第三章 1話

 春の風は少し暖かい。

 大分県は海と隣接していると思えば、後ろを向けば山が見える。陽気な朝日の空気が肌に触れ、ささやかな風が鞄についたストラップを揺らす。

 

 人為的に作られた校舎は足を繰り出すごとにかちかちと時計が鳴いていた。

 見慣れた天井の汚れや廊下の端にたまる埃は今日も目についてしまった。いつもは聞こえてこない音が聞こえてくるわけでもなければ、新しい発見があるわけでもない。


 ただ、生物準備室の扉を開けると、薄汚い木材を基調とした部屋に存在感の際立つ聖女が飛び込んでくる。それは珍しいとは感じない来客だった。


「見たな?」

 ゆっくり背後に近づいて肩を叩くと、琥珀はお菓子の盗み食いがバレた子供のように肩を震わせた。恐る恐る後ろを振り返り、視線が合うと目を見開いた。


「……びっ」

「び?」

「っっっくりしたぁ。どうし……普通に話しかけてくださいよ!」


 絵馬を目視して胸を撫で下ろしている。


「じゃあ次は後ろから蹴飛ばす。覚悟しとけ」

「どうしてその思考になるんですか…。それよりどうしてここに?」

「こっちに歩いていくのが見えたからついてきた」

「へ? それだけで来たんですか?」

「朝からこっちに行く人って大抵がサボる奴だしな。もしかしたらサボるのかなって思って」

「サボるわけがないじゃないですか。先輩じゃないですし」


 その文句は無視して琥珀の見ていたプリントに視線を落とす。見ていたのは学校で使う教材ではなく、絵馬が前に見せた千草のプリントだった。


「どうかした?」

「ちょっと気になることがあって」

「気になること?」


 琥珀は改めてプリントに目を通す。

「精神的なストレスから起こる細胞の過剰な逃避現象。これって逃避が起こる原因が私にあるってことですよね?」


 きっと前に話した時は自分の身に起こる現象が異質すぎて自然と流せていたのだろう。

 ただ時間が経ったことで思い直して改めて疑問に思ったようだ。


 正確にいえば、琥珀と断定できない状況になっている。琥珀は巻き込まれている可能性があるが、「そういうことになるな」と言っておいた。

「私にストレスなんてないと思います」

「知らんがな。ちょっと頭を空っぽにして考えてみろよ」

「……」

 顎に手を当てて考え出す琥珀。


「あっ」

「お、見つかった?」

「履歴書なら————」

「お前、そこに謎の自信持ってるけど絶対に違うからな?」

 もう履歴書の悩みから解決した方が良いのかもしれない。


「でもまあ、ないならないで良いことかもしれないけど」

「え、どういう意味ですか?」

「何も白波に問題があるって決まったわけじゃないだろ。オレだけが見えるってことはオレの方に原因があるかもしれない」

「先輩に悩みがあるようには見えないです」

「せっかく庇ってあげたのに……」


「先輩はのうのうと生きていそうです」

「おーおー、衛藤も似たように失礼なこと言ってきたけど、あんまり人にそういうことは言わないようにしろよな。オレが可哀想だろうが」

「あっ、小豆といえば昨日一緒に夜ご飯食べに行ったんですよね」

「おい聞け。それと情報が伝わるのが早すぎるだろ、女子高生」

 どうして女子高生はこんなにもゴシップが好きなのだろうか。ゴシップを書いた紙を木に貼っておけばカブトムシのように女子高生が集まってくるかもしれない。


「小豆が電話で話してくれて。色々と話してくれました」

「何か褒めてた?」

「先輩は付き合った人を不幸にしそうって言っていましたよ。あの人はやめとけ、とも」

「昨日の時間は悪口しか生まなかったのかよ。先輩ちょっと悲しいよ」

 これも琥珀が絵馬に興味を持たないための行動なのだろうか。


「あっ、でも意外と倫理観と常識は兼ね備えているって褒めてました」

「それ褒めてないし、普通のことだし」

「あの、」


 琥珀は仕切り直すように空気感を変えると、絵馬から目線を外して淡々と続ける。


「先輩は小豆のことが好きなんですか?」

「はあ?」

「小豆のことが好きなんですか?」

「いや、聞こえてる聞こえてる。聞こえたうえでこの顔をしてんだよ」

 からかいや軽蔑の意味が込められていない無垢な瞳に本気で顔を歪めてしまった。


 それでも引き下がることなく、琥珀は一人で恥ずかしそうにもぞもぞしている。

「あの、実際はどうなんですか? き、気になるとか、そういう気持ちもあるんですか?」

「お前、そういうところはちゃっかり女子っぽいな……」

「失礼なこと言わないでください。それで実際はどうなんですか?」

