第52話 屍食祭儀書

「……こんな夜更けに何の御用ですか?」


 門扉の隙間から顔を覗かせたのは水死体のような顔だった。

 通詞の男――おそらくヘンリー・ヒュースケンである。


「おう、いつかの通詞の兄ちゃんだな。この屋敷に賊が逃げ込んだ。人さらいで捕り方にも手向かいする凶悪な野郎だ。おお、危ねえ危ねえ。いまもそこに隠れてるかもしれねえなあ。あ、これが証拠だ」


 土方はまくし立てながらヒュースケンの胸元に怪人の腕を押し付け、門扉を強引に引き開ける。そのままヒュースケンを押しのけ、屋敷の中に踏み込んでいく。


「御用だ! 御用だ! 人さらいのド悪党め! 隠れてねえで出てきやがれ!」


 芝居がかった調子の大声が広いエントランスに響き渡った。

 ヒュースケンは青白い眉間にしわを寄せる。


「……騒ぎ立てるのはご遠慮ください。領事が食事の最中なのです」

「ほう、こんな夜中にメシかい? まあ起きてるんならちょうどいいや。事情を話すから案内してくれや」

「……ええ、無闇に騒がれるよりは幾分マシでしょうから」


 案内に従い、吹き抜けの階段で二階に上がる。

 通されたのは前回とは別の部屋だった。

 天井が高く、広々とした空間の中央には一度に二十人は座れそうな長テーブル。

 延々と伸びる白いテーブルクロスには点々と燭台が並び、奥にはブリュインが座っていた。

 彼の前には色とりどりの料理が並び、一番近い手元には分厚いステーキが湯気を上げている。


「……おや、領事様。お食事が進んでいないようで。ああ、ワインのおかわりはいかがですか?」


 ヒュースケンは足音も立てずブリュインの横まで進むと、テーブルに怪人の腕を置いて代わりにワインボトルを手にする。血のように赤い液体がグラスに注がれる音が食堂に静かに響く。

 しかし、ブリュインはナイフとフォークを握りしめたまま動かない。その体は凍えているかのようにぶるぶると小刻みに震えていた。


「……二週間もかけてエイジングしたとっておきなのですが。お口に合いませんか? あるいは体調が優れませんか? なに、しっかり召し上がれば体調も快復なさるでしょう。食べやすいようカットして差し上げますね」


 ヒュースケンはブリュインの手からナイフとフォークを取り上げ、分厚い肉に刃をいれる。一口大に切り取られた断面が、蝋燭の灯に照らされて薔薇色に揺らめく。

 口元に差し出されたそれを、ブリュインはおぞましい目で見つめていた。その口は固く引き結ばれ、顔中が汗で濡れている。


「……いけませんね。もう貴方は引き返せないというのに。前任のハリスのようにあなたも逃げ出すのですか?」

「――――!!」


 ブリュインが英語で何事か叫んだ。

 ヒュースケンの白い手がブリュインの顔を掴む。


「……私腹は随分肥やしたでしょう。この屍食祭儀ししょくさいぎをやり通すことによって、貴方はますますの富と栄光を手に入れる。何がそんなにお嫌なのですか?」


 水死体の顔に、薄っすらと笑みが浮かぶ。

 ブリュインの体の震えが激しくなる。


「タス……タスケテ……」


 ブリュインの口から漏れたのは日本語だった。

 ヒュースケンは肩を竦め、部屋の入口に立つ沖田たちを見やった。


「……初めておぼえた、唯一の日本語がそれとは嘆かわしい。……そのうえ、極東の蛮族だの、人間未満の黄色の猿だとさんざん馬鹿にしていた日本人に助けを求めるとは。……情けないとは思いませんか、ねえ皆さん?」


