第61話 宮本武蔵

 その男が生まれたのは天正12年(1584年)の夏だった。播磨国(現在の兵庫県)の山中にひっそりと佇む、宮本村という貧しい集落だ。

 天下布武に王手をかけた織田信長が本能寺で明智光秀に討たれ、羽柴秀吉がその光秀を討ち取って天下に覇を唱えた。戦国の終りが見え始めたそういう時期である。


 いわゆる地侍と呼ばれる身分の子に生まれた。

 侍といえば聞こえはいいが、大名に仕えて扶持を得ているわけではない。父は武芸者で、新免無二斎と名乗る乱暴者だった。貧しい村で用心棒を気取り、畑仕事もろくにせず、村人から農作物を年貢の如く取り立てて生きていた。


 しかし、実際腕は立った。

 野盗などが現れると苦もなく叩き斬る。右手に大刀、左手に十手という他で見かけぬ流儀であった。十手と言っても時代劇で想像するようなものではない。先端も鈎も鋭く研がれ、三叉戟の穂に取っ手をつけたような獲物だった。これは無二斎が独自の工夫で編み出したものだという。


 その十手で相手の獲物を絡め取り、大刀でとどめを刺す。当世の道場剣術ではありえない異形の技だが、奇襲という発想は戦国の世では珍しくない。命の取り合いが基本である以上、初手の奇策ではめてしまえば勝てるのだ。殺した者が再戦を挑んでくることもない。


 しかし、武芸で身を立てるにはこれだけでは足りない。

 仕官のためにはその技を天下に知らしめなければならないのだ。だが、このような技が性根を歪めたのか、あるいはそういう性根だから異形の剣技を生み出したのか――無二斎はひたすらにその技を隠した。


 上覧試合の声がかかっても断り、野盗を討つときにも誰も引き連れず独りで向かう。修練は矢来で囲った中で行い、覗く者がいれば容赦なく斬った。子供でさえも容赦せず、無二斎の手にかかった村人の数は片手の指では数え足りない。それでも村を追い出されなかったのは、用心棒としては頼りになったことと、何より無二斎に逆らえばどうなるかわからないという恐怖によるものが大きかったろう。


 そして、無二斎が与える恐怖は息子の武蔵にも容赦なく注がれた。

 母は幼い頃に死んだと言うが、そもそも実子であるかも定かではない。武蔵が物心付く前からまるで牛馬か奴婢のように扱った。武芸を教えることもなく、一度修練を覗き見た武蔵が半殺しの目で済んだのが、この男の唯一の情愛だったかもしれないと思えるほどだ。ただ単に、便利な小間使いを失うのを嫌っただけかもしれないが。


 食事も満足に与えられぬ中、武蔵が最初に覚えたのは食える虫や野草を見分けることだった。塩や薪を余計に使えば折檻にあうので、生のまま食う。腹を下して死にかけたことは一度や二度ではない。そんなときでも無二斎は容赦なく雑用を申し付け、言う通りに出来ないと寝込んだ武蔵を打擲ちょうちゃくした。


(殺してやる)


 武蔵に宿った最初の人間らしい感情は殺意であった。

 無二斎も、無二斎に従うだけで武蔵を助けぬ村人も、無二斎を殺せぬ野盗どももみんな憎かった。その殺意を実現するため、武蔵は密かに技を練った。真正面から無二斎を殺せると思うほどうぬぼれてはいない。不意をついたただの一撃、その一撃で殺せればよい。それは奇しくも父と発想を同じくする同じく奇襲の技であった。


 村人から酒を貢がれた夜にそれは実行された。

 女中のように酒肴を運びながら、足指で掴んだ短刀を投げつけたのである。短刀を喉に生やした無二斎は、ごぼごぼと血の泡を吹いて崩折れた。遺言も辞世の句もない。武蔵は父の死骸の横で酒を飲み、酒肴を貪った。


 旨い。

 初めて口にする人間らしい食い物に、武蔵は喜びに打ち震えた。


 それから武蔵は無二斎が貯めた武器と財産を抱えて宮本村を出奔した。

 父を殺したあとは村人も皆殺しにしようと考えていたのだが、殺意はとっくに霧散していた。武蔵の殺意はあくまでも無二斎を中心に生まれていたものなのだ。起点を殺した以上、持続するものではなかった。


