第65話 乙女心と秋のサンマ

(い、異人が沖田家の嫁に……!?)


 みつは狼狽えていた。

 お国が違う、身分が違う……といった程度の話ではない。弟が連れてきたのは、海を越え、遥か遠くの異国からやってきた文字通りの異国人だったからだ。

 なお、「警護をしている」という言葉はとうに頭から吹き飛んでいた。アーシアの正体が異人であること、弟が将軍後見職一橋慶喜からの密命を帯びていること、この二点で完全にみつの思考はオーバーフローしていたのだ。


 しかし、弟の嫁の面前である。

 情けない姿は見せられないと、脂汗をかきながらなんとか言葉を絞り出す。


「と、とりあえずわかったわ。それで、嵐谷さんはどこの生まれの、どんな方なのかしら?」

「嵐谷じゃなくてアーシアね。アーシアは……」


 言いかけて、沖田は考える。

 ヴァチカン伴天連から来た尼僧だと言ってよいのだろうか。伴天連は禁教で、一般には淫祠邪教のたぐいだと思われている。沖田自身はもうそんな誤解をしていないが、みつに対して改めて説明するのは難儀だろう。


「えっとね、欧羅巴えうろっぱの……すごく偉い人の……うーん、なんというか、お姫様みたいな、そういうのかな」

「お姫様!?」


 当たり障りなく説明しようとするが、どうも上手い例えが思いつかない。沖田としてはヴァチカンに対して高野山や伊勢神宮などのイメージを重ねているのだが、宗教を匂わせると結局伴天連に結びついてしまうのが厄介なのだ。

 沖田が言葉に詰まっていると、アーシアが補足をした。


「ウーン、ニッポンとそのまま同じではないので説明が難しいのデスガ……。あっ、そうデス! ヨーロッパの天皇陛下的な方にお仕えしている者になりマス!」

「て、天皇陛下!?」


 みつがまたしても仰け反る。

 アーシアの例えは的確とまでは言えないものの、しかし的外れとも言い難い。ローマ教皇は神聖ローマ皇帝の叙任を担う。これは日本で言えば征夷大将軍を任命するようなものだ。最後の戴冠式はフランツ二世の1792年であったが、別にもう二度と神聖ローマ皇帝の任命を行わないと宣言したわけでもないのだ。日本においても征夷大将軍が存在しない時期がある。近々で言えば、足利義昭が将軍職を解かれた1588年から徳川家康が征夷大将軍に就く1603年までは空位だったのだ。


 ともあれ、みつの中でアーシアは「異国のとてつもなく高位の公家のお姫様」ということになってしまった。これはこれであながち間違った解釈でもなく、普段から気安く接している沖田や土方の方がおかしいのだが……このあたりは剣を頼みに生きる無頼と、そうでない者の違いであるのかもしれなかった。


「鰻なんて下魚げうおを出してもよかったのかしら……」

「別にいいんじゃないの? 好物だし」

「ちょっ、宗次郎!」


 心配を口にすると軽い調子で応えてくるものだから思わず焦ってしまう。この時代、鰻は下魚とされ武士や公家が表立って口にするものではなかった。いや、実際には沖田家がそうであるように食していたのだが、屋台や料理屋で頼むものではなかった。出前を持って来させたり、職人を呼びつけてこっそり焼かせる家が多かった。下魚を人前で堂々と食べるのは武家の恥なのである。

 しかし、みつの心配を他所に、


「ウナギ、おいしいデス! 故郷ではぶつ切りの煮物しかなかったので、ニッポンに来てびっくりしまシタ!」


 アーシアは無邪気なものである。

 カトリックの修道院は奢侈を嫌うが食物の禁忌はほとんどない。俗説に敬虔なキリスト教徒は鱗のない魚(タコやイカ)を食べないなどと言われるが、これはユダヤ教の禁忌からきた誤解である。イタリア生まれのアーシアは、幼い頃から魚介に親しんでいたし、何なら生魚も食べていた。


「そ、そうおっしゃっていただけるなら……」

「旬になったら秋刀魚も食べさせたいな。アーシアも秋刀魚はまだ食べたことないでしょ?」

「こらっ、宗次郎!」

「何だよ、さっきから変な姉さんだな」


 アーシアが日本に来たのは去年の冬だ。サンマの旬はまだ経験していないはずである。秋が来たら美味いサンマを食わせてやりたいと思っただけのことなのに、姉がいちいち突っかかってくる。


 一方、みつからすればサンマなど下魚も下魚である。高貴なお姫様に出してよいものではない。

 秋になると大量に獲れ、時に田畑の肥料にも転用されるサンマは武家や公家が口にする魚ではないのだ。江戸時代は小氷期に当たり、令和の現代と比べるとずっと南までサンマが回遊しており、外房の辺りでは毎年のように豊漁だったのだ。

 外房で獲れたサンマを開いて塩を打ち、江戸に持ってくるとちょうど一夜干しの具合になり、絶品なのだ。そんなわけで有名な「目黒のサンマ」などという落語も生まれたわけだが……さすがにそれは余談が過ぎる。


 閑話休題。

 まあ、鰻と同じくこれも建前で、実際は武家であれ公家であれ、旬になれば秋の味覚として存分に舌鼓を打っていた。普段のアーシアを知る沖田からすると、みつの態度はあまりにも外向けで、いまさら何を言っているんだろうというものだったのだ。絵に描いたようなすれ違いである。


「サンマ? それは何デスカ?」

「うーんとね、細長い魚なんだけど、鰻とは違ってしゅっとしてるんだよね。秋の刀の魚と書いてサンマ。味も鰻よりはあっさりしてて、でも何ていうか、味が濃いんだよね」

「オオ! それは食べてみたいデス!」

「秋になったら食べようよ。あー、でも京でも手に入るのかな?」


 言ってから、沖田は少し考え込む。

 西と東で手に入る食材には差があるのだ。江戸では当たり前に食べられるものが京にはなかったり、その反対もある。サンマに関しては紀伊半島でも水揚げがあるため沖田の杞憂なのだが、わざわざ「秋にはサンマが食べられるんですか?」などと訪ねたりはしないため、知らなくても当然だった。


「秋、デスカ……」


 そんな何気ない一言に、アーシアが一瞬表情を曇らせたことに沖田が気がつくことはなかった。

 アーシアの任務はネクロノミコンの奪還だ。それは一日でも早く成し遂げなければならない。しかし、任務が終われば日本を後にすることになる。そして秋は半年以上も先だ。


「どうしたの? サンマは楽しみじゃない?」


 いや、自分は何を迷っているのだろう。

 一日も早くネクロノミコンを取り戻す。そのために日本に来たのではないか。


「い、いえ! そ、そうデスネ! 秋が楽しみデス! サンマ食べたいデスネ!」


 胸の奥にじわりと広がる鈍い痛みを強引に無視して、アーシアは精一杯の元気を込めて返事を絞り出した。

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