第一章 6話(1)

 

 午後五時にもなると日の色は少しずつ濃くなっていく。ブレザーを纏った高校生が歩いていても疑問に思われない時間に絵馬は一人で公園のベンチにのけーっと座っていた。


 大分駅のすぐ近くにある芝生の広場は、夕方前の時間帯には、親子連れに小学生や中学生と幅広い層が見て取れる。


「おー、犬」

 無心で座っていると、見知った一匹の子犬がヘっヘっと右足に寄ってくる。

 その頭を椅子から降りて軽く撫でていると、子犬に続いて一人の女性が歩いてきた。


「待った?」

名前はレタス。これは犬の名前。


「いえ、さっき着いたので全然」

「四時半に集合なのに、さっき着いたってことは絵馬も三十分遅刻してるんだ。ひどいね?」

 伊佐町千草は悪怯れた様子もなく、真顔で言ってきた。

「庇ってあげたんだけどなー」

「本当はどれくらい待ったの?」

「三十分」

「十分前集合は基本だよ?」

「四十分後が何言ってんだよ。急に誘ったのオレだから別にいいですけど」


 清潔感のあるトップスにシンプルなジーンズ。メイクは高校にいる派手な感じではなく、自身の特徴を残している。蒼の姉だけあって顔立ちは蒼と似ていた。


「それより絵馬と会うのは久しぶりだね」

「卒業式以来だから二ヶ月ぶりぐらいですね」

「それで、その部活は私が卒業してからは行ってないんだ?」

 落ち着いた空気感で淡々と聞いてくる。

 歳は二つ離れているが、数字ほどの年上らしさは感じない。

「いや違くて。今、顧問が入院してるから活動できないんですよ」

「入院? 病気でもしたの?」

「食あたりらしいですよ。ホルモンがどうのって」

「なら良かった。……いや良くはないのか?」

 まあいっか、と顧問が聞いたら泣きそうな結論に至ると、

「それでどうしたの?」

 と雑談も程々に言われてしまう。


 千草に連絡を入れたのは聞いてみたいことがあったからだ。なので積もる話はおいて、要件を先に済ませることにした。


「逃避性プラシーボの話です」


 言葉の引力に引かれると思ったが、千草はレタスを追って歩き出してしまった。

 何も言わずに付いていくと、少ししてから朗らかに口端を上げた。


「絵馬からその名前を聞くと思わなかったな」


 いつもより落ち着いて、それでいて愛嬌がこもった低い声だった。

「千草さんは進路もこれを調べる進路に行ったんですよね」

「うん、研究してる教授がいるから。でもそっか。ならおもしろい話が聞けるかも」

 千草は絵馬に逃避性プラシーボの存在を教えてくれた張本人だ。個人的にも興味を持っているらしく、大学もそれで決めている。

「いいよ。散歩しながら教えてあげる」



 

 絵馬は琥珀に起きていることを五分ほどかけて千草に話した。

 その間、千草は相槌だけに専念し、レタスも真剣に尿を足していた。


「眼科と耳鼻科は駅に近いところが良いらしいよ?」

 そしてこれが千草の第一声。


「それで、男子だけが認識できないってありえるんですか?」

 話が進まない気がして、無視して単刀直入に問うてみる。


「ありえるんじゃない?」

 即答だった。

 考える余地すらない自信の溢れた回答。

「別に逃避性プラシーボじゃなくても、認識できないって状況はあるよ」

「そうなの?」

「わかりやすいので言えば、認知症とか」

「あ、そっか」

 人間の構造上ではありえる、ということを言いたいらしい。


「でも認知症の症状が健常な高校生に起こるものなんですか?」

「認知症は脳の疾患に合併することが多いかな。健常者の高校生にはあまりいないかも」

「なら違うんじゃ?」

「でも、生物学的にはありえるよ」


 千草はペットボトルを開けて、レタスの尿を水で薄めている。

「逃避性プラシーボは、脳内にある細胞が考え方を極端に変えることで発症する一種の防衛反応って話は前にもしたよね」

「自分に都合のいいように細胞が働くんでしたよね?」

「そう。精神的に受けたストレスに脳細胞が耐えきれなくなって、極端な逃避の考えを無理やり完成させること」


 人は理論上では壁をすり抜けることができる。そんなことを耳にしたことがある。それは量子力学的観点から可能性があるというだけで、確率的にはありえない。

 逃避性プラシーボとは、生物学的観点での机上の空論の話になる。


「認知症は生物学的にはありえる事象だから、それを起こしてしまえばいい」

「起こしてしまえば、って簡単に言ってるけどそんなのできるんですか?」

「人の体は脳に従うからね」

 千草の返答は簡単で極端なものだった。


 そのまま千草は話を進める。

「人の記憶は側頭葉ってところに保存される。ならそこを一時的に壊してしまえばいい」

「壊したらどうなるんですか?」

「目の前にあるものと、記憶にあるはずのものが照合できなくなる。それは医学的に視覚性失認って名前が付いてる」

「しかくせいしつにん?」

 意味が分からず繰り返すと、千草はあるところに指を伸ばす。

「あそこにあるオブジェはどういう役割をしているか覚えてる?」


 千草の視線の先には公園内にある大きな器型のオブジェ。近くを通るたびに「あれ、意味ねえだろ」と絵馬はいつも思っている。


「いや、覚えてるも何も、役割とか聞いたことないけど」

「前にも説明したよ?」

「え、まじで?」

「……」

「……」

「……」

「……?」

 千草が何も言わないので首を傾げていると、馬鹿にするように小さく笑われる。


「こんな感じで記憶にあるはずの過去を忘れている状況を失認って言うの」


「は、え、どんな感じ?」

「絵馬は、あのオブジェの役割を説明された記憶がないよね」

「だってされてないし」

「でも私は説明したって言っている」


 今からするのは仮の話ね。

 と、千草は前置きを済ませた。


「もし私があのオブジェの役割を絵馬に本当に説明して、当時の絵馬が理解していた場合、今の絵馬はあのオブジェを失認しているってことになるの。記憶にあるはずなのに、思い出せない状況」

「説明を忘れているだけじゃなくて?」

「忘れていたら具体的なことを言えば思い出すでしょ。でも失認は思い出せない。思い出すためには視覚以外の情報がいる。触覚に嗅覚に聴覚に痛覚」

 音や匂いは出していない。触覚ならなんとかなるかもしれないが、そもそも絵馬はあのオブジェに触れたことがない。


「それを人に置き換えたらいいだけだよ」

 琥珀の場合はオブジェではなく、男子ということ。

「じゃあ男子を触ったら男子のことが分かるんですか?」

「原因が失認だと決めるなら、そういうことになるね」


「でもさ、」

 浮かんだ疑問を素直に口にしようとしたが、それは千草も承知のようで、

「言いたいことはわかるよ。そもそも男子が見えてないんだもんね」

 と、代弁してくれる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る