第67話 法神流・中沢真琴

「あなた! 大丈夫!」

「林太郎さん!」


 沖田総司と姉みつ、そしてアーシアが飯田橋の新徴組屯所に駆けつけたのは夜四ツ(午後10時頃)を過ぎたときだった。林太郎が重傷を負ったことを、新徴組の小物である目明しの弥次郎が知らせに来てくれたのだ。


 庄内藩の下屋敷を改装した屯所は、痛みに呻く男たちの声で埋め尽くされていた。近隣から呼び集められたのだろう町医者に交ざって、アーシアも手当に奔走している。


「面目もない。不覚を取った……」


 茣蓙にうつ伏せになった林太郎の顔は悔しげに歪んでいた。その背中は血の滲む包帯に覆われている。背中の傷は逃げ傷と言い、武士の恥とされた。それを負わされたうえに命を取られなかったことに対しての悔しさだったのだ。


「林太郎さんがおめおめこんな傷を負うとは思えません。何があったのですか?」


 しかし、沖田が背中の傷を責めることはない。林太郎は天然理心流の大先輩であり、幼い頃はその指導も受けていたのだ。齢十よわいとおを数える頃には試合で負けることはなくなっていたが、その堅実な剣運びと幼子に負けても腐ることのない高潔さに沖田は大いに学んできた。

 そもそも、剣術下手であれば新徴組六番組組頭という大役を任されるはずもない。贔屓目を抜きに客観的に見ても、林太郎は一流の剣客なのである。


「後ろから突然足を引かれた。何をされたのかはっきりはわからんが……野次馬に伏兵が隠れ、手鎖か何かを投げてきたのではないかと思う」


 そして林太郎は続ける。


「あんな児戯に引っかかるとは……。周斎先生に面目が立たん。宮本武蔵などと名乗るものだから、二刀流の方にすっかり気が取られてしまった」

「宮本武蔵!?」

「なんだ? 心当たりがあるのか?」


 驚きの声を漏らした沖田に林太郎は疑問を返す。

 あんな胡乱な人物がいれば新徴組の探索網にも当然かかっているはずだが、これまで噂にも聞いたことがないのが腑に落ちないのだ。


「心当たりはありますが……」


 言いかけて、沖田は口をつぐむ。

 坂本龍馬に関わるお役目は幕府の秘事である。たとえ義兄が相手であっても安易に明かしてよいものではない。


「そうか。総司君が一目置くほどの相手にやられたのであれば私も多少は面目が立つってところかな」


 事情を察したのか、林太郎はそれ以上深く聞きはしない。

 新徴組でも家族に明かせない任務はある。それをあえて聞き出そうとは思わないのだ。


 しかし、


「到底、捨て置けるものではないですね」

「ああ、将軍家指南役を声高に罵倒してのこの狼藉だ。幕府も無視はできないだろう」


 柳生流は幕府の武力の象徴的な存在と言える。

 開祖柳生宗矩から始まって、柳生流に敗北の記録はない。その剣技を独占しているのが柳生流と将軍家なのだ。将軍家門外不出の御留おとめ流と言ってもいい。

 しかし、その一方で「柳生流は実は弱いのではないか」という議論も表沙汰にはならないものの、巷ではかまびすしくなっている。幕末の江戸は剣術が大流行しており、武士のみならず町人や百姓までも剣術を習い、一家言を持っているのだ。


 江戸で流行った剣術はその名もずばり江戸三大道場である。「技の千葉」と呼ばれた千葉周作率いる北辰一刀流を筆頭に、「力の斎藤」の神道無念流、「位の桃井」と呼ばれた鏡新明智流きょうしんめいちりゅうが多数の門人を抱えていた。そんなのが身近なものだから、自然と「最強の剣術流派はどれか」といった話題が酒の肴になる。


 他流試合を積極的に行う町道場に対し、柳生流は幕府開闢以来一切の他流試合を行っていない。神秘のベールに包まれている……などといえば聞こえがいいが、「負けを恐れて試合をしないのだ」という声も少なくない。いや、むしろそちらの方が大きくなっていると評した方が正確だろう。幕府の権威の低下に伴って、柳生流までもが格を落としているのが現状だった。


「当然だ。将軍家指南役をおおやけに侮って許されようはずもあるまい」

「中沢殿?」


 沖田と林太郎が話しているところに、若い男が割って入った。

 細面で月代を剃らず前髪を下ろしている。これ自体は当世風で珍しいというほどのこともないが、その顔つきが目を引いた。

 一口に言えば、美しい。

 鼻筋の通った瓜実顔は上等な蝋燭のように白く透き通り、切れ長の瞳を長いまつげが縁取っている。薄紅色の唇は一流の浮世絵師が筆で引いたように鮮やかだった。

 人の見た目にこだわることはない沖田だが、さすがにこれには唾を飲み込んだ。


「お初にお目にかかる。新選組一番隊組長、沖田総司殿とお見受けした。拙者は新徴組六番組副組長、中沢真琴まことと申す。林太郎殿には平素より世話になっている。以後、お見知りおきを」


 中沢真琴と名乗った男は林太郎の枕元に膝をつき、軽く会釈をした。一連の所作にはわずかの乱れもなく、礼法のみならず兵法も十分に修めていることが見て取れる。


「林太郎さんの部下ですか。改めて、俺は沖田総司です。よろしくお願いします」


 こんなところでかしこまった座礼をされるとは思いもよらず、慌てて礼を返すがその所作はいくらか見苦しかった。武士としての礼儀作法はみつから叩き込まれているのだが、荒くればかりの新選組での生活で身から離れていたところもあるかもしれない。


「ふん、これが天然理心流の麒麟児と名高い沖田総司殿ですか」


 礼の乱れを見て取ったのか、真琴はあからさまに見下すような視線を送ってくる。初対面でこの喧嘩腰は何なのだと、沖田もわずかにだが気分を害した。


「麒麟児だなんてうぬぼれてはいませんが、天然理心流塾頭の自負はあります。ご希望なら一手指南を差し上げますよ」


 なので、思わずこんな挑発を返してしまった。

 飄々として見える沖田だが、実際はなかなか短気の性である。


「ほほう、面白いですね。拙者は法神流の薙刀を使い申すがよろしいか」

「なるほど、天狗剣法ね。構わないよ。天然理心流は実戦の剣、相手の得物に注文をつけたりはしない」

「こら、総司!」


 林太郎がたしなめるが、武士が一旦吐いた言葉を飲み込めるものではない。

 沖田は真琴の背を追って、屯所の道場へと足を踏み入れた。

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