第一章 4話(1)


「ここ、入っても大丈夫なんですか?」

 警戒を灯しつつも一年生は絵馬が案内した生物準備室に足を踏み入れる。


 電気もついてない薄暗い部屋では傷の付いた机や木材の匂いが不穏な空気を作り出していた。


「下足室でずっと話すわけにもいかないだろ」

 言いながら電気を点ける。


「でもここって先生が使う場所じゃないですか? 準備室って名前があるぐらいですし」

「いつも人いないから平気だろ」

「て、適当ですね。大丈夫かな、この人……」

 一年生は呆れてこそいるが、それで観念してくれたようだ。


「そういえば名前は?」

 すっかり聞きそびれていた。


「え、私ですか?」

「どうしてこの状況で私じゃないんだよ。もう一人見えてんのか」

「あっ、確かに」

 その考えはなかった! という顔で納得してくれた。どうやら少し抜けているらしい。

 端正な見た目とのギャップで驚きはあるが、これはこれで親しみやすさがある。


「私は白波琥珀って言います。一年一組です」

「しらなみこはく」

「はい、白い波に琥珀色の琥珀です」

「へえ、綺麗な名前してるんだな」


 正直な話、琥珀色の琥珀は現代文テスト一八点の絵馬には微塵もわからなかった。

 それでも最後に素直な感想をもらすと、琥珀は困惑したように眉を寄せる。


「え、ありがとうございま‥…す?」

「なんで疑問系?」

「だって私が決めたわけじゃないですし」

「でも白波も琥珀もいい名前だぞ。羨ましい」

「あっ、確かに先輩は絵馬って顔じゃないですもんね!」

「道理で羨ましがってるわけだ、みたいな顔すんな。絵馬って最高の名前だろ。ちょーかっけえだろうが!」

 そもそも絵馬って顔とはどのような顔をしていれば認められるのだろうか。


「それより、どうして白波はオレの名前を知ってるんだ?」

 問いかけると、琥珀の視線が絵馬の右耳を見つめる。


「昨日、女の人を凝視する変態ピアス男と出会って」

「不審者か、気をつけろよ。で、その変態は名前も晒されてるのか?」

「気になって、ピアスの男子を陸上部の二年生に聞いてみたら、この学校でピアスをしているのは先輩だけって教えてもらいました」

「ああ、そういうこと」

「はい。すぐ分かりました」


 口では納得したが動機がまったく読めない。


「先輩ってそんなに有名なんですか?」

「ピアスしてるだけ。パッと見で怖いとはよく言われるけど」

「私も怖い人って思っていました」

「正直だな。でも怖いと思っていたのに、よく話しかけてきたな?」

「なんだが大丈夫な気がしたので。あと実際はお調子者っぽいですし」

「やかましいわ」


 言いながら軽く教室を見渡し、木材の主張が強い本棚を見つける。本棚にある埃被った数冊から細胞生物学の教材を取り出すと適当な机に置いた。


「それより、話を戻そうぜ」


 ここの教室に来たのは雑談を長々とするためではない。琥珀が口にした逃避性プラシーボを説明するためだ。それは彼女も分かっているはず。

「なんだかゴキブリが出そうですね。この教室」

 分かっていないようだった。

 辺りを見渡してきょろきょろしている。教科書には見向きもしていない。


「ゴキブリは見たことないから安心しろ。ていうか、ほら、これ。こっちを見ろ」

「なんですか、これ?」

 ようやく琥珀が覗き込んでくる。

「細胞生物学の教科書」

「それは表紙に書かれているので分かりますけど、どうしてこれを?」

 確かに脈絡はないと思っても無理はない。


「知りたいんだろ。逃避性プラシーボ」


「これと関係しているんですか?」

「まあ少なからずは、って感じだな」

「あの、私、名前しかわかっていなくて」

「いいよ、オレも少しなら説明できるし」

 

