第二章 2話(2)
「逃避性プラシーボってすごいんですね」
神妙な顔で小豆はスマホと睨めっこしていた。絵馬の説明だけでは「何を言ってるんですか?」と真顔で言われたが、数少ないネットの情報では納得したらしい。
「道理で最近、男子を無視してたわけです」
「信じてくれるのか?」
「じゃあ信じない方がいいんですか?」
「そういうわけでもないけどさ」
連絡棟の一階で、小豆がハムカツサンドを小さな口につける。
地面はコンクリートで塗装されているので、絵馬も小豆も地面にお尻をつけていた。
連絡棟も校舎の形をしているおかげで日差しからはうまく隠されている。春の気温も相まって心地よいと感じる温度感だった。
「でも、どうして美空さんは見えているんですか?」
「それが分からないんだよな」
「へえ、謎ですね」
ぱちぱちと瞬きをしながら頬張っている。ハムスターみたいで愛らしい。
「そこで衛藤に質問」
わざとらしく手を上げておく。
「はい、どうぞ」
小豆も教師のように続きを促してきた。
「白波に最近、変わったことはないか?」
「変わったことですか?」
「悩みとかそういうの。衛藤から見てあるなら教えてくれ」
「えーっと。履歴書に何を書くかはずっと考えてますね」
「あいつ、そんなに悩んでるのか……」
ここまできたら本当にそれかもしれない。
「でも、琥珀に悩みがあるようには見えないですね。琥珀は何事も流されるままにのほほんっと生きていますから」
「なに、あいつ幼稚園児か何かなの?」
「そこも可愛いじゃないですか」
けろっと小豆が一言でまとめる。
本当に意味が分からない。琥珀からしても、琥珀の友人である小豆から見ても、逃避の元凶がないとなると、余計にややこしくなってくる。琥珀はいったい、何に対して逃避を起こしているのだろうか。
「ところで、美空さん」
「うん?」
「本当は、琥珀とどういう関係ですか?」
「さっき説明したよな?」
「馬鹿だなって思いながら聞いていましたよ」
淡々とした口調で、小豆が辛辣に物を言う。
「正直なんだな?」
「信じる方が怖くないですか?」
「じゃあ怖くなってくれ。オレだって意味が分かってないんだよ」
「確かに琥珀が二年生の男子と関わるってなると信じた方が辻褄は合いますけど」
「じゃあ信じてくれ」
「だってありえないですし。ええ、でも琥珀が男子と話しているのもおかしいしなぁ……」
脳内で天使と悪魔が戦っているのか、「んー」と唸っている。
そして小さくつぶやく。
「……それに、この男はちょっと信用できない」
「おい、聞こえてんぞ。心の中にしまっとけ」
「あ、すみません。隠すつもりなかったです」
「おい、急に本性出してきたな!」
ものの数秒で、礼儀正しかった様子から遠慮のない本性が溢れ出ている。もしかしなくても、本当の彼女はいい性格をしているようだ。
「だって、琥珀に美空さんのことを聞いたら『猫被りお調子者』だったり、ふざけた人だって聞いていたので」
「くそ、あいつ許さねえ……」
「だから私も遠慮がいらないかなって思いまして。美空さんは少し変わった……いえ、少なくとも異常者ってことは分かりましたから」
「言い換えるならせめて優しい言葉にしてくれ」
「琥珀と話せている時点で異常ですよ」
「あいつって友達から見てもそういう扱いをされているのか」
「変わっているというか、あの子は重度の世間知らずですから。……でも琥珀、どうして美空さんとは話すんだろ」
ふと、小豆から絞り出されたのはそんな言葉。絵馬の説明は完全に信じていないらしく、絵馬と琥珀の共通点を独自で考えている。
これはどれだけ説明しようが逃避性プラシーボの話は信じてくれそうにないのであえて流すことにした。
「白波が言っていたけど、前から仲良いんだっけ?」
