第63話 沖田みつ

「ただいま。いま戻ったよ」

「はーい、おかえりなさい」


 玄関戸を開けた林太郎が声を掛けると、家の奥から女の声がした。

 手ぬぐいを持って現れた女は、台所仕事をしていたのか襷で袖を留めていた。女は沖田の顔を見ると、


「あら、宗次郎。遅かったわね。ぼさっとしてないであなたも草鞋を脱ぎなさい」


 と、さも朝に出かけた者が帰ってきたかのようにこともなげに言った。

 沖田総司の姉、沖田みつである。

 みつは沖田の十一歳年上であるが、髪はつややかで化粧っ気の薄い肌は瑞々しく、二十歳そこそこに見える若々しさである。童顔は沖田家の血筋なのかもしれなかった。姉は姉でいつまでも大人に見えない沖田を子供扱いする癖が抜けず、元服から何年も過ぎた今でも宗次郎と幼名で呼び続けていた。


 みつは盥に水を用意しようとして、はたと沖田の後ろにいる少女に気がついた。


「あら、あなたは……宗次郎のお連れ様?」

「ハイ! アーシアと申しマス!」

「あぁしや……嵐谷あらしやさん?」


 元気良く応えるアーシアに、みつは目を丸くする。

 黒い瞳がアーシアと沖田を何度か往復し、それから上がり框に腰掛けて草鞋の紐を解いている林太郎に落ちた。林太郎はみつの視線を受け止めると、黙って「うん」と頷いた。


「ま、まあ……ごめんなさい、てっきり男の人が来ると思っていたものだからちょっと驚いてしまったわ。都からいらしたのではさぞお疲れでしょう。旅路はどうでしたか? 宗次郎は何かご迷惑をおかけでない?」


 盥に水を張りながら、みつは若干早口で続ける。

 絞った手拭いで林太郎の足を拭うのだが、水しぶきが散ってびしゃびしゃと辺りを濡らした。


 いつも泰然としている姉にしては珍しい。やはり一年ぶりに帰郷した弟に多少は心の動揺があったのだろうか。そんなことを思いながら、沖田はアーシアの草鞋の紐を解いてやる。西洋靴とは勝手が違い、いまだに草鞋には慣れないらしいのだ。


 アーシアの足袋を脱がしてやっている沖田を見て、みつは「まあ」と嘆息して口を押さえていた。


「あんまりじろじろ見ないでくれよ、姉さん」

「い、いえ、ごめんなさい。あなたも随分日に焼けたと思ってね。ほほ、おほほほほ」

「なんだよ、変な姉さんだな……」


 奇妙な笑い方をする姉を不審に思いつつ、アーシアの世話を済ませた沖田は自分も草鞋を脱いで足を拭い、屋敷に上がった。一年ぶりの我が家である。床板が軋む音さえ懐かしい気がする。


「さ、アーシア。案内するよ」

「ハイ!」


 勝手知ったるものである。沖田はアーシアの手を引いて、座敷に向かって案内をした。

 みつと林太郎はその背中を見ながら、


「り、林太郎さん、これは……」

「ああ、総司君にも春が来たんだ。嵐谷という姓はここらでは聞きつけないが、きっと京の武家か……ひょっとしたら公家の娘さんかもしれない。多少世間知らずなようだが、挙措に上品さが滲んでいるな。総司君が悪く思われないよう、精一杯おもてなししなければ」


 二人は顔を見合わせて力強く頷いた。


 * * *


 座敷では木枠で覆った矩形の七輪の上で、鰻の開きがぷすぷすと脂を弾けさせている。刷毛でタレを塗りつけると、雫が炭に落ちてじゅっという音とともに香ばしい匂いを広げた。


「さあ、鰻が焼けましたよ」


 鰻の世話をしていたみつは、頃合いを見計らってそれを取り分けた。

 焼き立ての鰻に目を輝かせるアーシアに、みつはにっこりと微笑みかける。


「嵐谷さんも遠慮なく召し上がってくださいね」

「ワア! ありがとうございマス! でも、お手伝いしなくていいんデスカ?」

「おほ、おほほほほ、お客様にそんなことをさせるわけには参りませんわ」


 その様子に、沖田はどうも落ち着かない。

 気味が悪いほどに姉の愛想がよいのだ。

 ひさびさに帰ったのだから歓迎してくれているのだと思うのだが、それにしては沖田をかまわずアーシアの面倒ばかり見ている。女が遊びに来ることなどついぞない家だから、それで舞い上がっているのだろうか。


「ささ、総司君も一献。都での武勇を聞かせてくれよ。新選組の活躍は江戸にまで伝わっているのだけれどもね、何しろ東海道を百里も先の話だ。耳が遠くなってしまってね」

「あ、ありがとうございます。ええっと……」


 一方で、林太郎は異様に沖田をかまう。

 武勇伝と言っても、坂本龍馬絡みのことは極秘で話すわけにはいかない。日々の巡察や捕り物の話を当たり障りなくするだけなのだが、それでも林太郎は、


「それはすごい!」「さすがは試衛館道場始まって以来の天才と言われるだけはある」「沖田家の家督は僕が預かる形になってしまったけれど、きっと総司君なら立派に一家を立てるはずだ」「さすがは総司君、沖田家はこれからも安泰だ」


 などと、いちいち口を極めて持ち上げてくる。

 沖田としても、みつや林太郎の最近の暮らしぶりが気になるところなのだが、とても口を挟める雰囲気ではなかった。


「そういえば僕もね、新徴組っていうのに入っているんだよ」

「新徴組?」

「新選組の江戸版って感じかな」

「へえ、そんなお役目が立ち上がっていたんですね。林太郎さんこそ、武勇伝を聞かせてくださいよ」


 新徴組とは、実を言うと新選組と発端を同じくする組織である。

 新選組の前身は浪士組と言い、もともとは将軍家茂の上洛に伴い、京の警護を担うために結成された組織だった。それが浪士組の取りまとめ役であった清河八郎の裏切りによって分裂し、京に残った者たちが新選組となったのだ。裏切りの首魁であった清河八郎は江戸に戻る道中で処断され、それに従った者は宙ぶらりんになった。


 もともと幕府を裏切ろうなどと思っていた人間たちではないのだ。清川の美辞麗句に翻弄され、清川に従った方が忠義の道に叶うと思っただけのことなのである。手駒の欲しかった幕府は彼らを吸収し、江戸市中の治安維持に宛てた。林太郎はその一員として働いているというのだ。組頭を任せられているというから、役職でいえば新選組一番隊組長である沖田と同格と言えるだろう。


 自分の話ばかりしていてもつまらない。これをきっかけに聞き手に回ろうと沖田が口を開こうとしたときだった。


「頼もう! 頼もーう! 沖田林太郎殿、お役目でござる! 例の辻斬りが現れ申した! 頼もーう!」


 門前から声が響いた。

 林太郎は「この声は弥次郎か」などと呟いて、刀を掴んで立ち上がった。


「すまないね、沖田君。近頃は江戸も物騒になって。急な仕事みたいだ」


 玄関に向かう林太郎を、みつ、沖田、アーシアが追う。

 草鞋を履き、防寒の羽織に袖を通した背中に、みつが火打ち石で切り火を切った。


「どうかお気をつけて、あなた」

「お前も嵐谷さんのお世話を頼んだよ」


 短く言葉を交わして、林太郎は御用提灯片手に夜の街へと出かけていった。

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