 脳内で言葉を生成して言葉にしていく。


「逃避性っていうのはそのままで、プラシーボっていうのはプラセボ効果のこと。それを合わせて逃避性プラシーボ」

「プラセボ効果……?」


 ぱちぱちと瞳をちらつかせている。


 プラセボ効果というのは偽薬を本物の薬だと偽って投与すると患者の病状が良好になっていく、という海外で行われた実験がもとにされている。

 要は思い込みが本当に変わるということ。

 そのメカニズムは解明されていない。

 説明すると、ふむふむと琥珀は頷いていた。


「逃避性プラシーボは人間の生物学上ではありえる出来事が起こす一つの逃避行動のこと。つまり机上の空論を現実でも実現させることができる」


 言いまとめるが、琥珀は首を傾げた。


「あの、そもそも逃避行動っていうのは?」

「嫌なことがあれば、現状から目を逸らしたくなるだろ。ほら、テスト前に勉強をしないで部屋の片付けを始めたり。そういうのを逃避行動って言うんだよ」

「あっ、夕食が嫌いなものだって知らされた時に、ついつい甘いパンを食べたくなるやつですよね? 私だけじゃなかったんだ」

「まったく違うし、多分お前だけだ」


 それはどんな現象だろうか。

 よく分からないが琥珀は夕飯から逃避しているらしい。


「部屋の片付けよりも、もっと大きな逃避行動を頭で考えて、身体の細胞が過剰に思い込むことで、本当に発症してしまうのが逃避性プラシーボな」

 

「か、過剰? あ、それがプラセボ効果なんですね」

「そういうこと。脳の細胞が大きなストレスに対して極端で最短の答えを見つけて、それを一つ一つの細胞に伝達させて実際に実行する。まあ要するに脳内で考えた最短距離で解決できる逃避が本当になるってわけだ」

「なるほ……ど?」

 言いながらも琥珀はまだ首を捻っている。


「たとえば、家庭科の授業中に読んでいた漫画を先生に没収されるとするだろ」

 例えを出すことにする。

「え、はい」

「その漫画にあるちょっとだけ、本当にちょっとだけえっちなページを開かれて、クラスのみんなに『こんなの読んでるんだぁ』って言いふらされる。中学生っていうのはな、それ以降、あだ名が官能になるんだ……」

「あの、なんの話ですか?」

「まあ聞け。そして官能と言われた子は『くっそぉ、こんな恥ずかしい姿、誰にも見られたくない……』って思うようになるとするだろ。そのときに逃避性プラシーボが起これば、実際に自分が周囲から見られなくなる状況が生まれるってわけだ」

「でも、それは官能の先輩が悪くないですか?」

「おい、官能って言うな。あとオレじゃないんだからね!」

「つまり思ったことが本当にそのままになるってことですよね?」

 絵馬のツンデレをいとも簡単に交わし、琥珀は答えにたどり着いたようだ。


「でも生物学上ってどういう原理ですか?」

「まあ今のは例えだけど、」

 当然、そこが気になるはずだ。それを見越して、絵馬はこの教科書を取り出したのだ。

 

