第二章 1話


 昼休み。

 教室から廊下を挟んで正面にある図書室を訪れると琥珀を鉢合わせた。


「あ、こんにちは」

「……」

「図書館、少し気になっていたんです」 

 絵馬の視線を疑問と取ったらしい。


「本とか好きなんだな。言われてみたら、そんな感じもするけど」

「いえ、本はあまり読まないですね」

 じゃあ何でいるんだよ。そう思っていると琥珀が首を傾げていた。


「先輩こそ意外です。図書館に来るんですね」

 絵馬と本には整合性が見えなかったのか素直に言ってくる。


 だが、その予想は残念ながら外れている。

 絵馬はこの学校で誰よりも図書館を出入りしている。

「いや、オレは教科書をここに置いてるだけ」


 棚と壁の隙間から、次の時間で使う日本史の教科書を取り出す。家に持って帰るのが面倒なので、机に入らない教科書は教室の正面にある図書室に置いているのだ。


「なんだか先輩らしいですね……」

 昨日の今日で人柄を確立されてしまった。


 そんな琥珀は本棚から一冊の本を手に取っていた。見ると、『マンガで簡単、優しい高校数学』と見出しがある。


「絶妙に誰が読むんだよって本を読んでるんだな」

「高校の数学って何を言っているのか分からないです。授業のスピードも早いですし」

 通信教育講座の広告でしか聞かない。


「数学は苦手なのか?」

「……苦手というか得意じゃないというか」

「苦手なんだな。でも意外だな。てっきり才色兼備なのかと思ってた」


「……」

 なぜか琥珀が恨めしそうに見てくる。


「どうした?」

「私、全然そういうのじゃないのに。でもみんながそうやって勝手に期待するから」

「あーね。顔が良く生まれた人の宿命だな」

 どうしても容姿が良い人にはそれなりのステータスを期待してしまう。そのため、見た目とのギャップに驚かれることも多いはずだ。琥珀も容姿は良いが、その他はどこにでもいる一般的な女子高生ということらしい。


「でも一年のこの時期なら、数学はまだ基礎的なやつだろ?」

「そうですけど、公式の意味とか分かんないですし」

「公式だから意味なんて知らなくてもいいだろ。当てはめるだけだ」

「そう……ですけど。だ、だって数学って将来的に絶対に使わないじゃないですか。まず意味のないことをする意味が分かんないです!」

「うっわ、出たよ」

ただ、この小物感あふれる発言も普通の女子高生らしくて親近感が湧いてくる。


「だってそうですし」

「アホか。大学や企業が人の能力を測るには、こういう意味のないことにどれだけの努力を費やしているかが目安になんの。だから今からでも大学受験を意識して勉強しないといけないんだよ。先生も意味のないことを教えてる訳じゃないんだよバカ」

「うっ、教科書隠してるくせに、正論を…」

「ていうか数学はまだ楽だろ。オレは現文の方が何を言ってるのか分かんねえ」

「そういえば、この学校って二年生から文系と理系で分かれるんですよね?」


 ふと思い出したように言ってくる。


「先輩って理系クラスなんですか?」

「そうだよ」

「じゃあもしかして、数学が得意だったりしますか?」

「馬鹿にしてんのか、オレは家庭科学年二位の逸材だ」

 むしろ加点問題で114点と限界突破まで成功している。ちなみに一位は蒼だ。


「どうして家庭科……。数学を聞いてるんですけど」

「なぁに、教えて欲しいってぇ?」

「……すごくむかつきますけど、すごく頼みたいです」

「まじか」

「まじです」

 素直に言ってくる。


「じゃあ一年先輩のワタクシが教えて差し上げましょう」

「なら早速良いですか。聞きたいところがあって」

「いいけど、ここでやるのか?」


 こんなに広々としたところで教えていれば誰かしらには見られることになる。それが知り合いなら事実と異なる想像をされる可能性もあるはずだ。


「ダメでしたか?」


 ただ肝心の琥珀は何も分かっていない様子で安直に口を動かしていく。そんなこと気にしていない、といった様子には見えない。


「同学年に見られてもいいのか、って意味」

「……?」

「誤解されて変な噂を作られたら嫌だな、とかないのか? ないなら別にいいけど」

「……あっ、なるほど」

 そこでようやく理解したらしく、ふむふむと納得していた。やっぱりどこか抜けている。


 そんな琥珀は寸秒の思考を重ねると解決策を見つけたらしい。

「じゃ、じゃあ生物準備室とかは?」

「あらあら、昨日は教室に入っていいのか渋っていたのに大丈夫なんですかぁ?」

「先輩にだけは言われたくないんですけど」

「オレが何をしたんだよ。それに……」

「先輩?」


 絵馬は会話の途中で言葉を止めた。


「どうかしました?」

 琥珀はその意図を知らずに、こてんと首を傾げている。

 

 一秒……、三秒……、五秒、と時間が静かに過ぎていき、絵馬は目の前で起こった一連の動きを見届けた。


「本当に見えてないんだな?」

 男子生徒がいなくなったことを確認して、答え合わせを始める。

「え?」

「いま三年の男子が通ったぞ」

「え、今ですか?」

「ああ、オレたちの真横」


 向き合う絵馬たちを邪魔そうに見ながら横を歩いていた。男子生徒がそんな顔をしていた理由は琥珀が道を譲らなかったからだ。

 

 これだけの距離にいても、琥珀は通路の中央で立ち止まって、顔色を一つも変えずに絵馬を見ていた。


 疑っていたわけではない。


 ただ、話を聞いた後にこうして現実を目にすると心にくるものがある。

「やっぱりきついか?」

「いえ、私は特には」

 すぐに出た単調な言葉に続きが添えられる。

「でも、それで誰かが嫌な思いをするなら少し嫌です」


 自分を悔いるように、早口で口にする。

「私、教室でも男子を無視しているらしくて。前に同じクラスの子に言われました」

 そっか。

 そう返して、絵馬は琥珀と肩を近づける。つぶらな瞳が絵馬を見ていたが、他意はないと察して安心するように教科書に視線が戻った。


「で、分かんないところってどこ? 俺の分かる範囲ならすぐ教えるけど」

「あ、はい。ここの式なんですけど」

「……」


 やっぱり腑に落ちない。


 男子が認識できないことで、琥珀が良い方向に進んでいるようには見えなかった。

 最短の近道を体に促す逃避性プラシーボは本当に彼女に良い影響を与えているのだろうか。


 そもそも琥珀には本当に逃避に促すほどのストレスがあるのか。

 今はそれらしきことすら感じない。


「先輩?」

「ん、ああ、ごめん。どこだっけ」

「ここです。この数字の上に線があるやつの複合問題です」

「ここは……オレも分かんねえわ」

「……は?」

 絵馬には大きなストレスを抱えていない、至って普通の女子高生にしか思えなかった。

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