「はい。中学から同じです」
「あいつって中学の頃から男子と接点ないのか?」
「そうですね。というより、背も高くて顔も綺麗だし、それに天然なところがあって愛される感じでした。男子よりも女子に好か……人気があったので、男子も迂闊に近づきにくいらしくて」
「ああ、そっち系な」
女子から一目置かれている存在には男子にもその空気感が伝染する。あの人は孤高だから、高貴な人だから、と線引きをされることが多い。身近なところで例えるなら、翠も同じような存在だ。同性から慕われ、女子からみんなの推しと言われている。羨ましい。
小豆は笑顔で続けた。
「ずっとかっこよくて、みんなの王子様って感じで。それに琥珀自身も男子と話すのは最低限でいいって感じだったので、そこもカッコよくて」
「まあ異性に媚びないやつって同性から人気あるよな。オレもあんぱんとライダーは女子に媚びないから好きだったし」
「なんか、それと一緒にされたくはないんですけどぉ」
むっすーと呆れ面を浮かべている。
「ほんとに琥珀と話せているのが訳わかんないです」
「オレもよく分かってない。たまに話せているのか分かんないときあるし」
「そこもあの子らしいですけどね。でも、」
そっと声が小さくなっていく。
寂しさと不満を表面に声が洩れていく。
「琥珀はそんな子だから、私が知らない男子と話しているのはちょっと怖いんです」
「まあ、気持ちはわかるな」
「もうすでに悪い人に引っかかってそうですし」
「おい、オレが悪い男に見えたってことを遠回しに言ってんのか?」
「遠回しじゃなくて、はっきり言ってるんですよ。だって美空さんは噂もありますし、あとすでに外見が悪そうですし」
じーっと絵馬を観察すると、ふっと嘲笑うような微笑みを浮かべた。
「まず髪の毛が跳ねているのはマイナスです。三点マイナス」
何か始まった。
「癖毛なんだよ てか九七点か、まあまだ許容範囲だな」
「もう制服をしっかり着ていることと、耳に髪の毛がかかっていないところ以外は褒めるところがないですねぇ、二八点です」
「制服って点数高いのな。オレの古典と同じ点数」
馬鹿じゃないですか。
言いながら小豆はため息を作ると、絵馬の耳に視線を当てた。
「あとはピアス」
「ピアス?」
「そもそも美空さんはピアス……が、」
小豆は追撃しようと何かを言いかけたが言葉が止まる。
「なんだよ」
「……いえ、珍しいなって思いまして」
こぼれ落ちるように言葉が沈む。
「左じゃなくて右にピアスしているんですね。男の人って左に多いイメージなのに」
「あぁ、これ?」
「それにレディースのピアス……ですよね。それ」
「ですな。よく分かったな?」
「なんだかキラキラしている……ので」
言いながら、次第に声は落ちていく。
「もしかして、彼女さんにもらった、とかですか?」
「ああ、これな」
「ご、ごめんなさい、聞いちゃダメなら全然大丈夫なのでっ……!」
「いや、いいよ。誰かには話したほうが楽になるかもしれないし」
言われてピアスに触れる。
同時に小豆の顔が少しだけ俯いた。
深刻な空気が漂う。
「これは、前に付き合ってた先輩がくれたやつなんだよ」
「そ、そうだったんですね。ごめんなさい、私……」
「その先輩が留学に行くことになってさ」
「留学、ですか。じゃあ遠距離になる前に?」
「そ、先輩がトルクメニスタンに留学が決まって」
「……ト、トルクメニ?」
「もちろん、オレは待つって言ったんだけどな。でも向こうはもう心に決めててさ」
「……」
「そんでトルクメニスタンに行く当日に空港で」
「……あの」
「『これを付けて私を思い出してくれると嬉しいな』って言われて」
「あのぉ」
「それ以来、肌身離さず付けるように」
