第一章 6話(2)

 琥珀の場合は記憶と結びつけるどころか、男子の存在そのものが見えていないのだ。

「盲点って聞いたことはあるでしょ?」

「聞いたことならあるけど」

「それで考えると分かりやすいよ」

「でも盲点って本当にあるんですか?」


 言葉ではよく使うが、実際に存在しているのかは知らない。実際に見たこともなければ、体験したわけでもない。そもそも見えないから盲点なのかもしれないが……。


「人には盲点が存在するよ。盲点は逃避性プラシーボに関係なく誰にでもある」

「オレにも?」

「私にもね。見ている景色の中には、実際は小さな点ぐらいの大きさで見えていない部分があるんだよ」

「嘘だぁ?」

「両目だと分かりにくいけどね」


 千草はそう言って、絵馬を見ながら片目を閉じた。


「なんでウインク? 愛情表現?」

「こんなふうに片目を閉じれば、視界のどこかに見えない点ができる」

「まじ?」

「やってみたら?」


 言われた通りに目を閉じるが、見えない点というのは理解しがたい。


 そもそもの話、見えない点があれば、パズルの埋まっていない空間が分かるようにすぐに視認できるはず。

 だがそれは確認できなかった。

 絵馬の思考を感じ取ったのか、千草はスマホの画面を絵馬に向けてきた。大きな黒色の丸が右側にあり、左側には同じ大きさで赤色をした三角形の画面。背景は白なので二つの図形はくっきり確認できた。