 絵馬が見せたいのは教科書本体ではなく、その教科書に挟まれた三枚のプリント。ホッチキス留めにされた一束を取り出すと、琥珀は興味ありげにプリントを覗き込んでいた。


「これは?」

「その中の一つの症例……の仮説だな」


 一枚目には『神隠し』と左上に記載され、その下には細胞の構造が説明されている。


 二枚目からは視覚の伝導路や細胞膜の透過性、精神的ストレスによる逃避行動の説明がつらつらと書かれていた。


 そして、それらに関与する細胞が過剰に反応した場合の仮説がいくつか立てられている。

 数秒間、それを眺めていた琥珀はごくりと息を呑んだ。


「全然分かんないです……」

「全身の細胞が皮膚や臓器を分子レベルに分解して見せることで、皮膚が光の反射レベルに至らずにそのまま透けて見えるってこと」

「……え?」

「全身の細胞を分子レベルに分解して見せることで、皮膚が光の反射レベルに至らずにそのまま————」

「い、いや聞こえてますけど。ぶ、分子レベル? ……分解?」

「これは逃避性プラシーボの一つの例な。神隠しっていうのは生物学上では説明ができるってこと」

「え、ほんとうに?」

「理屈ではな。すごいよな」


 プラセボ効果のメカニズムは解明されていないため、逃避性プラシーボは常に机上の空論となり、仮説に留まる状況になる。


「何か質問はある?」

「い、いえ、ありますけど、聞いても私が理解できないと思うので」

「まあオレも聞かれても答えられないことばっかりだしな」

「でもすごいですね、これ。先輩が作ったんですか?」


 プリントを持ち上げて感心されてしまう。

 また読もうと頑張っているが、意味がわからないと顔を青くして目を離していた。


 琥珀が頑張っている隣で、絵馬は丸いすを引き寄せて腰を下ろした。隣に置いていた椅子を琥珀に寄せるが、当人はそれに気づかずに、ほけーっと立ち尽くしている。

「これはオレの先輩が書いたやつ」

「先輩の先輩、ですか?」

「そう、水泳部の。去年に卒業したんだけどな」

「先輩、水泳部だったんですね」

「先輩は水泳部なんですよ。で、男子が見えないんだっけ」

 話が脱線しそうな気がして強引に戻すことにする。


 神隠しや記憶喪失、記憶の改ざんにテレパシー。逃避性プラシーボが原因と言われる現象は色々あるらしいが、男子が見えないという逃避は聞いたことがなかった。


 それ以前に絵馬には引っかかることがある。


「なあ一ついいか?」

「はい?」

「オレは見えてるんだよな?」

「それは、私にも分からなくて、」


 ブレザーの袖口を握りしめ、丸い瞳が不安そうに現れる。本人には申し訳ないが、凛々しい容姿をしているだけに、弱った一面が少し可愛く思えてしまう。

「声をかけられた時、男の人は姿だけじゃなくて声も聞こえないんです。それなのに先輩だけは見えるし、声も聞こえて」

「だから廊下で男子を無視してたのか」

「む、無視じゃないんです。か、形的にはそうなってるかもしれませんけど」

 不服そうに不貞腐れている。


「オレ以外に見える人はいないのか?」

「普通にいる男の人は見えるんです。でも声をかけてくれた人は、いつも知らないうちに無視しているらしくて」

「じゃあ声さえかけてこない人は見えているってことか?」

「目は合わないですけど、教室にいる男子は見えています。ただ見えているのが全員かは分からないので」


 遠目から見られているだけの男子は認識できていなくても、周囲や琥珀自身がそのことを確認する術はない。男子から声をかけられることで、初めて琥珀が認識できていないと理解できる状況が生まれる。

 つまり絵馬も本当は女子から遠目で意識されているのかもしれないということ。絵馬が視線に気がついていないだけで。


「父親は?」

「お父さんは話していませんけど話せると思います」

「ああ、そういう時期ね。パパかわいそうだから話してやれよ」

「あっ、あと学校の先生は男の人でも大丈夫なんです」

「へえ、それはまた……」


 つまり、大人は認識できているということ。


「いつから認識できてないんだ?」

「……」

「白波?」

 申し訳なさそうに唇を尖らせて、琥珀が静かに口を動かす。

「そ、その、それも分かってなくて」

「どうしてだよ?」

「私、中学生の頃は男子に声をかけられることが稀だったので。初めて気がついたのは入学式なんです」

「そっか。いくつも質問して悪いけど、なにか悩みとかあるか?」


 これが本当に逃避性プラシーボなら、逃避を引き起こしている根本のストレスがあるはずだ。琥珀が逃避を解決したいのなら、そのストレスをなくしてしまえばいい。


「悩みですか?」

「そ、悩み」

「悩み……悩みですか」


 意外なことに長考を始める。

 たっぷりと頭の中を探ると真剣な表情のまま何かを閃いた。


「バイトの履歴書にどんな長所を書くか…」

「お前すげえ平和な人生だな」

「だ、だって自分の長所なんて自分で分からなくないですか?」

「長所なんて『自分の長所に気が付かない謙虚なところ』って書いとけばいいんだよ。店長に変な顔をされて面接に落とされる以外は何も問題ない」

 ちなみに短所は『自分の短所に気がつかない傲慢な心』である。

 絵馬はこれで二店舗からまたの機会に、と言われている信頼と実績がある。


「落ちたくないから悩んでいるんですよぉ」

「落ちてもなにもないだろ。経歴に残るわけでもないし」

「心が削られます」

「なんだそれ。でもバイトってことは部活はやらないんだな?」

「いえ、出来ればバイトもして部活もしようかなと思っていて」

「へえ、何部?」

「えっと、バレー以外?」

「なに、その珍しい返し」

 思わず吹き出すように笑ってしまう。


「バレーは中学でしていたので、何か違うことがしたくて」

「あーね。挑戦ってやつか」

「そんな感じです」

 それに関しては実に高校生らしい悩みだ。

 高校入学という人生に一度しかないこの機会に、心機一転するのは何もおかしいことではない。


「でも男子が見えないとバイトもできそうにないな」

「そう、ですよね」

 屈したように琥珀の顔が俯く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る