第42話 幽霊船
沖田たち三人は関内の居酒屋にいた。
「怪しすぎるぞ、あいつぁよう」
土方が空の盃をテーブルに叩きつけるように置くと、テーブルに並んだ料理の皿がわずかに浮いてかちゃりと音を立てる。この時代、普通の居酒屋にテーブルは存在しない。床几や座敷に座り、酒も料理もそこに直接置くのだ。気の利いた店ならば御膳がつく。
この店にテーブルがあるのは外国人居留地のある関内ならではの工夫だろう。しかし、店内を見渡しても外国人の客はいない。仕事を終えたらしい商人や職人の姿がまばらにあるだけだ。
「飲みすぎないでくださいよ、トシさん」
「むふー、不思議な食感デスネ」
舐めるように酒を飲む沖田の横では、アーシアが
「ともあれ、なんであそこまで非協力的だったんですかね?」
「単純に日本人を見下してる……てぇ雰囲気もあったが、それだけじゃ説明がつかねえな」
と土方はアーシアをちらりと見る。
単なる白人至上主義者なら、アーシアを畳に正座させたままなどにはしていないだろう。
「抜け荷で私服を肥やしてる、と考えるのが普通ですかね」
「だな。抜け荷を見逃す代わりに賄賂をせしめてるんだろう」
「でも、どうやって抜け荷をしてるんですかね? 海の外から来るものは運上所で詳しく改められるんでしょう?」
「運上所の役人も抱き込まれてる……とは考えたくねえなあ」
運上所とは現代で言う税関である。箱館、兵庫、横浜、長崎、新潟、海外に開かれた五港それぞれに設けられ、輸入品のチェックを行っていた。なお、ここを通せば諸藩が武器を仕入れるのも自由である。
反乱を警戒していた幕府の対応としては不可思議だが、武器輸出を求める諸外国の圧力に負けたとも、いたずらに禁止して密輸が増えるよりはせめて数量が把握できるようにしたかったとも考えられるだろう。
「失礼いたしやす。お武家様、どうも物騒なお話をされているようで……」
「なんだ、貴様?」
横合いから唐突に話しかけられ、土方はぎょろりと鋭い目を向けた。
その視線の先には真っ黒に日焼けした中年男がいる。商人風の服装でもみ手をしているが、がっちりとした体格は隠せていない。
「あいや、失敬。決してお邪魔をしようってわけじゃないんで。抜け荷のお話をされておりやしたよね? 幕府のお役人様でしょう? ぜひお耳に入れたいことがございまして」
男はおどけるように両手を上げている。土方は「話せ」と続きを促した。
「あっしはここらで網元をしている
網元とは漁師を束ねる頭領のようなものだ。商人風の服装をしているのは商談のためだという。鯨八郎は網子が作った干し海鼠をまとめており、卸先の問屋が関内に店を構えているのだそうだ。
「それで、何が妙なのだ?」
「まず、霧が深けぇ夜中にしか出ねえんですよ。あっしは影しか見てねえんですが、形からして異国の船なのは間違いねえかと。でもですね、いつもいつも蒸気の音がさっぱりしねえんです」
この時代、外国から訪れる蒸気船は帆走と蒸気機関を組み合わせたものが主流だ。順風のときは帆走のみにして石炭を節約したりするのだが、いつも蒸気機関を使わないというのは明らかに不審だ。人目を避けるためにエンジン音を立てないようにしていると考えるのが自然だろう。
「それだけじゃねえんです。若けぇ衆が正体を確かめてやろうと小舟を漕ぎつけようとしたことがあるんですが――」
紫紺の霧を裂いて船を進め、見えてきた船体は明らかに異様な姿だった。
帆はぼろぼろに裂け、波に洗われる喫水線にはフジツボや牡蠣殻がびっしり張り付いている。船腹を覆う木板はところどころ腐って変色し、穴が空いていた。難破した船が漂流してきたのだろうか。
そう考えた若者は船を漕ぎ寄せた。
海の上にもかかわらず、ぷん……と潮の匂いが濃くなる。干上がりかけ、死んだ魚にフナムシが群がる潮溜まりの臭い。冷たいはずの冬の潮風が生温かく感じる。櫂を漕ぐ手が汗ばんでくる。
黄色く光る眼が見えた。
腐って開いた船腹に。
腐って欠けた舷側に。