「オレってそんな簡単に女子に手を出す男に見られてんの?」

「いえ、先輩っていうか……」


 長いまつ毛を上下させ、口を尖らせる。


「小豆は中学の頃は男子に人気があったらしいので。だから先輩もそういうつもりで小豆に近寄っているのかな……なんて思ったり」

「アホか。一日で人を好きになれるなら苦労はねえよ」

 言っておきながら、どういう意味なのかは絵馬でも分からなかった。ただ琥珀が「なるほど」と納得してくれたので良しとする。


「それより衛藤って、やっぱりモテてたのか」

「そうみたいです。……私はあまり知りませんでしたけど」

「ん? 同じ中学だったんだろ?」

「でしたけど。……小豆とはあまりそういう話をしなかったので」


 綺麗な顔に微量な寂寥が漂った。捨てられた子犬が時間が経過してから自分の状況を理解したような、そんな寂しい表情に見えてしまう。


 この表情が琥珀と小豆の性格を表している気がした。小豆だけが一方的に琥珀を知り、小豆は自分を見せていない。

 それは単なる二人の性格による差だろう。


「まああれだ、付き合いが長い人にはかえって相談しにくいこともあるんだよ。男子中学生が初めて出来た彼女を家族に隠す習性と一緒」

「男子中学生は知りませんけど小豆は女子ですよ?」

「昨日、衛藤が似たようなこと言ってたんだよ。だから気にする事じゃないって」

「小豆が言っていたんですか?」

「そっ。親しい人にはどうのって言ってた」

 正確には『親しくない人』だが意味としては同じになる。


 絵馬の言葉を聞いた琥珀は、淡い笑顔を作り、胸を撫で下ろしている。

「そ、そうなんだ。よかった」

「衛藤に他の友達ができたら、やっぱり寂しかったりするのか?」

「……」

 まずいことを聞いたのか琥珀の顔がまた曇ってしまう。


「小豆、彼氏がいたんですよ。中学生の頃に」

「……は?」


 思わず反応が大きくなってしまった。


「でも、私はそれを他の人から聞いて。……そこはちょっと寂しかったり」

 いの一番に教えて欲しかった。

 そういうことらしい。

「なんか可愛いな、お前」

「……どうも。あまり嬉しくないですけど」

「そう言う白波は恋愛とか興味ないのか?」


 自然な流れで問いかけると琥珀はちらっと視線を向けてくる。


「わっ、私ですか?」

「うん」

「ええっと、興味がないわけではないですけど、私の場合は機会もないっていうか……」

「へえ、興味があるのは意外だな」


 勝手に興味がないものだと思っていたが、そういうわけではないらしい。思えば、今日だけでも乙女の片鱗がいくつか見えている。


「ふ、普段は一緒にいて楽しい人だけど、でも相手のことを考えて一緒にへこむことが出来る優しい心もあって。自分が辛いときには素直に甘えてくれるような人がいいです」

「いや、そこまでは聞いてないけど」

「聞いてくださいよ」

「なんで聞かせたいの?」

 なぜ勝手にカミングアウトされたのだろうか。ナチュラルに頬も赤らめないでほしい。


「でも、男の人が見えない限りは叶わないですけどね」

 そう続けて、琥珀は柔らかに微笑んだ。


 その言葉が悲しいようで意外でもあった。少なくとも絵馬の前では自嘲として扱えるようだ。


「なら白波が青春できるように解決しないとダメだな?」

「ですね。あっ、でも、」

「ん?」

「先輩と話していると、すっごい高校生してるなぁって感じがするので、これもいい経験だと思ってます」

 くしゃっと綺麗な笑みを湛えている。


 その笑顔に呆気に取られてしまったが、すぐに笑って持ち直す。

「悲しい高校生だな?」

「そんなこと言わないでくださいよ」

「だって事実だろー」

 微苦笑を見せて目線を逸らした。琥珀は「ええ、なんでですかぁ」と反論しているが、絵馬は手を叩いて話に終止符を打った。


「はい終わり。ほら、教室行くぞ、せっかく学校に着いてるのに遅刻なんて嫌だろ」

 琥珀の両肩を掴み、くるりと回転させて扉に体を向けさせる。そのまま教室の外へと追いやるように押していく。

「え、あ、はい。って押さないでくださいよっ」

「それに衛藤のことが気になるなら、自分で聞いてみろよ。女子がいつまでも待つ時代は終わってんだよ」

「わ、分かりましたから。じ、自分で歩けますからーっ!」


 背丈があるので他の女子と違ってお互いの目線が近くなる。


 それでも肩幅が狭くて女性らしい華奢な背中は、しっかりと女の子の体だった。

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