第64話 ベーコンと金髪
林太郎を見送った三人は座敷に戻る。
なんだかバタバタしてしまってろくに料理を味わえなかった沖田だが、これでようやく人心地が着いた。甘じょっぱいタレの絡んだ鰻の身はふっくらとして美味い。この時期の鰻はたいてい痩せているが、自分の帰宅に合わせて上等なものを求めてくれたのだろうと思うと頭が下がる。
みつもアーシアの世話を焼くきっかけを失ったのか、自分の膳に箸をつけ始めた。そこで沖田はあることに気がついた。みつの膳にだけおかずが一品足りないのだ。
「あれ、姉さんは鰻はいらないの?」
「え、ええ、私はお漬物だけでじゅうぶんですから」
ははあ、と沖田は事情を察した。
沖田家の台所事情は決して楽なものではない。自分が客人を連れてくると聞いて、自分の分を節約して上物を三尾見繕ったのだろう。鰻はみつの好物だ。自分ばかりが味わっていては申し訳がない。
「そういえば、いいお土産があったよ」
沖田は箸を置き、荷物からとあるものを取り出した。
油紙を解いて姿を表したのは、みつの目には茶色い石の塊のように見えた。
「なんです、それは?」
「まあまあ、見てなって」
沖田は小柄でその塊の表面を薄板のように削り出し、七輪に並べていく。最初は濃い赤色だった断面が、火に炙られると次第に脂が浮いて、ふつふつと泡立つ。鰻のタレとは違った種類の香りが広がり、生唾が出る。
「さ、どうぞ」
両面に焼き目がつき、カリカリになったところでみつの皿に移した。
みつはそれを箸でつまみ上げ、まじまじと見つめている。ぱっと見た感じは木の皮のようだ。なかなか踏ん切りがつかないのだろう。
「美味しいよ、アーシアの故郷の名物なんだ」
「美味しいデスヨ!」
「ま、まあ嵐谷さんの。そ、それじゃ頂きますね」
アーシアの名前を出してやると、案の定みつは箸を進めた。
初めは小さく一口。次に一口。また一口と、だんだん一度に口に運ぶ量が増え、ついにまるまる一枚平らげた。
「美味しい……! 何かの肉ですか、これは?」
「ああ、豚の肉だよ。べえこんっていうんだ」
「まあ、豚の」
目を丸くしているみつに、沖田は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
江戸の人間は獣肉にさほどの抵抗がないが、それでも食べるのは猪や鹿がほとんどだ。豚を飼う農家もなく、豚肉を食べるという発想自体が存在しない。生きた豚を見たことのある人間の方が少ないだろう。
「豚肉というのは存外美味なのですね」
「そのままじゃ臭いけどね。塩漬けにして干してから煙で燻すと臭みがなくなるんだよ。アーシアが作ったんだよ」
「まあ、これを嵐谷さんが」
みつは、この豚肉の干物を作ったのがアーシアだと聞いて驚いた。えへんと無邪気に胸をそらしているこの少女が、豚を捌いて干したのだろうか。世間知らずだと思っていたが、なかなかどうして武張った家の娘さんなのかもしれない。
「それと、お土産のついでなんだけど」
沖田はみつに向かって居住まいを正した。
いよいよ大事な話か、そう思ったみつも背筋を伸ばす。あの少女と一緒になりたい、ひょっとしたらすでに夫婦の約束を交わしているだとか、そういう話だろうか。事前の相談もなしに決めたものだから、家長の林太郎の前にみつに話を通し、味方をしてほしいと言うのかもしれない。
早馬の如き速度でそんな想像をめぐらしながら、ちらりと少女に視線をやる。・しかし、そちらは引き続き変わらぬ様子で食事に舌鼓を打っていた。肝が座っているのか、はたまた何も考えていないだけなのか。どうにも人物がつかみにくい。
沖田が懐に手を入れるのを、みつは緊張して見守る。
少女と交わした誓紙でも出てきたらどうしよう。いつまでも子供だと思っていた宗次郎が恋人を連れて帰ってくるとは夢にも思わなかった。胸が一杯になるような、それでいて寂しいような、複雑な感情が去来する。
とん、とみつの前に袱紗で包んだ何かが置かれた。
赤子の拳ほどしかない大きさだが、音からすると中身は重い。
まさかと思って見ていると、沖田の手が袱紗を解いた。
中から姿を表したのは、紙帯で留めた小判の束だった。
「お借りした加州清光の代金です。この刀には随分命を助けられました」
「まあ」
みつは呆れて口を押さえ、それからふつふつと怒りが沸いてきた。
その金は餞別で渡したもので返してもらう道理などない。沖田家の家計は決して楽なものではないが、家を出た弟から支援してもらうほどに落ちぶれてもいないのだ。
それに、この金の出所はどこなのか。
ひょっとして……嫌な予感が頭をよぎる。ひょっとして、あの少女から結納金としてもらったものではないのだろうか。そんな女衒のような真似をしたのだとしたら、決して許すことは出来ない。
「そんなことより、もっと何か言わなければならないことがあるでしょう」
自然、険がある口ぶりになってしまう。
だいたいあの嵐谷という少女も少女だ。良人になろうという男が家族に報告をするところなのに、何を呑気に飯など食べているのだ。
まなじりを吊り上げるみつの視線に、沖田はいよいよアーシアの正体がバレたか、と勘違いをした。どうせ滞在中、ずっと正体を隠し通すことなどできないと考えていた。よいきっかけだからここで正直に話してしまおう。
「アーシア、ちょっとこっちに」
「ハイ!」
手招きをすると、アーシアは沖田の隣に来て膝を揃えて座った。
二人は背筋を伸ばして真っ直ぐにみつを見る。
先ほどまで料理に夢中になっていたとは思えない真剣な顔だった。
みつはその表情に一瞬気圧されてしまう。
にこにこと子どものように笑っていたときは気がつかなかったが、この少女は凄絶なまでに美しい。色の薄い青い目はビードロのようで、白磁の名品のような滑らかな肌をしている。彫りはやや深く目鼻立ちがはっきりしており、芯の強さが滲み出しているように感じられた。
「伺いましょう」
みつは膳をずらして脇に置き、改めて居住まいを正し、弟が口を開くのを待った。
「もう勘づいてるみたいだけど、驚かないで聞いてほしい……アーシア」
「ハイ」
少女の手が髪にかかる。一体何をするのだろう。
不審に思っていると、銀杏髷がすっと外れ、そこから金色に輝く絹糸のような髪がふぁさりと溢れ出た。
「へ?」
みつの口から思わず間抜けな声が漏れた。
目の前で起こったことに理解が追いつかない。
「見ての通り、アーシアは異人なんだ。さる方から……いや、伏せない方がいいか。一橋慶喜様から密命を受けて、警護を担当してる」
「ひ、一橋様っ!?」
みつの目がますます大きく見開かれ、のけぞって後ろ手をついた。
(あれ? 何か勘づいてたわけじゃないのか……?)
想像以上に慌てふためく姉の姿に、沖田は困惑するばかりだった。
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