腐って折れた帆柱に。
闇に灯る黄色いふたつの点がびっしりと。
黒目が見えるような距離ではない。
しかしその目は、波に揺れる若者を確かに追っているように感じた。
若者は悲鳴を上げ、船首を返して慌てて岸に逃げ帰った。
「――という次第でございまして。幽霊船が出たってんで、霧のない昼でも漁に出たがらねえ野郎が増えちまって……」
「なるほどな。抜け荷の探索にかこつけて、俺たちに幽霊船を退治してもらおうってわけか」
「いやいやいや、そんなめっそうもない!」
半眼を向ける土方に、鯨八郎は慌てて頭を下げる。
「ははは、冗談だ。貴重な情報感謝するぜ」
「幽霊船と見せかけて、海上で抜け荷を受け渡しているかもしれないですね」
なにより、この抜け荷にかかわっているのは魔人坂本龍馬である。
幽霊船は偽装ではなく、本物の幽霊船を使って抜け荷を行っていたとしてもまったく不思議ではない。
「しかし、そんな怪しい船があるのに港の役人は取り締まらねえのか?」
「へい、あっしもそう思って陳情申し上げてはいるんですが……。夜中に船を出そうとすると、事故があったらどうするんだとメリケンさんから苦情があるそうで……」
大型船の夜間出港が危険なのは事実だ。
おまけに霧の出る日である。視界も悪く、潮目も読みにくい。衝突などすれば大事故になりかねない。一応は筋が通った話のため、鯨八郎はもちろん幕府の役人もそれ以上強く出られないらしい。
表向きはそういうことになっているとしても、あからさまに怪しい。
仮に無人の漂流船だったとしても、放置すればそれこそ事故を起こしかねないのだ。本来ならばアメリカ側から積極的に捜索を依頼されてもおかしくない事案である。
「それで、風の様子じゃあ明日の夜にでも霧が出そうなんですが……」
「ほう、こっちは海の素人だ。幽霊船まで行く足は貸してもらえるんだろうな?」
「へ、へい、それはもちろん……」
「まさしく渡りに船ってやつですね」
沖田の軽口に土方が豪快に笑うが、鯨八郎は引きつった笑みを浮かべていた。その頭の中では幽霊船まで舟をやってくれる網子を必死で探しているのだろう。
待ち合わせの場所と時間を決めると、鯨八郎は居酒屋を出ていった。
その背中を見送りながら、土方は盃をまた空ける。
「それにしても、妙に怪談の上手い親父だったな」
「漁師より講談師の方が向いてそうでしたね」
「うふふ……幽霊船の話はイタリアでも人気デス……。知ってますか、フライング・ダッチマン号デス……。ひっく。アフリカ南端、喜望峰……嵐にあって……神を呪って……呪われた……さまよえるオランダ人と幽霊船のお話デス……ひっく」
「あっ、静かだと思ったら!」
とろんと眠そうな目をしたアーシアの手元には、空の銚子が一本横倒しになっている。
「うふふ……日本のお酒、美味しいデスネ……。ひっく。ワインとは違った味わいデス……」
アーシアの故郷、イタリアでは子供でもワインを飲むのだが、それは水で薄めたものだ。同じ調子で薄めない日本酒を飲んですっかり出来上がっているらしい。
「あー、こりゃダメだな。亭主、勘定だ」
土方が勘定を済まし、沖田はアーシアの手を引いて店を出る。
「うふふ……世界がぐるぐる……楽しいデス……」
ふらふらと千鳥足のアーシアに、沖田はため息をつく。
このままでは転んで怪我をしそうだ。
「ああもう、しょうがないな。ほら、背中に乗って」
「うふふ……ソージ様の背中、あったかいデス……。ひっく。空から落ちるときも……あったか……」
「はは、役得ってやつだな」
「やめてくださいよ、重いんだから。あっ、こら! ちゃんとつかまってないと落ちるよ! ああもう、羨ましいんならトシさんがおぶりますか?」
「いや、俺がおぶってたら人さらいに見えちまうだろ」
早足で進んでいく土方を、沖田は耳元にアーシアの寝息を聞きながら追いかけるのだった。
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