(旨いものが食いたい)


 次に武蔵に生まれた欲求はこれだった。

 最初のうちは旅人や野盗から路銀や食べ物を得ていたが、それでは大した稼ぎにならない。手当たり次第に酒や料理を求めているとあっという間に底をつく。何よりそんな泡銭では続かない。侍になれば扶持がもらえると聞いたが、学も伝手もない武蔵にはどうすれば仕官が叶うのかなど見当もつかなかった。


 そんなときに耳に入ったのが大戦おおいくさの噂である。

 豊臣秀吉の衣鉢を継ぐ石田三成率いる西軍と、天下の簒奪を狙う徳川家康率いる東軍が天下分け目の決戦をすると耳にしたのだ。この戦で手柄を立てれば仕官が叶い、扶持持ちになれるかもしれない。そう思い、銭雇いの兵に応募した。


 己が味方したのが西軍なのか東軍なのか、それすらもわかっていなかったが、戦場は武蔵を魅了した。その羨望の目は、きらびやかな鎧兜を身にまとい、母衣を背負って馬を駆る武者に注がれていた。それが侍大将だったのか、あるいは大名だったのかもわからない。しかし、一挙手一投足で雑兵を自在に動かす、そういう存在に憧れたのだ。


 戦は乱戦となり、勝ったのか負けたのかもわからなかった。

 武蔵は雑兵の首級をいくつかあげたが、大した手柄とは認められずに銭だけ与えられたのみだった。これが剣豪宮本武蔵の目覚めであったと言えよう。


(褒められたい。称えられたい。多くの者にかしずかれたい)


 そのためには出世をしなければならなかった。

 半ば獣のごとく育てられた武蔵には伝手も学問もない。必然的に武芸を鍛えることとなる。


 元より天稟てんぴんに恵まれていたのだろう。

 流れの武芸者を打ち倒すたび、武蔵の腕はめきめき上がった。決まった型を習っていなかったのがかえって幸いし、相対した敵の技術を水を吸うがごとく吸収したのだ。やがて京都の名門吉岡一門を打倒し、巌流島での決闘を経て武蔵の声望はいよいよ高まる。


 仕官の誘いはしばしばあったが、武蔵は食客の身分に留まった。世間は欲のないことだと持て囃したが、実際は逆である。そうしてもったいぶることで自分の価値を釣り上げようと企んだまでのことだ。


 しかし、大阪の陣も終わって武芸の価値は激減した。

 密かに狙っていた将軍指南役も、礼法や修養を重んじる柳生に奪われた。

 これからは武の時代ではないと気がついてからは書画や茶の湯に努めたが、こちらの方はあまり才能に恵まれなかったようだ。かの剣豪宮本武蔵の作として持ち上げられはするが、それ自体はつまらぬものだと陰口を叩かれた。たまに褒められるものも、養子の伊織に代筆させたものだけだ。


 晩年は肥後の金峰山の洞窟に籠もり、五輪書をまとめる。これもまた近在の高僧を脅して書かせたものだ。すっかり人の行き来が減り、武蔵は仙境に至ったのだと噂されたが、これも武蔵の宣伝戦略であった。


(褒められたい。称えられたい。多くの者にかしずかれたい。もっと、もっと、もっと、もっと!)


 そんな想いに胸の内を焦がしながら、武蔵は生涯を閉じる。

 享年六十一歳。熊本藩客分、三百石取りであった。

 柳生一万石の足元にも及ばぬ家格であった。


 ………………

 …………

 ……


(もっと! もっと! もっと! 足りぬ! 足りぬ! 足りぬ!)


 上も下もない闇の中で武蔵の魂は足掻いていた。

 ねっとりと生ぬるい油に漬けられているような空間で、何十年、何百年。

 足掻く、足掻く、足掻く。

 何の目当てもない闇の中を、足掻く。足掻き続ける。


 ……

 …………

 ………………


「やあ、武蔵さん。わしらと一緒に日本を洗濯しようぜよ」


 油の中から武蔵を引きずり上げたのは、総髪を後ろに縛った男であった。

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