第66話 二刀流

 自宅の下屋敷を出た林太郎は、目明しの弥治郎に先導されて夜の江戸を駆けていた。林太郎は新徴組の組頭を勤めている。新徴組とは江戸における新選組のような組織であり、その剣術を以って市中の治安維持を担っていた。


 京に比べればまだマシだが、将軍のお膝元である江戸周辺の治安も悪化しており、異人や幕閣への暗殺事件が相次いでいる。中でも安政7年(1860年)の桜田門外の変は大老井伊直弼が暗殺されたことで幕府のみならず天下を震撼せしめた。続く万延元年(1861年)にはアメリカ総領事タウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンの暗殺。さらに文久2年(1862年)には坂下門外の変、翌3年には反対に攘夷勢力である肥後藩江戸留守居役の横井小楠の暗殺未遂が起きている。


 被害に遭ったのは何も異人や上級武士だけではない。押し借りという名の強盗や辻斬り、火付けなど、江戸市民に直接被害の及ぶ事件も多発していた。参勤交代の緩和によって空き家になった大名屋敷に盗賊が潜り込んでいたなどという事件まで起きている。奉行所だけではとても手が回らない状況を踏まえ、結成されたのが新徴組というわけだ。


「おかしら、もうすぐ現場です」

「虎之御門のすぐそばではないか」

「へえ、ふてえ野郎で。のぼりまでおっ立ててやがるんでさ」

「幟? 例の辻斬りではないのか?」


 林太郎の脳裏にあったのは違う辻斬りだった。尊王攘夷の大義を謳い、軍資金と称して金を強請り盗る三人組だ。断れば天誅と称して斬り捨て、金を奪う凶悪犯である。被害者には武士も含まれ、下手人は相当の手練れと見られた。


「へえ、それはそうなんですが、でも違う野郎というか……」

「どういうことだ?」

「ええっと、なんて説明したらいいのか……。と、とにかく現場に行きゃあわかりやす!」


 弥治郎の話がどうもはっきりしない。

 あまり頭が働くタチではないのだ。事情を聞き出すのは諦めて道を急ぐ。現場は江戸城の外濠そとぼりで、野次馬らしい町人たちが人垣を作っていた。辻斬りなどあれば真っ先に逃げ出すものなのに、一体どうしたことだろう。


「御用である! 退けい、退けい!」


 大喝して人垣を割くと、そこに広がっていたのはあまりにも意外な光景だった。

 十人以上の武士が斃れていたのだ。みなうつ伏せで背中が血で濡れている。頭巾を被った浪人が三人。残りは奉行所の同心や新徴組の仲間たちだった。


 死屍累々の中央には、折りたたみの床几に腰を掛けた男がいた。乱雑に刈った赤い坊主頭。腰の左右に大小を二本ずつ差し、毛皮の肩衣かたぎぬを羽織った背中からは、槍、鉾、薙刀、刺股、長柄槌、金砕棒かなさいぼうが剣山のように突き出している。


 そして目を引いたのは男が杖代わりに突いている幟だった。長竿に貼られた白い布に、黒々と太い字で「天下無双、二天廻厭かいえん流宮本武蔵」と大書されている。

 男は林太郎を見るなり、呵々と笑って言った。


「ふはははは! 次はお主か?」

「この狼藉はお主の仕業か。一体どこの何者だ。恐れ多くもお上のお膝元でかような振る舞い、許されるものではないと知れい」


 林太郎は取り合わず、まずは誰何すいかする。

 宮本武蔵を騙るのは正体をたばかるための目眩ましだろう。まともな返答があるとは思えないが、訛りや言葉遣いから正体の手がかりが得られるかもしれない。


「これは異なことを申される。ここにはっきり書いているではないか。さてはお主、手習いは不得手か?」


 坊主頭がまたしても大笑すると、それにつられて人垣の町人たちからも笑い声が上がる。一体何なのだこの状況は。


「弥次郎よ、やつは何者だ?」

「へえ、宮本武蔵と書いてありやすが……」

「そうではない。やつが何をしたのかを尋ねておる」

「へえ、それなんですが……」


 弥次郎の話によると、あの男は新徴組の捕り物に乱入し、くだんの辻斬りを斬ってみせたのだという。斃れている頭巾の男たちがそれだ。


「ならば新徴組の隊士たちは辻斬りに敗れたのか」

「いえ、そうではなく……」


 捕り物に乱入した男は、何を思ってか今度は新徴組に刀を向けた。腕比べだ、尋常に勝負をしろ、助太刀したのだから借りがあるだろう、それを返せなどと無茶苦茶な物言いだった。

