第一章 3話

 放課後になると、鳴り響く運動部の掛け声が夕焼けの下で烏と掛け合いを始める。青春の呼吸を鼓膜に通し、一人で北校舎の中央階段を下りていく。踊り場の小窓から四つの部活を視界に入れた。そこで数秒だけ立ち止まると、手すりに肘をつく。


 サッカー部に陸上部、女子ソフト部に野球部と四つの部活がグラウンドで仲間と共に成長を志している。やや窮屈な四分割は心なしか全国大会出場経験を持つサッカー部に忖度が見えた。それは各部活の人数も関係しているのかもしれない。

 誰も答えを教えてくれない解を導くと、また歩みを再開した。

 ただ、すぐに足を止める。


「なにしてんの?」


 昼に食堂で会った背の高い一年生がそこにいた。

 二度あることは三度ある。

 その言葉の通り、彼女との遭遇率が異様に高い気もするが、今回は偶然ではない。


 彼女は学校の生徒なら誰もが通る下足室の前で立ち尽くしていたのだ。

 暗さを帯びた横顔は物憂げに美しく、一枚の絵画のように成り立っていた。立ち止まって変質者のように眺めていてもよかったが、身体は脱力しきり、天に身を任せているかのような無の感情がどうしても気になってしまった。


「え、……っ」

 絵馬を捉えた途端に一年生の瞳が揺れる。

「あ、あのっ、二年の美空先輩ですよね」

 慌ただしく一年生の口が動く。


「そうだけど、どうかした?」

「少しだけお時間いいですか」

「別に良いけど、オレでいいの?」

「先輩にしかダメなんです」

「え、こっわ」

「怖くない話です」

「へえ、ならすべらない話?」


「逃避性プラシーボって知っていますか?」


 耳が拾い上げた言葉に、焦点が自然と一年生に定まる。

「逃避性プラシーボ?」

「聞いたことありますか?」

 強い一押し。どうしても言質を取りたいらしい。


「あるよ。知ってる」

「……」


 答えたが、一年生は目線をよそに変えて口を閉じてしまった。


 静寂に包まれた校舎が、ぎこちない二人の空間をさらに装飾する。会話はキャッチボールと習っていないのだろうか。これだから最近の子は困る。

「それがどうかしたのか?」

「それについて教えてもらえませんか」

 その言葉には微量の戸惑いが含まれている。


「別にいいけど、なんで?」

「なんでって、それは、」

「……」

「……」

「……それは?」


 またしても沈黙が出来上がってしまいそうだったので話の続きを促しておく。沈黙に二度付け選手権があれば間違いなく優勝できると確信してしまった。

「……」

 続きを促したが、一年生は絵馬を見つめては下を見る。その動作を繰り返していた。


 気まずい。その感想に尽きる。


 とりあえず名前でも聞いてみるか。なんて気ままに話題を考えていると、幸運にも二年の男子生徒が階段から下りてきた。


「おー美空じゃん。美空もいまかえ……」

 そこまでを口にしたところで男子生徒も一年生の存在に気がつく。男子生徒は異様な空気感にある絵馬と一年生を見比べると、ニヤけて小指を天井に伸ばした。

「美空の彼女?」

「……」

「……」

 絵馬も一年生も何も言わず、しらけた空気が完成してしまう。ちょっと男子ーっ! とはこういう状況を指した言葉のようだ。実によく出来ている。


 呆れて否定しようと、途中まで言葉を紡いだ時だった。


「あのなぁ、くだらないこと言って————」

「わ、私は————」


 一年生と絵馬の言葉が重なってしまう。


「えっ、あ、……ごめんなさい」

 声が重なり、一年生は驚いたように絵馬を見て謝ってくる。それをおもしろおかしく笑いながら、助け舟を沈没させた男子生徒は靴を履き替えて逃げていった。


「……」


 一年生はまた口を閉じてしまった。

 間が悪い。それで済ませていいことではない気がした。


 何かがおかしい。

 一年生の戸惑いの顔つきが顕著に表れている。それに、一年生は二年の男子生徒に一度も視線を向けていなかった。意図して向けていないわけではなく、ありのままに立っていただけ。

 

 そして絵馬と声が重なるまでは第三者の存在を気にも留めておらず、声が重なってからは驚く素振りを見せていた。

 色々と引っかかるが、話を戻すことにする。


「悪い、なんの話してたっけ?」

「今、誰かと話していたんですよね?」

「二年の男子。ごめんな、騒がしくして」

「そうだったんですね。……わ、分かりませんでした」

「はあ? 普通にそこにいただろ?」


「……」

 嘘じゃない。ここでの無言がそう表している。

「どういう意味だよ?」

「そのままの意味です」

「だからどういう……、ああ、そういう」


 思わず一人でため息を吐く。


 一年生は嘘をついてない。それは表情から分かる。

 確信となったのは彼女の口から出た言葉が大きく助長してくれた。


 なぜ彼女が『逃避性プラシーボ』という名前を出したのか。関係していないわけがない。


「あの、おかしいやつだなって思ってくれて構いません。それでも聞いて欲しくて」

 一年生は下を見たまま、前置きを済ませる。


「私、男の人が認識できないんです」


 幼子のように弱い声でそう言うのだった。

 

 

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