「なにこれ?」

「分かりやすく盲点を感じることができる画像。左目を閉じて右目で三角を見て」

 言われた通りに右目で三角を見つめる。

「見つめたままゆっくり距離を近くしてきて。そしたら黒い丸が見えなくなる」


 不信に思いながら言われたままに十センチほど近づくと、焦点に合わせていなかった黒い丸が本当に見えなくなった。


「……お、おお」

「どう、分かった?」

「なんかすごいっすね。見えなくなりました」

「これが盲点。黒い丸があった場所は絵馬の視界ではどう映ってた?」

「普通の景色に見えた気がする」

「その盲点の場所には脳が違和感を作らせないように補正をかけるの。だから日常生活でも、ごく自然の景色に見せているってこと」

「人間って便利すぎだろ」

 もしかすると脚フェチも理論で説明できるかもしれない。


「どういう原理でこれが起きているんですか?」

「盲点がある場所には視神経乳頭って視神経の出口があるの。それが阻害して部分的に見えない空間が生まれる」

「あ、なるほど。ししんけいにゅうとうね。でも、どうして盲点の話をしたんです?」

「失認した存在……その子の場合は男子だよね。つまりその子の脳が、男子の存在を普通の景色として補正をかけたら、男子が盲点と同じ存在になるってこと」


 琥珀は男子を景色として誤認している。

 千草が言いたいのは、そういうことらしい。


「聴覚も同じだよ。男子の声域にだけ失認を起こせば、あとは男子の声を生活音にすることができる」

「すごい話だけど、意味が分かんない」

「生物学的にありえるっていうのはそういうことだよ。確率的に出来るわけがない。でも出来ないわけではない机上の空論。分かった?」

「分かったけど、まだちょっと引っかかってる」

「まだあるの?」


 申し訳ないことにまだ解決しきっていないのだ。それも絵馬が一番知りたいことが……。


「その中でオレだけが見えるっていうのはありえますか?」

 琥珀は男子全員を見えていないわけではない。絵馬や琥珀の父親、そして教員が男性であるにも関わらず見えている。これが何かの鍵になっているはずだ。


「ありえるんじゃない?」

 また千草が即答する。


「逃避を引き起こしている子が、絵馬のことを良い人って思えばいい」

「え、良い人って。それだけ?」


「その子の中で絵馬って人間を信用すればいい。その白波っていう子から目を逸らしたいっていう対象じゃなければ、絵馬は自然と認識できる」

「でも昨日初めて話したんだけど?」

「噂話の一つでも聞けば、それでいいんだよ。絵馬に対するいい噂」


「そんなことでいいんすか?」

「うん」

 拍子抜け。この言葉はこういう状況で使われるのだと思い知らされる。


「でも、そんな噂あるかなぁ」


 自分のことながら自信がない。それも入学したばかりの一年生となると、あるかも分からない噂が広まっている気がしない。


「確かに、絵馬にいい噂はないか」

「まあ本物のヒーローは見えないところで活躍してま————」

「じゃあ共鳴かな」

 千草は退屈そうに爪を眺めながら、無視して他の仮説を出してくる。


 容姿こそ似ているが気分で生きている蒼と理屈を考える千草とでは、姉妹には思えない瞬間がある。

 ふとそんなことを思ってしまった。


「共鳴は覚えてる?」


 小学生の頃、Y字の形をした音叉という金属を二つ並べて実験した覚えがある。右側を叩けば左側が同じように振動して音を真似していた。

「同じ振動数をもつ物から送られてきた波がぶつかることで、もう一つにも振動が伝わるってやつ」

「覚えてるけど何の関係が?」

「お互いに波を送り合うことで音が反響し続けるでしょ。今回のことは金属じゃなくて細胞として考えていけばいいだけだよ」

 千草は簡単に言うが、どうにも簡単には聞こえてこない。


「あの、そもそも細胞に振動とかあるんですか?」

「あるよ。振動のおかげで自然治癒があるから」

「ほ、ほう……?」


「だから絵馬の情報が波として白波さんに共鳴されたのかもね」

「やべえ、すっごく分かんねえー」

 千草は「馬鹿なの、小学生?」といった表情を浮かべる。


「白波さんの細胞が『男子を認識したくない』って情報を波として伝えて、その情報を受け取ったもう一人の細胞が白波さんから受け取った情報を『絵馬は大丈夫』って工作して、白波さんに波を返したってこと」


「でも振動するのは同じ振動数を持つ物体の話ですよね」

「細胞の振動数は解明されてないよ」

「また理論上は、ってことか。それが白波がオレを認識できていて、他の男子を認識できていない状況を作っているってことですか?」

「多分ね」


「でもそれなら白波の他にもう一人、関わっていることにならないですか?」

 色々と首を突っ込みたい気持ちは抑え、一番の疑問を聞いてみる。

 千草の仮説が正しいのなら、ある人物が琥珀に『絵馬は大丈夫』といった情報を伝えていることになる。


「それは絵馬を信用している人だったら誰でもいいんだよ。絵馬自身でもね」

「オレのことを大丈夫って思っている人が白波と共鳴して、オレの情報を白波の細胞に伝えたってことですか?」

「そういうことになるね」

「オレを知っている人が白波と細胞の振動数が偶然同じで『オレは大丈夫』って情報を白波に共有……。訳わかんねえ」

「本来、他者と情報を共有するには耳や目のような受容器を使うでしょ。それ以外の方法で情報を共有させるなら、いま説明したような共鳴によるテレパシーしかないと思うよ」

「へえ、テレパシーってそういう原理なんだ?」

「知らないけどね」


 琥珀は絵馬という存在を大丈夫な人間と脳で無意識に認識し、男子を認識しないように逃避を考えた。

 絵馬は琥珀に大丈夫と認識されているので、『認識したくない』カテゴリには含まれないというのが千草の仮説。


 そして、その考えにプラセボ効果を起こして、絵馬以外の男子が認識できなくなった、ということ。


「でもそれって、かなりの偶然が重なってますね?」

 宝くじの確率が簡単に思えそうな数値で起こっているはずだ。

「これは生物学的観点での机上の空論」

「そう言えばそうだった」

「男子を避ける理由なんて数え切れないほどありそうだけどね。その中で絵馬だけが関与していなかったのかも」

「オレだけが関与してないってあるかなぁ」

「ピアスとかは当てはまるんじゃない?」


 確かに槻志野高校でピアスをつけているのは絵馬だけと琥珀は言っていた。ただピアスに安心する要素は浮かんでこない。


「そもそも女子高生って何を悩むんですか?」

 理論を聞いたところで解決方法は分からない。

 これは根本となる逃避を促すストレスからの解決が良さそうだ。


「それを女子大生に聞くんだ?」

「元現役女子高生なので参考になるかな」

「何それ」

 呆れて笑われる。


「でも、そうだね」


 千草は遠くの空を見つめている。

 もしかすると在りし日の高校生活を思い出しているのかもしれない。

「まあ異性と話すことで起きる同性間の問題、とか?」

「まあそれが最初に浮かびますよね」

 大人の男性が当てはまっていないことで、その推測が最初に浮かんでくる。


「女子なんて、どうでもいいことで単細胞に変わるから」

「うわー、女子がそれ言うか?」

「女子だから言えるんでしょ。で、その子は悩んでいそうなの?」

 そう、それが絵馬の頭に混乱を招いている原因だった。


「いえ、そんな感じがしないんです。ストレスを抱えているようには見えなくて」

「隠しているだけじゃなくて?」

「隠せるような性格にも見えないです」


「ならその子が原因じゃないのかもね」


 淡白に千草が言う。

「どういうこと?」

「共鳴の話をしたでしょ。今の時点で絵馬が逃避をしているって思っている白波さんは、他の誰かの逃避性プラシーボに巻き込まれているのかもしれないってこと」

「他の誰かって?」

「それは知らな……あっ」

 会話の途中で、千草から単調な声が漏れた。

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