「嘘ですよね?」
呆れたぎこちない顔が確信めいた様子で言ってくる。充分に楽しめたので強く咳払いし、揶揄めいた顔で精一杯に笑ってやった。
「ま、ばあちゃんがオレへのプレゼントをレディースと間違えただけなんだけどな」
「は?」
瞳から色が消える。
「じゃ、じゃあ右耳に付けているのは?」
「中二の頃に開けたから何も考えてなかっただけ」
「……」
じわりと小豆の顔が赤に染まりつつある。
「ごめんな、せっかく青春っぽい話を信じて心配してくれたのに期待を裏切っちゃって。むふふ、一年生かーわいいぃ」
「どうしよう。さっきまで本気で同情してたのに、この人すっごい殴りたい……むかつく」
「オレは全力で殴り返すぞ。男女なんて関係ねえ」
「はあーあ、そんなのどうでもいいですよぉ。でも、他の人と違うって分かっていても、付ける位置や種類は変えないんですね!」
怒りを込めつつも関心ともとれる色合いの言い方だった。口調とは裏腹に小豆はいじけたように自分の爪を見ているが。
「変える必要があるか?」
「だって男の人がレディースのピアスを右耳に付けていると変な感じに見られませんか?」
「仮にそう見られたとしても気にしないタイプだから大丈夫」
「ですよね。美空さんはそんな感じがします」
「それにさ、」
一言だけ前置くと小豆と改めて目があった。
きょとんとした上目遣いが絵馬を見上げてくる。
「別に男子が女子の物を付けてようが、女子が男子の物を付けてようが、好きで付けてるなら関係ないだろ」
「……」
興味なさげだった瞳は、絵馬を数秒間だけ映すと色が追いついてくる。数カ所に瞳が寄り道すると、また絵馬を捉えた。
そしてどこか考え直したかのように、
「そう、かもしれませんね」
と、おどけたように小豆が笑った。
「美空さんは、意外と良い人ですね?」
「はあ? どうした急に」
「いえ、急にそう感じて」
「今更気がついたのか。オレはいつも良い人だぞ」
「はい、ちょっとだけ印象が変わりました。変な人ですけど、良い人です」
思いのほか得心が行ったらしく、表情は柔らかいものに変わっていた。
小豆の表情のスイッチが切り替えると、優しげに細めた瞳でくしゃりと笑う。
「良い考え方ですね。美空さんみたいな人が増えたらいいのに」
「オレは他人がオレみたいな性格だったらムカつくけどな」
「あ、自覚はあったんですね?」
今日初めて小豆が笑い声を上げた。
そこで会話が区切れた気がして絵馬は立ち上がる。
小豆はハムカツサンドをもう食べ終えている。そして完全に忘れていたが絵馬はまだ昼食を買えていないのだ。このままでは午後の授業がもたない。
小豆も察したのか、立ち上がって絵馬の隣に並ぶ。
「ハムカツサンド美味しかった?」
「はい。美空さんがオススメするだけのことはありました」
「へえ、よかった。オレも今度買ってみよ」
「オススメって嘘だったんだ⁉︎」
意味のない会話で校舎に戻ると、ぐぐぐっと身体を伸ばしてから歩き出す。
食堂からの帰りなのか、三年生の男女とすれ違う。ざぁけんなしっ! と考える絵馬とは違い、小豆はそれを興味津々に振り返ってまで見つめていた。
「いいですよね、ああいうの」
「よくねえよ、羨ましい」
「美空さんは彼女いるんですか?」
「いねえ」
おどけることも忘れて食い気味に即答してしまった。
「そうなんですか?」
「なぁに、美空さん彼女いそうなのに意外ですねーって? オレもそう思ってる」
「何も言ってないんですけど……」
言いつつも、絵馬の足元から頭頂へ舐めるような視線が向けられる。
「でもそうですね、てっきり美空さんは彼女がいるものだと思っていました」
「彼氏候補に二年の美空絵馬さんはいつでもフリーって一年に広めておいてな」
「……」
