第43話 遭遇

「本当にすごい霧だなあ」


 沖田は濃密な霧を引き裂いて進む小舟の舳先へさきに立っていた。背後からはぎいぎいと櫂を漕ぐ音が聞こえるが、振り向いても櫂を握る鯨八郎げいはちろうの姿はぼんやりとしか見えない。


「ううー、頭が痛いデス……」


 沖田のすぐ後ろにうずくまっているのはアーシアだ。昨晩の酒がまだ残っているのか、青い顔で船のへりにしがみついている。宿で休んでいるよう勧めたのだが、魔がいるのならそんなわけにはいかないと同行していた。


「この霧じゃ松明たいまつが消えねえか心配になるな」

「ご安心くだせえ。松脂まつやにをたっぷり使ってるもんで、時化しけでも消えない代物でさ」

「ほう、それは巡察でも使えそうだな。あとで作り方を教えてくれ」

「へい」


 その後ろには土方が松明を掲げて座っている。もともと精悍な輪郭が揺らめく炎に強調されて影絵のようになっていた。


 幽霊船が現れるであろう霧の中に向かう船は結局この一艘のみだった。鯨八郎はあちこちに声をかけたようなのだが、みんな祟りを恐れて引き受けなかったらしい。そのため、鯨八郎一人が船を出すことになった。関外の真っ暗な浜辺からたった一艘の船が漕ぎ出していく様子はそれこそ幽霊船に見えたかもしれない。


 鯨八郎は「漁師にゃ迷信深いもんが多いもんで……」としきりに頭を掻いていたが、その顔は哀れに引きつっていた。鯨八郎自身が幽霊船を恐れているのは尋ねるまでもなく明らかだったが、櫂を操る手つきはさすがにこなれている。


 ともあれ出せる舟が一艘だけということに変わりはない。

 隊士たちは浜辺に待機させ、沖田、土方、アーシアの三人だけが乗り込む次第になったわけだ。


 船頭の鯨八郎を含め四人を乗せた小舟は霧の海を滑るように進んでいく。

 ベタ凪で風はなく、波ものったりして海面は呼吸するように静かに上下するだけだった。

 ぎい……ぎい……と、櫂を漕ぐ音だけが立ち込めた霧に響き渡る。


「ああ、やっぱり今日も出た……」


 鯨八郎が震える声で言う。

 舟の行く手は霧に塗り込められて沖田にはまだ何も見えない。漁師とは目の出来が違うのだろう。しばらく目を凝らしていると、霧の向こうに砦のように巨大な影が写った。


 左右が持ち上がった城壁のような影が船体だろう。

 天に向けて突き出す三本の巨木は帆柱だろう。

 水平に伸びる枝は横木、垂れ下がり揺れる影は破れた帆布か。

 船体の先端からは破城槌の如き一本角は衝角だ。


 ガレオン船、という。


 沖田たちは知らぬことだが、16世紀から二百年あまりにわたって大航海時代を支えた欧州の外洋大型船だ。複数の層を持ち、最大級のものともなれば千名以上の乗員を乗せられる。まさしく海上を移動する砦なのだ。


「うわ、こんな大きい船見たことないや」

「蒸気船でもここまでのはそうはねえぞ」

「故郷でもここまでのものはなかなかありマセンヨ……!」


 距離が縮むにつれ、霧に映る船影は大きく、視界を覆い尽くしていった。

 影がじわじわと実態をあらわにする。

 腐った樫板の船体はところどころ欠けて、真っ黒な穴がぽっかりと開いていた。

 喫水線の辺りはフジツボと牡蠣殻でびっしりと覆われて、何かわからない生き物が触手を蠢かして這っている。


――……エ……レ……


 声がした。

 途切れ途切れの、ささやかな波音のような。


――……カエ……レ……


「ひいっ!」


 鯨八郎が櫂から頭を抱えてうずくまる。

 手放した櫂を土方が片手で掴んで立ち上がり、船に向かって漕ぎ進める。


――……ニ……カエ……レ……

――……ウ……ニ……カエ……レ……

――……ウミ……ニ……カエ……レ……


 黄燐の燃えるような灯がぽぽぽ……と浮かび上がった。

 腐って開いた船腹に。腐って欠けた舷側に。腐って折れた帆柱に。


「ひい……ひい……帰ります! 帰ります!」


 鯨八郎はもはや泣き出していた。

 大柄な身体を小さく丸め、たくし上げた襟で頭を覆って子どものように泣いている。


 しかし、


「すごいなあ、そのまんま怪談話だ」

「ここまでこてこてだとかえって面白くなってくるな」


 沖田と土方は堂々と立ったまま幽霊船を見つめている。

 あまつさえその顔には微笑さえ浮かんでいた。


「頭に直接響くような声……テレパシーの一種デショウカ?」


 アーシアも身を起こし、先程まで二日酔いに苦しんでいたのが嘘のようにきりりとした顔で耳を澄ませていた。


――カエ……レ……カエ……レ……カエ……レ……

――カエ……レ……カエレ……カエレ……

――ウミニ、カエレ!!!!


「ひいいいいっ!!」


 絶叫。

 数百の群衆が一斉に怒鳴るような声が頭蓋に響く。

 鯨八郎はますます小さく縮こまり、沖田、土方、アーシアも眉根に皺を寄せた。


「うるさいなあ」

「うるせえな、おい」

「二日酔いに響きマス……」


 小舟は巨船のすぐ脇までこぎつけた。

 無数の黄色い視線が一斉に集まるのを感じる。

 船腹の穴に、舷に、闇の中に数百の黄色い瞳が燃えている。


「うーん、これどうやってのぼります?」


 沖田は懐手のまま船体を見上げた。

 舷までは五六間(約10メートル)はありそうだ。


「あン? わざわざのぼってやる必要なんてねえだろう」


 土方が不敵に唇の片端を吊り上げ、腰から大刀を抜く。

 和泉守兼定。松平容保かたもり公より拝領した会津の名工の産。規則正しく波打つの目の刃紋は、土方その人と違ってまるでケレン味がない。会津武士好みの実用一辺倒の無骨な姿だが、それゆえに刀の本質――すなわち、切れ味――を映す美が宿る。


 その刃が閃き、濃霧を斜め十字に切り裂いた。


「ッしゃあっ!」


 衝撃音。

 木片が飛び散る。

 バツの字に切り裂いた船腹を、土方の蹴りがぶち抜いていた。


「新選組副長、土方歳三である! 御用改ごようあらためだ! 神妙にいたせいッ!」


 そして松明を放り込み、鯨八郎が持っていた櫂をひったくり、黄色い瞳が無数に光る暗闇へと飛び込んでいった。


「あー、もう。無茶するなあ。アーシアは舟で待ってて。片付いたら呼ぶから。それから……ええっと、鯨八郎さんは舟が離れないようお願いしますね」

「へっ、へい!」


 続けて、沖田がだんだら羽織を翼の如くはためかせて飛び込んでいく。

 鯨八郎はほとんど本能的に予備の櫂を拾い上げ、ぽかんと口を開けてその背中を見送った。


「な、何なんですか、あの方たちは……」

「日本……いえ、世界最強の騎士様たちデスヨ!」


 ふんすと胸を張るアーシアに、鯨八郎は恐怖も忘れて「はあ」と間の抜けた返事をすることしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る