。それでも小豆の嬉々とした表情に毒気を抜かれている。
小豆は笑顔だった。自身の悩みを打ち明けている顔とは思えない。
「そこまで仲が良くない人にはあっさり話せるものですね」
「それは分かるかも」
「ですよね。変に距離が近い人だと萎縮しちゃいますもん」
「そうかもな」
絵馬も足の回転を早くして距離を戻した。小豆はそれを横目で確認すると軽い笑みをこぼす。
「女が女の人を好きだなんて、キモいって思いました?」
「重いな、とは思った」
「そうですか。そうですよねぇ、あはは」
乾いた笑い声。
それが続く。
「同じマンションの友達にそれを打ち明けたら、じゃあ話していた男子はたぶらかしていたんだって言われちゃって」
「それはきついな」
「周りから見ればそうだったのかもしれないです」
「……」
おかしいことじゃないって。そのフォローは自己満足だと理性が押さえつける。絵馬が空気を変えたいだけの言葉にすぎない。
途切れる会話に気も使えず、絵馬は一人で考え込んでしまった。
何が悩む要素になるのか。
それは絵馬の口から聞けることではなかった。自分の思考にない状況下にいる彼女は、きっと絵馬には考えられないことで悩んでいるのだ。
だとすれば、今日の行動もすべて小豆の計算だったのかもしれない。
千草は言っていた。細胞同士が共振して、相手に情報を流している、と。つまり小豆の『琥珀に男子と話して欲しくない』という想いが琥珀に共有されて、男子を認識できなくなったのだろう。
逃避性プラシーボの難点を実感してしまった。これが本当なら……。
「あ、勘違いしないでくださいね。決して重たい空気にするつもりはなくてですね」
「全然大丈夫。親しくない相手にはあっさり話せるって、オレもそうだと思うし」
「ならよかったです。ちなみに美空さんも悩みがあったり?」
「オレは最近、制服の裾が合わなくなってきた」
「それは誰にでも話せますよね?」
小豆は笑った。他人事のように自分の話を流して明かりを灯している。
「……」
琥珀の問題を解決して男子を認識できるようにしてしまえば、小豆にとっては負に進んでしまう。ただ何もしなければ琥珀が男子と関われないまま。
琥珀と小豆。大小はともあれ、それぞれの悩みを天秤に乗せて、絵馬は脳内で俯瞰した。
どちらかの願いに沿えば、どちらかの悩みは残存して残り続ける。
「それよりミスドの新作食べました? すっごい美味しかったですよ」
「ああそっか。覚えてたら食べねえわ」
「ええ、食べてみてくださいよぉ」
全員が報われる世界はない。
その残酷な解答が絵馬の胸に沈んでいく。
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