「無視は一番心にくるんだけど……」
「いえ、少し考え事してまして」
小豆は言葉の通りに熟考すると、不服そうに片眉を上げる。
「でもそうですか。なら放課後は暇ですよね?」
「彼女いないだけで暇って思われるのか。てかなんで?」
恋人の有無や放課後の予定を聞いたところで「ちょっとそこらへんでお茶でも」と遊びに誘われる間柄でもあるまい。
そう思っていたが、
「ついて来てほしいところがあって」
そう言われてしまう。
「オレに?」
「はい、美空さんに」
「へえ、どこ?」
「ちょっとバイトの下見をしたくて、ついてきてくれませんか?」
「なんだそれ。下見って慎重だな」
「いざ面接に受かって働くってなっても、変な人がいたら嫌じゃないですか?」
「ん、まあオレが変な人扱いされてるからよく分かんねえ」
「すごく悲しいことを言われた気がする……」
「ていうか白波と行けばいいだろ。オレじゃなくても」
絵馬からすれば、下見に行く意味も分からないがバイトの下見へ行くだけなら知り合ったばかりの絵馬じゃなくてもいいはずだ。
そう思っていたが、小豆は絵馬の顔を見ると、心底呆れたようにため息を吐いた。
「はあ? 琥珀が応募しようとしているところに行くんですから、琥珀が行ったらおかしいじゃないですか。馬鹿なんですか?」
あたかも絵馬が悪いかのように言ってくる。
「いや、どうして白波のバイト先を衛藤さんが見に行くんだよ」
「どうしてって……、怖いじゃないですか。もし悪い人がいたら琥珀が騙されそうでっ」
「なに、おまえ保護者なの?」
「違いますけど、心配です」
「仮にそうだとしても、それは白波が自分で考えることだろ」
意図が読めず、絵馬は投げやりに返した。
ただ小豆は納得がいかないようで、唇を尖らせている。
「そうですけど、あの子は抜けてるところがあるので、ちゃんと見ておかないと怖くって」
煮えきらない顔でぶつぶつと言っているが、小豆が行く理由にはなっていない。ただ、小豆の心配は白波琥珀という人物の説明をしている気がした。
「それはそうかもだけど、白波が見に行ってくれって頼んだのか?」
「頼まれてはないですけど……。で、でも行くんです。だから美空さんも来てください!」
「なんでオレなわけ……」
「だって美空さんなら押せばホイホイついてきそうですし。それに私は遊びに行くような友達がまだ琥珀以外にいないですし……」
「短時間にすごく心外なことを言われて、同じぐらい悲しいことを聞いた気がするんだが。先輩は二つの意味で悲しいよ」
「一人で行くのも恥ずかしいじゃないですか」
「意味分かんねえ」
本当に意味が分からない。自分のためならまだしも、他人のためにそこまでする必要があるのだろうか。どう考えても、これに付き合うのは馬鹿馬鹿しい。
ところがどっっこい、絵馬も健全な男子高校生。本心では可愛い女の子からのお誘いを断る理由もない。部活がないので、放課後は時間が有り余っている。
「いや、行くのはいいんだけどさ」
なんなら可愛い子とどこかに行くとか大歓迎だけどさ。そう続けようとしたが、絵馬がそれを口にする前に小豆が割り込んでくる。
「ほんとですか! じゃあ放課後に門を出て南側にある公園に待ち合わせで!」
「お、おお」
すかさず言ったもの勝ちとまた言葉を放り込んできた。
「それではよろしくお願いしますね」
最後は律儀に頭を下げると踵を返して駆けていく。振り返る直前に、瞬間的に持ち上がった口端が、彼女自身の本当の性格を表しているようにも見えた。
律儀な後輩という絵馬の中で出来上がっていた印象は、一日を持たずに崩れ落ちている。
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