 初めは狂人のたぐいだろうと相手にしなかった隊士たちであるが、男の放った言葉にいよいよ後に引けなくなった。


「ふはははは! 所詮は徳川の犬、腰抜け揃いよ。柳生流などというへなちょこ剣法を指南役にした結果がこれだ。弱将には弱兵しか従わぬ。幕府二百年の太平が聞いて呆れるわ」


 幕府、そして将軍家へのあからさまな罵倒だ。狂人とはいえこれは捨て置けぬと刀を抜いた。すると今度は「一対一の決闘も出来ぬのか。儂はそれでも構わんが、それで負けては恥の上塗りになるぞ」と挑発される。


 では尋常に勝負をして叩きのめしてやろうと一人ずつ出ていくと、瞬く間に返り討ちにあってしまった。一戦ごとに大声で騒ぎ立てるものだから、すっかり野次馬が集まってきてしまったらしい。


「なるほど、手練れの狂人というわけか」


 林太郎は呟くと、刀を抜いて坊主頭に向けた。

 切っ先を相手の眼に向けて平らに寝かせる。天然理心流平晴眼の構えである。他流の正眼とはやや異なるこの構えは、天然理心流独特のものであった。刃筋の変化に妙があり、竹刀剣術では用いられない実戦の剣だ。道場稽古ばかりを積んできた者が初見で対応することはまずできない。


 が、しかし。


「ふはははっ! 少しは骨がありそうなのが出てきたではないか」


 坊主頭は微塵も狼狽えず、幟を離して両手で大刀を抜いた。そして逆八の字に二刀を垂らす。


(む、これは……)


 林太郎のこめかみを冷や汗が伝った。

 まるで弛緩した構えに見えるが、打ち込む隙が見当たらないのだ。飛び込んで突けば一刀で跳ね上げられ、一刀で斬られるだろう。突くと見せかけて横薙ぎにすれば無造作に突き出された二刀に串刺しだ。


 平晴眼では力が足りない。そう読み切った林太郎は今度は八相に構える。一刀では凌げない上段の打ち込みで対抗しようとしたのだ。


 が、またしても、


「真似事とはいえ、この宮本武蔵と駆け引きができるとは上出来だ。ほれほれ、早ようかかって来ぬか」


 今度は両腕を上げて二刀をバツの字に交差させた。これでは打ち下ろしでも防御を破れない。受けたのちに一刀で抑えられ、空いた一刀で反撃を食らうのは必定だ。


(宮本武蔵を名乗るだけあって、二刀流は伊達ではないか……)


 初めて相対する二刀流に林太郎は攻めあぐねていた。

 江戸の主な流派に二刀流などないのだ。九州では宮本武蔵が晩年を過ごした肥後などを中心に受け継がれているのだが、遠く江戸までは伝わっていない。実戦に重きを置き、初見殺しの技を多数持つ天然理心流の使い手だけに、警戒心が先立って打って出るきっかけが掴めない。


「腕を上げているのも疲れたぞ。腰抜けは剣の間合いもわからぬか。ほれほれ、儂から近寄ってやろう」


 坊主頭は両手を下ろし、大刀を八の字に下げてつつと前に進んだ。誘いなどではなく、まるで無防備に見える。


(誘いか……。いや、これは動揺を誘う挑発だ)


 片手持ちの下段の構えから振り下ろしの一刀に抗し得る道理はない。心で負けては勝てる勝負も勝てなくなる。林太郎は心を決め、気合一閃大きく踏み込んで唐竹に剣を振り下ろした――


「ッ!?」


 ――つもりだった。

 何かがうしろから足に絡み、つんのめって転倒する。


(伏兵!? 卑怯なっ!)


 しかし、その声を発する間もなく、背中に煮えたぎる熱湯を浴びせられたような激痛が走った。


「逃げ傷は武士の恥。よもや戦場で童子のようにすってんころりん転ぶとは、まったくまったく、徳川の兵は弱いのう。それもこれも柳生などを指南役と仰ぐからいかんのだ」


 薄れゆく意識の中で、嘲笑う坊主頭の声だけが響き渡るのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る