 濁った瞳が厭らしく微笑む。


「どうやら隠すつもりもねえみてえだな」

「あの気持ち悪い腕を押し付けられて、驚きもしない時点で確定でしょ」


 鯉口を斬る音が二つ鳴る。

 すらりすらりと鞘走りがして、二刀が銀色に輝いた。


「聞きてえことが山ほどあるが、ぼこぼこにされてから答えるのと、その前に答えるのはどっちがいい?」

「……荒事は苦手なんですよ。話し合いで穏便に片付けられれば幸いですね」

「そうかい。そりゃあ神妙なことだが、てめえの態度次第だな」

「……可能な範囲で協力しますよ」


 水死体の口角が上がり、細く尖った犬歯が覗く。


「まず聞いてやる。かどわかしはてめえの指図で間違いねえな?」

「……ええ、もちろん。……新鮮な肉は儀式に欠かせませんし――」


 フォークに刺さった肉を頬張り、くちゃくちゃと咀嚼する。


「……何より美味い」


 ブリュインが喉奥でえずき、ハンカチで口許を押さえた。

 土方はぺっと唾を吐き捨て、続ける。


「武器の密輸を差配したのもてめえか?」

「……そうですよ。……私が坂本さんと繋いであげました」


 坂本の名を聞き、沖田の目が鋭くなる。

 土方に代わって問い詰める。


「坂本龍馬とはどんな関係なんだ」

「……古い古い友人ですよ。……不死を得るための方法と、これをもらいました」


 ジャケットの内側から一冊の本を取り出す。

 くすんだ茶色の革張りの表紙には、見たことのない文字が刻まれていた。

 そして、その本には口が備わっている。黄ばんだ歯を剥き出しにした、人間の口があしらわれていたのだ。眼窩や鼻に当たる部分に微妙な凹凸があり、のっぺりとした人面を想起させる。


「何だそれは」

「……屍食祭儀書。……ネクロノミコンと比べれば何枚も落ちますが、立派な魔術書ですよ。……そちらの聖女様ならご存知なのでは?」


 沖田は背後のアーシアにちらりと視線を向ける。

 アーシアは砂でも吐くように答えた。


「人間の血肉を糧にする魔術が記された魔書デス。数ある魔術書の中でも、とびきりにおぞましく、忌まわしいものと聞いていマス……」

「……dat kloptダットクロプト! ……そのとおりです。……これに貴女の肉を捧げたら、どれほどの魔力が得られましょうか。……想像するだけでぞくぞくします」


 水死体の顔が禍々しく嗤っていた。

 その手が再びステーキを切り分け、今度は屍食祭儀書の口に肉を添える。

 口は青黒い舌で唇を舐めずり、差し出された肉に喰らいつき湿った音を立てながら咀嚼する。


「その肉も、そう・・なのか?」

「……もちろん。……若い農夫でしたね。……この国の人々はあまり肉を摂りませんから、臭みがなく最上級の味わいですよ。……白人とは比べ物になりません」

「外道が」


 沖田も思わず顔をしかめた。加州清光を握る手に力がこもる。

 この場で切り捨ててやりたいが、まだまだ聞かねばならないことは残っている。


「続きは番所なり奉行所なりで聞かせてもらおう。大人しくついてこい」


 白人の切っ先を向けると、ヒュースケンはおどけるように両手を上げた。


「……申し訳ありませんが、そのお願いには答えられませんね」

「これだけぺらぺらしゃべっておいて、いまさらそれが通ると思ってんのか?」

「……いえ、通るのではなく、通すのですよ」


 ざわり。

 生ぬるい風が吹いた。

 空気がまとわりつくように重くなる。


「……なぜこれほど饒舌に話したのか。……私の魔術は少々時間がかかるものでしてね」


 どこから迷い込んだのか、季節外れの蛾が一匹。

 燭台の炎に炙られて舞い狂い、テーブルの上に死骸をさらした。


「……それともうひとつ。……Als motten飛んで om de火に kaarsvlam入る夏 vliegenの虫。……凶悪犯罪者の追跡中であれば、聖女やその護衛が失踪しても不審に思う者はいないでしょう」


 水死体の顔に凄絶な笑みが浮かぶ。

 屍食祭儀書が裂けんばかりに大口を開き、耳をつんざく絶叫を発した。

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